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個人における消費行動の重要性

これから定期的にnoteを書いてみようと思う。

哲学書やビジネス書を中心に読む機会が多いため、自分の中での情報の整理、考察をメインに。


1. なぜ、noteを書こうと思ったか

きっかけは2つ

  1. 読書を通してインプットはあるもののアウトプットの機会を設けたかった

  2. 友人がnoteで自分の体験をアウトプットしていて単純に自分も何か残したかった

①に関しては、知識ストックを貯めないと読書を通しての自分の力が最大限にならないと感じる場面が多い。
例えば、友人や仕事の人と話している時にこの話題本で読み発言することが多々あるが、それは表面的な知識で言わば金の延金を口から出しているような感覚。
金の延金は、夏目漱石の「それから」という一説の中で財閥を一代で築いた無学な父とそれを軽蔑する息子との会話の中で、名著や逸話を自分の解釈もなく、そのまま口にしている父に対して息子が言った言葉である。
要は、勉強したものをなんの洞察もなしにそのままアウトプットに繋げている、ということ。
本を読んで、学びになった!面白かった!というだけでは自分の知識ストックとして成立しないため、noteを通じて整理、洞察を深めたいという目的である。

②は大学の友人が海外赴任や旅行を通して感じたことをnoteにアウトプットしており、そこでは観光名所の見所や旅のポイントなどを記載するような内容で赤の他人がやっていたら見もしないと思いが、大学の時に隣にいた近しい友人が英語を喋って外国人と会話をし、一人で旅を完遂する姿を想像すると劣等感と猛烈な焦りがあった。
であれば、本は読んでるし、何か書いてみよう!といった具合である。

誰かに向けて何かを伝えたいnoteではなく、自分に向けた自分のための内容なのでご了承いただきたい。

2.なぜ哲学書を読むのか

ここは絶対に残したい箇所なので、本論に入る前に少しだけ。
私が読むものは哲学の解説書ではなく、哲学書の作者が書いているオリジナルのもの。

なぜ、オリジナルにこだわるのか、なぜ哲学書を読む理由は大きく分けると2つ。

  1. 哲学としての知識、教養のインプット

  2. 哲学者の考察を追体験できること

①は正直、おまけみたいなもの。
考え方のベースや何かもやもやしていたものの言語化をしてくれるものなので、とても面白いが年代を昔に遡ると時代背景や国籍も違うため参考にならないことも多いのは事実。
なので知識や教養を効率よくインプットすることを目的とするのであれば、解説書などが良いのかなと思う。

②が大きな目的であり、哲学書を読む醍醐味である。
追体験とは、著者の思考プロセスを本を読むことで体験すること。
哲学書は何かの結論を導き出すために、過去の概念や哲学を否定をする。何かを肯定するために否定するのです。(大事なことだから2回)
否定するには何か説得力のあるエビデンスを示さなければならないが、それは別の哲学者の話や生物学、歴史学など幅広い分野から引用して自らの考えを示す。
この体験はクリティカルシンキングの力が養われ、普段の仕事や私生活に複利的に活きてくる。
クリティカルシンキングをするためには?という本を一冊読むよりは哲学書を一冊読む方が断然お勧め。気になる方は試してみてください。

3. 本論:個人における消費行動の重要性について

お待たせしました。ここから本論です。
今回テーマとなる本が以下です。

國府功一郎さんの「暇と退屈の倫理学」
私が最も好きな本の一つ。日本の哲学者であり、同じ時代を生きる方なので、価値観も言葉も違和感なく読み進められる中でもしっかりと過去の哲学者の引用し否定し、自らの結論を導き出すのはあっぱれ。

暇と退屈

普段何気なく、退屈だ。暇だ。と口に出していることも多いと思うが、ここの違いを明確に定義できる人はどれくらいいるだろうか。
時間の概念的なこの二つの違いを明確にすると、人生が少しだけ豊かになるかもしれない。

突然ですが、
仮に自分が労働から解放されて、自由な時間ができた時にあなたに訪れる時間は"暇"だろうか、それとも"退屈"だろうか。

下の問いを考えてみてほしい

「好きなこと」は何か?という問いをされ、即座にそれを答えられる人はどれくらいるだろうか?
そして明日から1ヶ月休んでいいですよ!と言われて、じゃあこれをやろう!と決めて次の日から行動できる人はどれくらいいるだろうか?

①すぐに思いきりやりたいことを楽しむ
②1ヶ月間、何もしない時間をぼーっと過ごす
③まずはお勧めの余暇スポットと検索してやりたいことを見つける
④考えた末、自由な時間を手持ち無沙汰と感じて仕事に戻らせてほしいと懇願する


もちろん正解はない。(④と答える人がいないことを願う)
ただ、突然自由な時間を与えられても迷う人が多く、まずはお勧めのスポットを調べるためにGoogleを開く、Instagramを見てみる、雑誌を見て情報収集、土曜の昼間に王様のブランチでおすすめスポットを見てみようという

③まずはお勧めの余暇スポットと検索してやりたいことを見つける

という方が多いのではないだろうか。
そうすると、意外と自分はやりたいことはないな〜と気付くのではないだろうか。


自分のやりたいことがないし、みんながおすすめしているから、とりあえず行ってみる。
そんな時間は退屈ではないだろうか?


現代人は自由な時間にやりたいことはなく、自分の余暇時間さえも世の中の消費社会の一部に引き込まれているのである。

消費と浪費

"消費"と"浪費"の違いは?
消費はコトの消費、言わばモノの観念や意味を消費する行為である。
浪費はモノの受け取りで、必要を超えてモノを受け取る行為である。

比べてみると、消費は無限に受け取ることができて、浪費には限界があるのである。
例えば、
消費の場合、サウナブームに乗っかり都内おすすめサウナ100選を全て行こうという行為。この消費活動の目的はサウナへ行くことではなく、サウナ100選に行った自分になること、ブームに乗っている自分になることが目的のため、その間にリストが追加されたら?さらに神奈川、埼玉と全国版が出たら?キリがないのである。
浪費の場合、お腹の空いている時に町中華屋に行ってラーメン、チャーハン、餃子、エビチリを一人前ずつ頼んでしまおう。ほとんどの人がこれを食べ切るのは難しい。食べ残しが発生して、必要分より受け取っている状態。その行為によってお腹いっぱいになる目的が達成された状態。

満たされない無限の欲求を追い続けることと有限の欲求を満たす消費行動のどちらが豊かであり、幸福だろうか?

何が言いたいのかと言うと、
現代の消費社会は自らの欲求によっての消費ではなく、社会からの広告活動により消費行動を駆り立て消費させる社会であり、需要から供給ではなく、供給から需要という社会構造になっているのである。

"消費は退屈を生み、退屈は消費を生み出すループ状態に陥る"

どうするか

ここまで本の一部を紹介しながら、現代の消費社会構造について触れたが、それを踏まえて我々どうするべきか、という考察で終えたいと思う。

現代社会は消費社会であり、それは人々の豊さに繋がるのか。
普段何気なく消費しているモノ/体験は、果たして本当に自分が求めているモノなのか。
”個性的”という広告文言に踊らされ、皆が購入し逆に無個性になっていないだろうか。

そんな疑問を投げかけながら、
私は後世に残したいものに対してお金を支払い、その会社や活動、地域を応援することの重要性を感じてほしいと考える。
自分たちの身の回りのモノや人を見てみると、トレンド、ブランド品、ステータスや流行に乗っていることをアピールする消費活動が多い。
その行為は現代の消費社会を助長させるもので、ますます自分の欲求がわからなくなり、豊さや幸福から遠のいてしまうのではないだろうか。


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