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マルコ7:1~23「シェガレ神父の説教」

B年間22主日 マルコ7,1−27 食事の前に手を洗うべきか 2024

今日の福音の箇所を読んで、どうしてイエスの弟子たちは食事の前に手を洗っていなかったかという疑問が浮かんできます。農村と漁村出身の彼らが衛生のルールをしらず、食事の前に手を洗う習慣がなかったでしょうか。そうではないと思います。むしろ手洗わない彼らの態度は積極的な意味があり、律法を硬く守り、思いやりのない律法学者に対する反抗のしるしではなかったかと思います。また律法学者とファリサイ派の人々が問題にしていたのは衛生ではなく、イエスの弟子が昔の人の言い伝えを守らないことでした。その反対に手を洗い、禁止された食べ物を食べていなかった律法学者とファリサイ派の人々は、自分たちが清く、いい人だと褒められたかったわけです。福音の他の箇所も「先生」と呼ばれたい彼らは、律法を守らない無学の弟子たちを軽蔑し、いつも回りの人から褒められるのを期待していたと書いてあります。
イエスは彼らの心の中にある偽善性と差別意識を見抜いて、彼らを厳しく咎め、「あなたたちは口先で神を敬うが、その心は神から遠く離れています。人間が作った言い伝えを固く守っていいながら、一番大切である神の掟を捨てています」とイエスはイザヤ預言者の言葉を引用して彼らを咎めます。そしてイエスが「汚れた者と清い者」を分けているファリザイ派の人々の考えを非難します。人を汚すものは外から体に入る豚肉などのような食べ物ではなく、心から出る軽蔑や差別的な思いです。
 こうしてイエスは、「清い人」と「汚れた人」を分ける社会の差別的な仕組みをひっくり返し、人間の尊厳と言った革命的な変化を求めています。
どの社会も人々は尊い/卑しい、清め/汚れ、を分ける人が多く、自分たちの正しさとマナーの良さを見せびらかし、いかに他の人より自分たちがいい人だと言いたがります。もしかしたら教会に来る私たちも時々、ファリザイ派的な態度を取り、他人と比較したりして、自分がいい信者、いい司祭だと言った思いを持っているかもしれません。
ファリサイ派の人々の心に潜んでいる差別意識を見抜いていながら、イエスは真の清さとは何かと教えています。確かに衛生を大切にすることは正しいことです。その意味で日本人はコロナ過の時、衛生のルール、間の距離、手洗い、マスクの着用をきちんと守ったわけです。しかし神の求める清さはそれだけではないとイエスが言いたいでしょう。人の命を脅かすものはウィルスだけではなく、人間の心から出る悪い思い、みだらな行い、盗み、殺意、 姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢などだとイエスがロングリストを作っています。
今日の箇所は聖体拝領の手の受け方についても考えさせられます。手でご聖体を許したバチカン公会議の後に、一部の信者は手が汚れたものだから口でいただくべきだと抗議しました。しかし今の教皇様は聖体拝領に触れて、口でいただいても、手で受けても、問題はありません。大切なのは自分の心にある思いです。「あなたが祭壇に供え物を捧げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい」(マタイ5,23)とイエスが述べています。とても厳しいことばです。しかしそこには福音的な生き方のポイントがあるのではないかと私は思っています。

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