見出し画像

『忍びの星』第一話

あらすじ

 善吉は、幼い頃より超一流の〈名誉の忍び〉になることを夢見る甲賀忍者の卵。里の忍術教室で長年にわたり修業を積むも、痩せっぽちで気弱な彼は、留年?をくりかえす落ちこぼれであった。
 今回もまた忍びデビューのチャンスを後輩に奪われた善吉は、さすがに心が折れかける。
「世界は広い! 里で忍びになれぬなら他国で仕官すればよい。それも一国一城の大大名に仕えるんじゃ!」
 タイプは正反対ながら、善吉の幼馴染でやはり落ちこぼれであるデブで無神経な太郎太が吠える。
 常識的な善吉は尻込みするも、病的にポジティブな作蔵の強引さに押し切られて、二人は無謀な旅に出立することとなる。


本文

 山間の村。
 牧歌的な田園風景。
 田んぼには青々とした稲が育っており、野良着姿の老人がのんびりと草刈りなどをしている。
 素朴な百姓家が点在しているが、一軒だけ、こののどかな風景に似つかわしくない豪壮な御屋敷がある。小高い土地に立っており、高い塀に囲まれ、深い堀があり、土塁や矢来が巡らされている。まるで砦のような守り。
 そこから、

 カーン
 カカーン

 と乾いた音がいくつも鳴り響いている。
                                 
 御屋敷の広々とした運動場のような前庭では、十数人の子弟たちが木刀で剣術の地稽古に励んでいた。
 年の頃は、七つから一二歳くらいであろう。まだまだ幼くあどけない男子たちであるが、健やかで気力も充実している様子だ。カンカンと乾いた響きは、かれらが木刀をぶつけあう音だったのだ。
 その様子を、一人のおきなが母屋の縁側に腰かけて眺めている。微笑んで目を細めているのか、厳しい視線を送っているのか判別がつかない。あるいはその両方であろうか。深く刻み込まれたしわと白髪白髭におおわれたその風貌は、まさに〝長老〟のイメージだ。
 この御屋敷の主にして伴一族の惣領、伴左京介ばんさきょうすけである。
 伴一族は、ここ甲賀の里を連合統治する名門二四家のうちでも、とくに忍術の達者を数多く輩出していることで名高い。
 左京介自身、若かりし頃は〝潜りの左京〟の二つ名で暗中飛躍し、全国の大名から名指しで仕事の依頼を受けたものだ。

「みなみな、今日の稽古もよう励んだ」
 左京介の声は、静謐だがよく響く。
 彼の目の前には、稽古を終えた十数人の子弟たち全員が集合し、あぐらで庭の地面に腰をおろしている。みなうっすらと汗ばみ、手足は泥だらけのまま。足元には、さっきまで剣術の稽古で打ちあっていた子供用の木刀をそれぞれおいている。
「さて何について語ろうか」
 忍術の稽古後、子弟たちにこうして訓話を授けるのがならわしである。
 ただし聴衆はヤンチャ盛りの男子たちだ。堅苦しいばかりでは教育効果はあがらない。取りあげるのは、もっぱら伝説的な忍びたちの血湧き肉躍る英雄譚である。
 今日の主役は、英雄譚としては定番中の定番、忍び界のスーパースター下柘植しもつげの佐助であった。
「月のない夜、佐助は凍てつく水濠みずぼりを魚のごとく泳ぎわたり、急峻な崖を猿のごとく這いのぼって、ついには要害険阻なる敵城に忍び入った──」
 左京介は、朗々たる名調子で語り聞かせる。
「──番兵らを音もなく討つと、佐助は城内いたる所に火付けしてまわる。その有様はまさに疾風の如くなり」
 子弟たちは、真剣な面持ちで聞き入っている。
 その中には、ピッタリと並んで座っている大河原太郎太おおがわらたろうた磯尾善吉いそおぜんきちの姿もあった。でっぷりと肥えて無神経そうなのが太郎太で、痩せっぽちで神経質そうなのが善吉だ。二人は親友であり、ともにまだ八つである。
 まさに絵に描いたような凸凹コンビだが、憧憬で目を輝かせまくっているその表情だけは、そっくり同じものだ。
「五百もの城兵はたちまち混乱を極め、逃げ散る者、闇夜で同士討ちする者さえあり──」
 ゴクリと音を立てて生唾を飲む太郎太。
 彼だけは行儀の良い他の子弟たちとちがい、英雄譚に興奮しすぎてジッとしていられないらしい。善吉の衣服を破かんばかりに力いっぱいわしづかみにしている。いっぽうの善吉は、緊張しすぎて息をするのも忘れて苦しそうだ。
「御味方の軍勢が城内に打ち入りしときには、すでに敵は滅び失せておった・・」
「「おおーっ!!」」
 太郎太と善吉は、感極まって同時に歓声をもらす。
「これぞまさしく〈名誉の忍び〉なり」
 左京介がいつもの決めゼリフで話を締めくくる。
 
