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渋谷エモリー【前編】

中高時代は東横線ユーザーだったので、当時の友人と会うときは、渋谷が多かった。渋谷に何か私から称号を与えるとすれば一番「エモい」街といったところだろうか。

渋谷のエモい思い出、「エモリー」を時系列順に振り返っていきたい。

 私が渋谷に初めて降り立ったのは、中学生になる前。まだ東横線のホームが地上にあった時。
東急百貨店本店に春から着る制服の採寸をしに、母と渋谷に降り立った。
神奈川県民の私にとって、渋谷は距離はそう遠くないものの全く親近感などなく、テレビで見る憧れの大都会というイメージだった。

初めてスクランブル交差点を歩いたとき「こりゃ歯が立たねえな」と感じたのを覚えている。とにかく人が多い。騒がしい。若者の若者による若者のための街だった。そしてもちろん、その「若者」の中に、ガリ勉気味な元中学受験生が含まれるわけもなかった。
楽しむ余裕などなく、せっかく来たけど速攻で帰りたかった。ボロ負けした。
ちなみに、採寸した制服もブレザーなのになかなかにダサく、成長を見越した大きめの採寸がさらに拍車をかけた。制服のせいにするわけでもないが、中学3年間、かなりパッとせず、東京の中学校に進学し物理的に距離は近づいたものの、渋谷への接点はほぼなかった。通学に1時間弱かかり、ウォークマンが携帯よりも大切だった。
そういえば、中学時代は文芸部だった。当時はフロッピーディスクにデータを保存していた。懐かしい…。今こうしてまた文章を書いているから、本質はきっと変わってない。

 そんなこんなで高校生になった。高校も東京の高校に進学した。中学校では東京をほぼ味わうことなく、3年間が終わったので、高校ではさすがにやるしかないっしょという感じで、友達づくりだったりとにかく自分なりに頑張った。その結果そこそこ友達も増え、楽しかった。部活も先輩に一番ゆるい運動部を教えてもらい、ソフトテニス部に入った。
 渋谷へのリベンジに燃えていた私は、渋谷との接点をつくるため、渋谷にある塾に通うことにした。
当時の私は、渋谷のタワレコに猛烈な憧れがあった。
高校生になっても相変わらず音楽に救われる生活で、地元である横浜モアーズのタワーレコードによく訪れていた(モアーズ店は閉店し、現在は横浜ビブレにタワーレコードがある)
横浜のタワーレコードが確か1フロアだったのに対し、渋谷はビルまるまる1つがタワーレコードである。渋谷のタワレコに足を踏み入れるの夢だった。
音楽=かっこいい、渋谷=イケてる、すなわち、渋谷のタワレコ=最強 
という単純な数式があったと思う。
塾でちょこちょこ話すようになった女の子がシティーガールで、駅からタワレコの場所を教えてくれた。たしかその日は夏の暑い日で、外気温と冷房でキンキンに冷えた店内のギャップが余計に都会的だった。入口でもらったタワレコのロゴが入ったうちわは、家に帰っても大切に使っていた。
初めての渋谷タワレコはすごくワクワクした。渋谷は相変わらず居心地が悪かったが、タワレコの中は息が深く吸えた気がした。音楽好きという共通点が安心材料になったのだろうか。
その中でも、自分の知らないロックバンドのフライヤーや宣伝POPは輝いて見えた。
毛皮のマリーズというバンドがすごくかっこいい!という情報をゲットし、YouTubeでMVを見漁った。それらの関連動画をたどる形で、私の音楽の嗜好が構成されていった。


その後、渋谷に行く用事がある度に、パワースポット感覚でタワレコに顔を出すようになった。探しているCDも渋谷のタワレコなら大体あった。好きなアーティストのインストアライブにも足を運んだ。


なち~な~


3年生のときに文化祭の演劇で使う音源を探しにタワレコに行ったことがあった。
そのとき探していた音源はクラシック洋楽系で、サブカル寄りの私に出る幕はなかった。
当時、クラス演劇に携わっていたものの、運営スタイルにはかなり不満をもっていた。
(クラス演劇だけで2000字は余裕で書ける。人生の中である意味一番生き生きしていた。)
正直「なぜ行かねばならんのか」と思っていた。クラス演劇を牛耳っていたクラスメイトもそんな私の空気が気に食わず、わざと巻き込んだと思う。
一緒に探すふりをしながら、クラスメイトをまき、他のフロアで大森靖子のライブDVDを買った。大森靖子の音楽は当時の荒んだ心にすさまじく沁みた。DVDには珍しくセットリスト全曲のスコアブックがついていた。しばらく使う機会はなかったが、最近ギターを購入し、そのスコアブックでギターの練習をしている。

なち~な!

渋谷、悪くない。


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