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ヨハネ福音書6:51∼58「シェガレ神父の説教」

B 年間20主日 ヨハネ6,51〜58 
肉を食べ、血を飲む  2024
 
イエスはユダヤ人に「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません」と言いますが、今日の福音は難しく、司祭にとっては一番辛い説教かもしれません。ユダヤ人たちは当然この言葉に躓きます。彼らは「この人は、どのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるか」と激しく議論しています。信者である私たちもこのイエスの言葉に躓くでしょう。理解するためにこの言葉の背景にある小羊の生贄の儀式を知らなければなりません。イスラエルの人々は一年に一度、溜まった民の罪を償う(つぐなう)ために、屠られた子羊を生贄として神に捧げ、その肉を食べることによって罪が許され、命が与えられることを信じていました。それと同じようにイエスは人類の罪を負う神の小羊に譬えられ、十字架につけられ、自分の体を捧げ、血を流して、贖い(あがない)主とされ、自分の命を人類に与えてくださいます。
 肉と血の他に、イエスは自分が命のパンであることを宣言するが、その証として具体的なしるしを示し、殺される前に最初のミサである主の晩餐を行います教会の教えによるとミサには切り離してはならない四つの意義があります。ミサは記念であり、イエスの生け贄であり、感謝の祭儀であり、主の食卓を囲む交わりの場です。最近教会の中に、ミサの中心はイエスの生贄であり、交わりではないという保守十全主義のグループがあります。しかしこれは間違いです。ミサはイエスの生贄だけなら、成り立たないでしょう。ミサの四つの意義はまず記念です。イエスの示したしるしと動作、主の晩餐、十字架と復活を思い起こし、互いに愛し合いなさいというイエスの掟を思い出します。第二の意義はさっき申し上げたイエスの生け贄であり、その生贄によって私たちは、罪が許され、イエスの贖い(あがない)に与ります。第三は感謝の祭儀です。神様からいただいたたくさんの恵みのために感謝します。そして最後はミサが共に命のパンをいただく交わりです。今日の福音書は「食べる」動詞は十回ほど出ています。この食事は個々人ではなく、食卓を囲んだ共同体の食事のようなものです。皆が繋がって、精神的にも、霊的にも心が一致を目指しています。昔はミサの後に家族そろって一緒に食事を食べていました。私の家では、兄弟が15人いるが、日曜日の食事はミサのような雰囲気でした。お父さんはパンを取って、十字架のしるしを刻んで、ちぎってみなに配っていたことを思い出します。日本の昔も日曜日だけではないが、お母さんはご飯を茶碗に配り、皆に回し、神に向かっていただきますと言っています。料理の中にお父さんやお母さんの愛情と配慮が入っていることを皆が感じています。ミサでも私たちがいただいたパンの中に一人一人に対するイエスの思いと愛情が入っていて、イエスのいのちが入っています。
 イエスのパンをいただくことによって生きる力をもらい、元気づけられた私たちは互いに結び合い、神との交わりに入ることができます。ミサが終われば私たちは社会の中で地の塩と世の灯火として派遣され、イエスのように捧げられたパンとなり、愛と希望の福音を伝えられたら幸いです。

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