                                  
 谷川に、丸木の一本橋がかかっている。
 それを太郎太と善吉が、高さに怯えてへっぴり腰になりながらも懸命にわたっている。なぜか二人とも、珍しく小ぎれいな服を身につけていたりする。
「アワワ・・!」
「おい、善吉。さようにゆらすな!」
「ちょっと体が、ふ、震えてるだけだ! そういう太郎太こそ」
「わしのは武者ぶるい。いや、忍者ぶるいじゃ!」
 大騒ぎしている二人だが、川面からの高さはわずか2メートル程である。
 ようやくわたりきり、二人は疲労困憊してその場にへたり込む。
「あったぞ! あれじゃ!」
「おお!」
 だが目的のものを見つけると、二人はたちまち元気をとりもどし、立ちあがって駆けだす。
 林の中に、小さな古びた祠があった。
 祀られているのは、役行者えんのぎょうじゃの木像である。
 長頭巾を被り、高下駄を履き、手に錫杖を持った老僧が、左右に鬼を侍らせて岩座にどっかりと腰をおろしている。祠に負けないほど古びて朽ちかけた木像だが、その顔が憤怒の形相であることはよくわかる。
 役行者は実在した仙人のような人物だが、古来より忍びの祖として仰がれているのだ。
 太郎太と善吉は、幼いなりに居住まいを正し、祠の前で仰々しく手を合わせる。
「役行者さま、どうかわれら二人、大河原太郎太と磯尾善吉を忍びの達人にしてください」
 太郎太が願いを口にする。
「役行者さま、どうかわれら二人、大河原太郎太と磯尾善吉を忍びの達人にしてください」
 善吉がそれを唱和する。
「役行者さま、どうかわれらに大手柄を立てさせてください」
「役行者さま、どうかわれらに大手柄を立てさせてください」
 二人とも、一生懸命に心を込めて祈願する。
「誰よりも修業に励みます。私心を捨て、仏法にも背きません」
「誰よりも修業に励みます。私心を捨て、仏法にも背きません」
 そして最後の言葉は、二人同時に唱える。
「役行者さま、どうかわれらを〈名誉の忍び〉と呼ばれるようにしてください」  



 七年後──。                              
「よいか! 忍び入りにおいて、鳴きまね術は生死を分かつものじゃぞ!」
 指南役である伴与五郎ばんよごろうの前に、十数人の忍びの子弟たちが横一列に整列している。
 伴家の御屋敷の前庭では、今日も忍術稽古が行われていた。
「ネコ! はじめい!」
 右端の子弟から順に、
「ニャー!」
「フニャー!」
 と猫の鳴きまねを披露していく。みな、大真面目だ。
 列の一番左端に並んでいるのは、太郎太と善吉である。
 この二人だけが一目瞭然、背丈が頭一つも二つも飛び抜けている。それもそのはずで、ほかの子弟たちが七つから一二歳であるのに、かれらだけがすでに十五にもなっているのだから。
「ニャー・・」
 善吉は自信なさそうに鳴きまねをする。他の子たちより少しは上手いようだ。
 最後は太郎太の番。
「ムニャーる! ムニャーろ! ミジャーるばぁ!」
 ふざけてはいない。熱演のつもりである。
「太郎太、わしはネコをまねろともうしたのじゃぞ! なんじゃその糞詰まりのガマガエルみたいなのは!」怒鳴られるというより呆れられている。「そんなんじゃ、おっかねえ侍にとっ捕まっちまうぞ! ネコっつうのはかようにして化けるのじゃ。ウンニャー!」
 ネコ(化け猫?)になりきった滑稽な手振り(にゃんこポーズ)までつけて手本を示す。本物そっくりとまではいかないが、辻芸なら鐚銭をもらえるレベルだ。
「よし、あとはおのおので稽古を続けろ」
                                          
