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HOW TO PRONOUNCE KNIFE/ Souvankham Thammavongsa 故郷の心、故郷の言葉

避難するということ


 先日のThe New Yorkerに、ガザ地区出身の作家さんの体験記が掲載されていた。凄まじい内容で読み上げ音声と共に集中して読みいってしまったが、何より心打たれたのは、この記事が著者のMosabさんの母語(アラビア語)と英語の双方で同時掲載されていたこと。現在の状況では、運よく国外に避難できたとして、仕事も家も家族も心もずっと故郷に取り残されることになる。不慣れな言葉ばかり話される、いつ終わるかも分からない外国での不安定な暮らしがどれほど不安で孤独なものか。もし著者と故郷と同じくして、今この時に国外に居る人にこの記事が届いたら、自分の故郷の言葉に、同郷の人の心に触れられることがどれほど大きいだろうと考えた。

故郷の言葉、故郷の心


 この記事を読んで思い出したのが、Souvankham Thammavongsaの"How to pronounce knife"という短編集。私の大好きな作品の一つ。

 著者のSouvankhamさんはラオスの難民キャンプで生まれ、家族と共にカナダに移住した経歴を持つ作家。この短編集では、自身のバックグラウンドに近いテーマとして、英語圏に移住したLaoの家族の話が集められている。ほとんどの話で、英語が話せず、仕事を失い、異文化に馴染めずに苦労しながらも生き抜く人々が描かれている。その一方で、苦しみの中にも寡黙な愛やユーモア、力強さがしっかりと見られるのが特徴的で、人間の弱さと強さ、埋められない隔たりと途切れない繋がりがどれも感じられる。読んでいて胸がいっぱいになり、1つ話を読み終わるたびに本を閉じ、ため息をつき、天を仰いだことを覚えている。
 表題作の"How to pronounce knife"では、移住先の学校で英語の読み書きを覚え始めた幼い娘の、"knife"の読み方に対する疑問が物語の始まりになっている。父親は「人前でLaoを話しちゃダメだし、自分がラオスから来たなんて言うもんじゃないよ。知られていいことなんてないんだから。」と娘に言って聞かせるも、父のTシャツには"LAOS"と書かれている…という場面、何も知らない私は初めはクスッと笑いながら読んでいたが、後の展開で父親は英語が全く読めないのだと知り、サーッと青ざめることになった。まさしく著者の手のひらの上で転がされている体験。この話では、家族でいちばん頭が良くて、頼りになって、絶対的な存在だった父親が、小学校で習うknifeの正しい発音も娘に教えられない。いわゆる絶対者としての親の像が娘の中で(かなり早期に)崩れ、一人の人間として向き合うことになる話である。この家族の素晴らしいところは、たとえ父親がknifeを読めなくったって、箸を使って綺麗に米を食べられるとか、そういう自分たちの故郷とアイデンティティによる価値を娘が知っているところ。娘は学校での出来事をあえて家族に伝えないと言う形で、knifeのkと同じような「無音の」愛を示す。それは決して楽なものではないけれど、確かで温かな家族の結束である。
 この話とは対照的に、移住先の文化に同一化して身を守ることを選んだ家族の話も収録されている。”The School Bus Driver”という話では、移住によって仕事を失い、やっとの思いでSchool Bus Driverとして働く男が主人公。英語もうまく話せず、黄色のスクールバスを運転して生計を立てる男とは対照的に、妻は男の上司と(!)男の家で(!!)不倫してファッションも言動もアメリカンスタイルに染まり、perfect Englishで流暢に話す。男はJai(Laoで"心"という意味)の名前を持つが、妻は「この国では"jai"が"心"だなんて誰も知らないじゃない。英語じゃ何の意味もないのに。」と切り捨てる。恐ろしいことに、ナレーター(地の文)すら徹底してこの男の名前を呼ばない。美しいJaiという名前を持つ男は、この国ではただの”The School Bus Driver”でしかない。それでも男は心の中で叫び続ける。

"He looked at his first name. Jai. It rhymes with chai. It means heart. Heart."

(How to pronounce knife, Souvankham Thammavongsa, published in 2020,  p.115)

 男の妻は故郷のアイデンティティを捨て去り、新しい男を選び、移住先の文化に同一化することを選んだ。一方で、名前の意味を失いそうになっても母国の言葉を、心を叫び続ける男。この作品以外にも、故郷の人しか話さない言葉が、どれほど個人の人生に強い意味を持つか、というテーマの作品が複数収録されている。

自分の故郷の言葉は?

 私は茨城県の出身なのだが、北関東に分布する故郷の訛りや方言を話すことができない。祖父や祖母が話していた言葉のリスニングはできるのだが、スピーキングは無理、という感じ。東北に移住してからというもの、みちのくの強烈な祭り文化に圧倒されたり、完璧な津軽弁を使いこなす同年代に出会ったりと、全く一枚岩ではない多様な日本の文化に心奪われる時が多くあった。同時に、自分は地元の文化、と言えるものを殆ど継承していないのではないかと罪悪感を感じることもあった。
 私の出身の市 (もとは村)には、長い竹の先に獅子の人形をつけたデカめの人形囃子らしき演目が伝統文化として受け継がれていた。ストーリーは大まかにしか覚えていないが、親子の獅子の離別と再会、という流れだったと思う。再会した親子の獅子が体を震わせて喜ぶ様が、幼い頃の朧げな記憶にある。こういうところすら殆ど分からぬまま大人になったのである!悔しい!
 今の予定では、数年後にはまた関東のどこかに移住することになりそうなので、できれば地元の図書館や資料館を訪ねて、かの獅子たちの詳細を調べようと思う。演目に参加できるかは分からないが、少なくとも物語として語れる人になりたい。

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