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CSR、組織と利害関係者と責任

前回は、「責任」を「信頼」という補助線で説明してみました。
その「責任」を含むCSRというビジネス用語がありますね。
一般的には「企業の社会的責任」と訳すのでしょう。
もちろん、それだけを聞いても何のことだかイメージできませんね。

それでは、CSRとはどのような意味なのか、「まやかしのCSR」にならないためのポイントは何か、できるだけ細かく、分かりやすく、具体例を交えてのイメージ作りをしていきます。

CSRとは、「Cooporate Social Responsibility」という3語の頭文字をとっていますから、この3語を順番に取り上げていきます。

まず「Cooporate」ですが、一般的な和訳「企業の」ではなく、もう少し広く「組織の」と考えておきます。
日本語の「企業」では、営利を目的としない自治体や学校といった「組織」が除外されてしまいますが、CSRを必要とするのは企業ばかりではなく、すべての組織を対象とする必要があるという理由で「Cooporate」は「組織の」と理解しておきます。
この点はそれほど異論は出ないかと思います。
ちなみに、CSRの国際規格であるISO26000では、CSRから「C」を取り払ってしまって、単に「SR」つまり「社会的責任」の国際規格として策定されています。
これは「企業だけではないよ。あらゆる組織が対象だよ」と宣言したものと解釈できます。

次に「Social」ですが、「社会的な」というだけでは、CSRを具体的にイメージする手助けになりませんね。
「社会とは何か」について、ここでは少し角度を変えてイメージしてみます。
スタートラインは「自分(あなた)」です。
我々の周囲にはたくさんの「利害関係者」がいますね。
「自分(あなた)」にとっての利害関係者も、両親、兄弟、子供、配偶者、親戚、友人、同僚、先輩、上司、部下、隣人、などなど枚挙に暇(いとま)がありません。
しかし、彼ら彼女ら「利害関係者」は(あなたにとって)いろいろな重みをもっていて、決して同じ存在ではありませんね。私の場合も同じです。
そしてさらに、たとえば「私(筆者)の娘」の周囲にも同様にたくさんの利害関係者が存在し、「私の娘の親友」の周囲も同様です。
これを無限連鎖のように広げていけば、最終的には「全員」に広がります。
それが社会全体です。
ただし、それは「私(筆者)にとっての社会」の「見え方」であって、読者のあなたにとっての社会とは「見え方」が異っているはずです。
決して同じには見えていない。
社会は、全体としては同じはずなのに、各個人それぞれからの(社会の)「見え方」は同じではない、これが大切なポイントです。
こうしたことは、企業や組織にとっても全く同様であり、たとえば「トヨタ自動車(という組織)から見た社会」と「早稲田大学(という組織)から見た社会」は、同じに見えていないのです。
これは、それぞれの周囲にいる利害関係者の違いによって生じるものであって、各組織にとってCSRの(真ん中のSの)「Social」とは「利害関係者の無限連鎖としての全体」であり、「直接関係する利害関係者」がその組織にとっての「社会の入り口」である、ともいえるでしょう。
したがって、前述のSRの国際規格ISO26000にはステークホルダつまり利害関係者という言葉が頻発するのです。

最後に、「Responsibility」ですが、これについては、前回触れました。
ごく簡単にいえば、「責任を果たす」こととは「(相手方からされた)信頼を裏切らないこと」、仮に裏切ってしまったら「責任を取る」こと、でした。
その「相手方」のことを上記の「利害関係者」に置き換えてみると、企業や組織が、(お客様など)利害関係者からの信頼を裏切らないこと、これがCSRのイメージです。

とりわけ、企業や組織の「本業」にあたること、代金や料金や税金などをもらって提供している商品やサービスについて考えてみると、一般的には「商品・サービスを提供してもらっている側の利害関係者」は、関連する大量の情報の専門性と秘匿性によって、「信頼せざるを得ない」という事実があります。
「疑うことを許されない」というよりも、「疑うために十分な時間も知識も技能も与えられていない」のです。
ただただ、ひたすらに信頼するしかないのです。
だからこそ、信頼された側は、その「本業における信頼」を裏切らないように「本業における責任を果たす」ことを求められているのです。
それがCSRであり、CSRという言葉が再び脚光を浴びることになった理由でもあります。

実は、昔(1990年代以前)に一時広まったCSRは、現在のそれとは異なって、「本業”以外”の社会貢献活動」というイメージでした。
「時間・人材・金銭面で余裕のある大企業が、本業とは別の分野で社会貢献をする」という旧タイプCSRのイメージを今でも頭の中に色濃く残している高齢者が意外に少なくないということも、見落とせない事実でしょう。
こうした人たちがCSRを侮(あなど)っていることが多いのも、こうした歴史的背景が原因と思われます。
前回も、この世の中は「信頼せざるを得ない社会・時代」だと指摘しました。
そうだとすれば、この世の中の「信頼」を全部集めてきたものと、それぞれに対応する「責任」を全部集めてきたものを天秤にかけたとき、釣り合ってもらうと、とても良い社会である、といえるのでしょう。
しかし、残念ながら、圧倒的に「信頼」が大きく(重く)なっていて、そのために「潜在的な無責任」が増加してしまっており、その結果としての不幸な事故や事件が頻発している、現代社会はそんな構造になってしまっています。
これが「本業におけるCSR」が2000年代にそのニーズを高めていった背景といえるでしょう。

もちろん、我々の社会では、「信頼を裏切らないこと」だけでは足りません。
というのも、「信頼を裏切らない」だけでは、現状維持(メンテナンス)に過ぎないからです(もちろん、現状維持だけでも大変ですが…)。
というのは、現状維持だけでは、「今困っていること、放っておけないこと」もそのまま現状維持になってしまって、困ったままになりますね。
これらは解決してもらわなければいけません。

そこで、現在の社会にもう一つ大切なのは「期待に応えること」、つまり「今はできていないことに挑戦して解決すること(挑戦と解決、イノベーション)」です。
「信頼」と「期待」、あるいは「メンテナンス」と「イノベーション」、この両輪の「区別」を意識しながらであれば、誤解されがちな事柄も、正しく理解できることがあります。
たとえば、「環境マネジメントシステム(EMS)」の値打ちは、その典型でしょう。 そのお話は次回に。(*^_^*)

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