 子弟たちは庭のあちこちに散らばり、指示どおりにイヌ・ネコ・ニワトリ等の動物鳴きまねの自主稽古をはじめる。みな、熱心である。
 そんな中、太郎太と善吉の二人だけは、庭のすみのほうで立ち話をしている。
「まったくつまんねえ稽古だよな。鉄砲くらい撃たせろっつうんだ」
 太郎太は不満たらたら。
「しようがないよ。子弟組なんだから」
「それより善吉、知っとるか? 噂によると次のお務めでは、子弟組からも幾人か選抜されるらしいぞ!」
 興奮で目を輝かせる。
「ああ、そうらしいな」
 対照的に善吉は陰鬱な顔つきだ。
「ついにわしらにも〝忍者始め〟を飾るときがきたんじゃぞ!」
 武士の場合、初陣のことを〝武者始め〟というが、それを忍び用にもじったのが〝忍者始め〟という呼び名である。
「どうかな? いつもそうやって騒いでは選から漏れるからな。これまで年下の者に幾人抜かれた?」                                  
「惣領の見る目がもっと確かなら、わしらはとうの昔に選ばれておるはずだったんじゃ」太郎太が愚痴る。とくに惣領の伴左京介からは、二人は露骨に煙たがられて厄介者扱いされていた。「いくらなんでも次はわしらじゃろう」
「だけど久吉と九兵衛がおるし・・」
 と前庭の中央のほうに目をむける。                                          
 久吉と九兵衛の二人だけが、槍対手甲鉤で本格的な武器術の稽古をしている。ともにまだ十二歳でありながら、大人顔負けの見事な武器さばきだ。おまけに容貌まで凛々しい。                                         
 太郎太は嫉みたっぷりに、
「あやつらがなんじゃ。まだ青臭いわっぱじゃねえか。実戦じゃ震えてるだけで、ものの役にも立たんぞ」
「・・なあ、太郎太」
 善吉は深刻な口ぶりで切り出す。
「なんじゃ?」
「おれ、こたびも外されたら忍び修業をやめねばならん」
「なに⁉」
「前にも話したろ。親父との約束で、一五の秋までに忍びになれんかったら、家業の薬師に専念せねばならんと」
「そういえばそうじゃったな。忘れとった」太郎太は自信たっぷりに念を押す。「まあ、心配には及ばん。次こそは間違いなくわしらが選ばれる番なんじゃから」

