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【映画評】デイヴィッド・フィンチャー監督『エイリアン3』(Alien3, 1992)

 物語が始まった時点で、あろうことか、あれだけ苦労して生き残った前作の主要人物三人のうち二人(ニュート/ヒックス伍長)が死亡している。主人公のリプリー(シガニー・ウィーヴァー)こそ死んではいないが、いわゆる「DOA(dead on arrival)」(即ち「到着時死亡」)状態の主人公が語り始めるシニシズムに満ちたフィルム・ノワールよろしく、「取りかえしのつかなさ」(加藤 424)を大気に充満させている。
 のちにそれ自体が労働監獄と知れる、しかもリプリーが来るまでは男しかいなかった惑星フィオリーナは、フレチェロウが言うように、なるほど「フーコー的な色合い」を持ち、染色体と犯罪に関する「医学的なこじつけ」(フレチェロウ 167)にも満ちている。
 無論、そもそも女性が主人公を務めているのであるから、このシリーズをフィルム・ノワールの系譜に位置付けるわけにはいかない。だが、『エイリアン3』は、蜘蛛女的ファム・ファタルが男たちを手玉にとる映画とも見える。そう、リプリーは、ハラウェイのクトゥルー新世における「スパイダー・ウーマン」にも、ラブクラフトのクトゥルフ神話における「古きもの」に近いように見えるのだ。
 冒頭のシーンを想起してほしい。フィオリーナに不時着するリプリーは、あるいは彼女と共にやってきた「何者か」が「犬」に寄生して変態を遂げる様子は『遊星からの物体X』(The Thing, Dir. John Carpenter, 82)の冒頭で南極に不時着する「ザ・シング(何者か)」さながらである。要は、男性囚人しかいないこの星に、全てのエイリアンの母、エイリアン・クイーンを体内に宿しつつ突如として現れるリプリーは、忌まわしい他者、あるいは異物そのものなのである。
 そのような存在としての主人公は、果たして、ほとんど全ての男たちに等しく死をもたらす。リプリーが、かろうじて理解不可能な「化け物(モンスター)」であることから逃れられるのは(彼女が言語を介する存在であることもあるが)、エイリアン・クイーンもろとも、自死を選択するからである。
 とどのつまり、フレチェロウが指摘するように、『エイリアン3』は「国家のための自己犠牲に価値を見出し、はみ出し者を帝国主義の尖兵へと仕立てる救済の物語をきっぱりと拒絶する、抵抗の物語となる」(同書 173)。シリーズ第1作、第2作のヒロイズムを否定し、自らをも葬ったこの作品は、こうして実に主要登場人物を全員死亡させるのである。
 リプリーも死んだ。彼女が2作目の最後に「取り返しのつかない時点から」話り始めるテープの音声は「遺言」そのものと化し、4作目が真のDOA映画であることを予告する。

〈参考文献〉加藤幹郎『映画ジャンル論―ハリウッド映画史の多様なる芸術主義』、文遊社、2016年/カーラ・フレチェロウ『映画でわかるカルチュラル・スタディーズ』 、フィルムアート社、2001年。

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