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【映画評】ティム・バートン監督『ダンボ』(Dumbo, 2019)

 ディズニーの中にあってディズニーの破壊者でもあるティム・バートンの面目躍如(あるいは「バットマン・リターンズ・リターンズ」!)。
 蒸気機関車ケイシー・J r. がアメリカ中を駆ける冒頭のシーンがまず素晴らしい。汽車は1941年のアニメーション版『ダンボ』を継承する以前にウォルト・ディズニーの理念、延いてはディズニー・ランドを象徴する、つまりはテクノロジーと自然の調和を体現する乗り物なのだ。ところが、この度の『ダンボ』では、そのような乗り物でやってきたはずの象の親子がディズニー的なものを全て破壊し尽くすどころか灰燼に帰すのだから愉快でたまらない。
そう、蒸気機関車は「鉄馬(iron horse)」という優美な名前で呼ばれる以前は、自然を破壊する「狂龍(mad dragon)」あるいは「火龍(fiery dragon )」として万人を恐怖させた存在だったのだ。だからこそ、映画史の初期において映画興行のパトロンとなった鉄道会社は、そのような汽車のイメージを払拭しようと必死になった。
 映画史の前夜に配置される例のマイブリッジの「疾走する馬の連続写真」は、セントラル・パシフィック鉄道の社長リーランド・スタンフォードが依頼して撮らせたものだ。つまりあの写真は、蒸気機関車を恐ろしい「龍」としてではなく、美しくも力強い「馬」として(メタフォリカルに)人々に認識させようという鉄道会社の試みの端緒を開くものなのである。
 今回、バートンはそのような映画史的性格を併せ持つ汽車を「狂象(mad elephant)」と「飛行象(flying elephant)」の親子に改めて置き換え、「龍」から「馬」へという蒸気機関車にまつわる、いわばメタファーの偽装の歴史を異化したというわけだ。それが証拠に、本作の終盤、再興されたメディチ・ファミリー・サーカスでは、空飛ぶダンボの連続写真の大スクリーンへの投影が最大の演し物となっていたではないか。
 かくてアジア(恐らくはインド)からやってきた最大の動物が、永らく「白人」中産階級の理想(プリンセスと白馬の馬鹿王子様の結婚譚:注1)を象(かたど)ってきたディズニー・ランドの戯画としてのドリームランド(Dreamland)を懲らしめランド(ream land)として書き換える。
 それは、コンピュータ・グラフィックスという名のニュー・テクノロジーが、実写(写実)という名の偽りの自然を完全に凌駕した瞬間でもあった。あの象たちが群れるアジアの大渓谷は、人間のコントロールを超えて自走(自動飛行)するCGプログラムの理想郷としてあるのである。

注1:「白人」男性の代表として登場しているコリン・ファレルは、劇中ではイタリア移民?(現実にはアイルランド系)であるのみならず、片腕を失っており、ということは「白馬の王子様」たり得ず、戦争だからとうっちゃってきた子供や女性、そして奇形と蔑まれてきた人々、動物、そしてCGに共感を寄せる存在となっている。

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