「集合じゃ! 惣領より大切なお話がある!」
 与五郎の指示が前庭いっぱいに響く。                                         
 子弟たちは、母屋の前に寄り集まる。
 母屋の縁側に腰かけているのは、伴一族の惣領である伴左京介である。齢七三に達しているはずだが、ここ十年、ほとんど容貌に変化がない。
「皆、腰を下ろせ」
 与五郎の指示で、子弟たちは地面にあぐらをかく。
「話というのは他でもない」
 左京介が、あいかわらず静かでよく響く声で話しはじめる。
「近々、十名ばかり入り用のお務めがあるが、兵を召し集めるにあたって、こたびはここにおる子弟の中からも選抜する」
 太郎太と善吉は、その言葉にハッとする。
 他の子弟たちも静かにざわめく。
「では〝忍者始め〟を飾ってもらう者の名を告げる」
 全員がシーンと静まり返る。
「久吉と九兵衛、おぬしらじゃ」
 太郎太と善吉は、二人そろってガーン!とショックの表情。
「はっ!」
 久吉と九兵衛がサッと立ち上がる。
「おぬしら両名共々、常よりの忍術精進まことに神妙の至り」
「祝着至極に存じます」
 ほかの子弟たちは、羨望の眼差しで凛々しい久吉と九兵衛の姿を見あげている。
 善吉は、すっかり諦めがついた顔でため息をつく。
「お待ちください!」
 突然、太郎太がガバッと立ち上がり、
「承服できませぬ! われら二人のほうが先ではございませぬか!」
 善吉は驚きあせって、
「おい、太郎太!」
「常よりの忍術精進ならばわれらも遅れはとりませぬ!」
「太郎太、口を慎め! 分をわきまえんか!」
 与五郎は目を吊り上げて叱責する。
 だが太郎太はそんなものは無視し、その場にガバッと土下座して、
「後生でございます! どうかわれらもコキ使ってくださいませ! 必ずや古今無双の働きをしてしんぜましょう!」
 左京介はうんざりとした様子で、
「兵の数は足りておる」
 太郎太はさらに額を地面にこすりつけて、
「どのような下っ端仕事でも厭いませぬ。大河原太郎太と磯尾善吉、命に代えましてもお役に立って見せまする!」
「決定はくつがえらぬ!」
 苛立ちのあまり、左京介の言葉には怒気さえこもってくる。
「・・おい善吉、火を貸してくれ」
 額を地面にすりつけたまま、太郎太が小声で囁く。
「何をする気だ?」
 オロオロと動揺しながらも、言われるままに懐から胴火を取り出す。
 太郎太は懐から焙烙玉を取り出し、胴火の火種で点火する。
 周囲が異変に気づき、騒然となる。
 与五郎は動揺して、
「おい太郎太! 何のマネじゃ⁉」
「わしらの覚悟のほどをとくと御覧あれ! 今日、この場にてご任命頂けぬのなら、潔く腹をふっ飛ばして果てるまで!」
 導火線が燃えている焙烙玉を、切腹の短刀のごとく自分のでっぱった腹に押しあてる。
 子弟たちは、ワッと蜘蛛の子を散らすように逃げ出す。
「太郎太・・!」
 止めることも逃げることもできず、善吉はその場に呆然と立ち尽くす。
 左京介は微動だにせず、太郎太を醒めた目で見つめている。
 導火線の火は、あとわずかで火薬部分に到達する。
 太郎太は慌てて指で火を揉み消す。
「アチチッ・・!」
 取り落とした焙烙玉が、コロコロと左京介の足元近くに転がって止まる。
 茶番であることがバレて、あたりは白けきった雰囲気に包まれる。
「・・この始末、どうやってつけるつもりじゃ?」
 左京介に静かな口調で凄まれる。
 さすがの太郎太も言い訳が思いつかず、満面の苦笑いを浮かべるだけ。
 そのとき、一度は消えたかに見えた導火線の火が、また勢いよく燃えはじめる。
「!」
「⁉」
「!」
「‼」
 爆音が轟き、一町先からでも確認できるような巨大な黒煙が前庭に巻きあがる。

 雑草が生え放題になっている荒地。
 太郎太と善吉は、球状に近い大石の上に腰をおろしている。
 ここは幼少の頃から、二人のお気に入りの席なのだ。ただし八つの頃とはちがい、今では狭苦しそうに身を寄せ合わなくてはならないが。
 善吉はサッパリとした顔で、
「あれだけのことをしでかして、よくかほどのお咎めですんだよな」
「かほどじゃと?」
 太郎太と善吉の両腕には、古びた木製の手枷が嵌められている。
「たしかに不便だけど半月の辛抱だし──」
「わしらは稽古場を出入り禁止になったんじゃぞ! つまり忍びにはもう成れんということじゃ。命を断たれたも同然だろうが!」
 太郎太が熱く吠える。
「寄合の評議で決まったことは絶対だし。どのみちおれは・・」                                          
 村の神社に近いこともあって、ここから半町ほど先に見える雑木林には通り道が作られている。その雑木林から姿を現したのは、久吉と九兵衛である。                                          
「あいつら・・!」
 太郎太は敵意を込めてにらみつける。                                          
 久吉と九兵衛は談笑しながら歩いている。いつもより小ぎれいな衣服を身につけているようだ。二人で初仕事の成功祈願でもするのだろうか。
 久吉と久兵衛はチラッと太郎太たちのほうを一瞥するが、とくに気にする様子もなく通りすぎていく。                                          
「善吉、あやつらが選抜された仕事、いかなる仔細か知っとるか?」
「いや、耳にしてないな」
「ミカンを積んだ荷車の警固じゃと。金や銀ならともかく、菓子だぞ。そんなものが忍びの務めか? 選ばれんで幸いじゃったわい」
 負け惜しみが見え見えの口ぶりである。
 久吉と久兵衛の楽しそうな笑い声が小さく聞こえてくる。
「!」
 太郎太はすぐさま反応し、二人の後ろ姿をカッとにらみつける。
「今の・・わしらのことを笑ったのか?」
「ちがうだろ、たぶん」
 太郎太は気を取り直して、
「まあいい。それよりもっと大切な話がある」
「ん?」
「これを機に、わしらは里を出るべきじゃろう。仕官して、城持ちの大名に仕えるんじゃ」
「仕官? 寝惚けてるのか? 感状を持ってるような歴戦の侍がやることだぞ」
「〝城落としの孫六〟や〝刀抜きの八右衛門〟だって、今のわしらの年頃で里を飛びだしとるじゃろう」
「いや、でも、かれらとおれらとでは・・」
 いずれもそののち、〈名誉の忍び〉と称されるようになる伝説的な忍術名人たちである。
「そもそもわしらには、かような山奥の田舎はせますぎるんじゃ」太郎太は熱弁する。「土地だけじゃねえ、古臭い因習や掟ばかりで人も小さい。わしらには、もっとふさわしい輝ける場所があるはずじゃ!」
                                         
