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【映画評】スタンリー・キューブリック監督『シャイニング』(The Shining, 1980)

 スタンリー・キューブリックが自らの作品の中で好んで「鏡」を用いる映画作家であることはつとに知られている。もっとも有名なのは、おそらく『シャイニング』において、「REDRUM(赤ラム酒)」という口紅文字を「MURDER(殺人)」と逆転写するそれであろう。
 無論、ほとんどの彼の監督作において、「鏡」は非常に重要な役割を担わされてはいる。だが、今はとりあえず、それがスタンリー・キューブリックの作品群を読み解く「鍵」となることを願いつつ、この『シャイニング』における「鏡」について見てみることとしよう。
 まず、この物語の比較的冒頭において、主人公のジャック(ジャック・ニコルソン)の息子ダニー(ダニー・ロイド)が自宅の洗面所の「鏡」に向かって独り言つ。カメラは背中越しに「鏡」に映るダニーの顔を捉え、彼が持つ二つめの人格、予言者「トニー」の「輪郭」を明確にし、同時に彼ら一家の未来を不気味に暗示する。
 その「トニー」のいう通り、ジャックは冬期管理人として雇われ、妻子ともども深雪の中に孤立する「展望ホテル」に滞在することになるのだが、彼らが落ち着く間もなく、夫婦の寝室の「鏡」が今度はジャックの姿を捕まえる。「鏡」の中にいたはずの「もう一人のジャック」が「現し身」として入れ代わりに「こちら側」の世界へと渡河を開始するのは、まさしくその瞬間だ(注1)。
 ホテルのバー、「ゴールド・ルーム」における二つの「鏡シークエンス」は、その男がもはやかつてのジャックではないことを端的に視覚化する。というのも、カウンターで彼と向かい合う幻のバーテンダー、ロイド(ジョセフ・ターケル)は常に「鏡」を背にしているし、バーの洗面所で出会うこれまた幻であるはずの前管理人グレイディ(フィリップ・ストーン)も、やはり「鏡」を背にしながら彼に妻子の殺害をそそのかすからだ(注2)。
 実際にはそこに存在しないこれら二人の男は、畢竟、そのときどきに「鏡」に反射する「もう一人のジャック」すぎない。それはまた、入れ替わりに「鏡」の中に囚われてしまった「本物のジャック」が、自らの「輪郭」を次第に失いつつあることをも示している。
 さて、決して入ってはならないという237号室の半開きの扉からも「鏡」が二面覗いている。既にこの部屋自体が「鏡の向こう」にしつらえられたものであることがそこで明らかになっている以上、たとえ、奥の風呂場でジャックに身を投げかける美しき裸女が、「鏡」に映ったその刹那に腐乱した老婆へと変貌を遂げようとも、さらにそれがかつてグレイディのによって行われたらしい「殺人」を喚起しようとも、もう我々は驚くまい。
 終盤には、ジャックは、妻ウェンディ(シェリー・デュヴァル)によって食糧貯蔵庫に軟禁され、再びグレイディの「声」と対話することになる。一見、そこで交わされる会話には「鏡」が一切介在していないようである。しかし、その実、ジャックが一心に睨みつけるこの部屋の銀色の扉がにぶく輝いて彼の姿をぼんやりと写し取っているのを見逃してはならない。
 それは、いいかえれば、このホテルにあらゆる「鏡」という「鏡」(あるいはそれに似たもの)が、すでに、ジャックのかつての「姿」を明確に写し取ることができなくなっているということの証明だ。もちろん、そのことと、前管理人が「声」だけでしかそこに出現しえないこととの間には明らかな相関関係がある。こうしてジャック本来の「輪郭」は完全に霧散する(注3)。
 そう、『シャイニング』は、「鏡」を介して「殺人」の世界から「赤ラム酒」の世界へと越境してきた「もう一人のジャック」による「輪郭の奪取」を、ということは、「本当のジャック」の現実世界からの「消失」を(即ち「死」を)カメラに収めただけの、実にシンプルな作品なのである。
 この映画全体で20ほどある「鏡ショット」のすべてがキューブリックの明確な意図に基づいて挿入されていることは論を俟たないが、それらのシーンは、「シンメトリー」、「双子」といったこの作家に特有とされる主題群と相俟って、その作品世界自体が常に「鏡合わせ」に構成されていることを我々に示唆しもしよう。

注1;だからこそ、「もう一人のジャック」は、息子の二つの人格のうち、同じ「鏡の国」の住人である「トニー」を執拗に追いかけ捕らえようとするのである。当然、本来の息子であるダニーを殺すことでしか「トニー」を獲得することはできない。しかし、(この作品がスティーヴン・キングの『シャイニング』を原作に持つとはいえ)ジャック・ニコルソンが「ジャック」・トランス、ダニー・ロイドが「ダニー」・トランスという役名を与えられているのは、ある程度、意図的なものであるのだろうか。「トランス Torrance 」を「トランス trans- 」(「越境」を意味する接頭語)のもじりであると考えるのは穿ち過ぎにしても。
注2:この「ゴールド・バー」がその名の通り金色に統一され、光を乱反射しているのも偶然ではない。二度目のバー・シーンに現れるおびただしい数の客(の幻想)は、つまりはその「反射」そのものなのである。
注3:「輪郭」を失ったおかげで鍵のかかっているはずの貯蔵庫の扉をすり抜けることができたともいえるわけだが、自らのよって立つ場所を彼が息子を追って庭に飛び出したところで「迷路」に迷い込むだけであるのは分かりきっている。

【補遺】P. ミーハン曰く本作第二の主役はホテルだ。それはゴシック風の幽霊屋敷とは少々異なる。現代建築の巨大で空っぽな空間そのものがここでは前景化している。どこにも通じないドアや窓や廊下が(屋外のそれ以上に)巨大な迷宮を形成し観客の空間認識を狂わせる。

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