見出し画像

マルコ9:30∼37「シェガレ神父の説教」

B年間25主日 マルコ9,30-37
子供を受け入れ子供のようになる 2024
  
 イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」と尋ねたら、彼らは恥ずかしくなり黙っていました。だれがいちばん偉いかと議論し合っていたからです。そこでイエスは彼らに、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と言って、彼らの心を見抜いたイエスは一人の子供の手を取って、抱きしめて、弟子達の真ん中に立たせる行動をとります。
 イエスの行動を理解するため、背景にある2000年前のユダヤ社会の状況を念頭において考えるべきでしょう。当時人々の生活は律法に支配され、律法の知識を持っていた律法学者とファリサイ派の人々が一番偉いと思われました。逆に律法教育を受けていなかった人、例えば農民や羊飼い、貧乏人、障害を持った人、また無知で、労働生産性が低い子供達は存在価値がなく、むしろ迷惑者とされていました。
 しかしイエスはどの子供も神から愛されていて、大人でなくても人間であることを示すため、一人の子供を抱きしめて、弟子たちの真ん中に立たせて、「私の名のもとに子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れる」と述べます。
 当時イエスのこの考え方は革命的でした。律法学者とファリサイ派の人々は施しや断食、厳しい修行を積んでいても、子供を受け入れなければ彼らの努力は無駄だとイエスが考えていました。もちろん子供が可愛いから、子供を受け入れるべきことを言っていません。 最近愛情の名の下、ペットのように子供を扱う大人の振る舞いは話題になっているが、児童性虐待と等しいです。 子供を受け入れることは子供の人格を尊重し、子供の疑問や意見にじっくり耳を傾け、子供が成長できるような環境を作ることです。  
 日本は、子供の人格を認めなかったイエスの時代と違って、民主主義社会の憲法のもとに子供の人権が保証されているのは大きな進歩です。しかしいま果たして子供達が受け入れられているでしょうか。残念ながらそうではない場合は多いようです。昔は生まれた子供は暖かく家族の中に受け入られて、大事に育てられたが、今は多くの親が自分たちの都合を優先し、食事の時は子供が一人で食べたり、一人で遊んだりすることはよく見かけられます。全世界の統計によると1億5200万人の子どもは10人に1人が労働させられ、過酷な条件のもとで搾取されています。イエスが求めるような子供らしい育ちができない社会は子供を受け入れる社会ではありません。
 他の福音書では「子供を受け入れなさい」だけではなく、「子供のようになりなさい」とイエスが願っています。「幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである」ということです。幼子のようになることは父なる神に信頼を置き、自分の気持ちや意見を率直にして、自分を低くすることです。
 子供ではないが、社会の中で声を上げられない小さき人々も子供のようにいじめなり、差別なり、排除なり、社会から疎外され、受けいれられていません。この社会であるからこそ、イエスがなさったように、教会は子供や小さき者を受け入れ、共同体の真ん中に立たせて、小さな人の側に立ち奉仕する教会を目指ざすのは私たちの課題でしょう。どうか私たちは聖霊の導きによって子供や小さき人々を受け入れるだけではなく、子供のようになり、心が変えられるように祈りたいと思います。
 最後に思うが私たちの教会には子供がいない...イエスが来ても子供の手をとり、抱きしめて、教会の真ん中に立たせることができない。ミサに子供がいないことは教会には未来がない。これからどうやって子供は教会にもどれるでしょうか。これは日本の司教だけだけはなく、私たちの課題だとつくづく思います

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?