                                         
 真夜中。空には満月直前の小望月。                                         
 磯尾家の作業小屋から、ゴリゴリゴリ、という音が漏れ続けている。                                          
 円盤状の薬研車を前後に往復させて、善吉が薬の材料を引き潰しているのだ。黙々と一人で。
 明かりは、格子窓から差し込んでくる月の光と一本の自作ロウソクだけ。手枷は嵌められたままなのだが、貧弱な細腕のせいで肘までずり上げることができるため作業が可能なのだ。なんともわびしく哀れを誘う姿である。
 小屋の中には、薬材が所せましと並んでいる。植物の葉や根っこや木の実、トカゲの黒焼きにマムシの油壺漬け。天井から吊るされたコウモリのミイラまである。製薬に疎い人間が見たら、おぞましい呪術師の部屋だと勘違いしてしまいそうな光景である。
 善吉は単調な作業のせいでうんざりとため息を漏らし、手を休める。
 そのとき、コンコンと戸をノックする音。
「!」
 善吉は慌ててまた薬研車を動かしながら、
「ちゃ、ちゃんとやってる! 言われたとおり、今夜中に終わらせるか!」
「わしじゃ。開けてくれ」
 その聞き慣れた声に胸をなでおろし、善吉は立ち上がって戸を開ける。
「かような夜更けに・・。その出で立ちはどうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもあるか!」
 太郎太が怒鳴りながら小屋の中に入ってくる。すげ笠をかぶり、右の腰に鹿皮の大きな巾着袋をさげ、背中には愛用の忍者刀を差している。手枷は嵌めたままだが旅姿だ。
「里を出るといったじゃろ!」
 善吉は困惑して、
「まさか本気だったのか?」
「あたりまえじゃ!」
「大きな声を出すな! 親父が目を覚ますだろ」
 ヒソヒソ声で注意する。
「はやくおぬしも旅支度せい!」
「おれたちは謹慎中の身だぞ。それに無断で仕官することは掟で禁じられてるだろ」
「それはすでに忍び働きをしとる者に限ってのことじゃ。わしらは何ものにも縛られん勝手自由の身じゃろ」
 めずらしく正論で押してくる。
「でも急にいなくなったら、家の者も心配するだろうし・・」
「心配? あの情けの薄い親父殿と兄殿がか?」
「・・・」
 そう指摘されて善吉が思い浮かべたのは、薬作りの人手が一人減って不機嫌になっている二人の姿だった。ちょっといい気味だと思ってしまう。
「書き置きでもすればよかろう。わしもそうした」
「だいたい仕官するってどこへ・・」
「仔細は後じゃ! はよう支度せんとおいていくぞ!」
                                          
                                          
 日はまだ昇っておらず、あたりは薄暗い。
 太郎太と似たような旅姿になった善吉が、憂鬱な顔をしてトボトボと街道を歩いている。手枷を嵌めたままなので、まるで強制労働にむかう囚人のように見える。
「おい、早うこい」
 先を歩いている太郎太がせかす。
「なんでこんなことに・・・」
 善吉は嘆く。結局、いつものように太郎太の強引なペースに押し切られたのだ。
「ここじゃ、ここでよかろう」
 太郎太と善吉は、道脇に設置されている石造りの里程標のそばで立ち止まる。
 里程標には、〈甲賀一里塚〉と彫られている。旅人のための目印として、街道の脇に一里ごとに設置してあるのだ。これは甲賀のもっとも南に位置する里程標だった。
 善吉は街道の先に目をやり、
「この先はもう甲賀じゃないのか・・」
 と心細そうに漏らす。
 善吉も太郎太も、生まれてこのかた一度も甲賀の地を出たことがなかった。甲賀は隣接する伊賀の国とはちがい、近江国に属する一二の郡のうちの一つでしかない。だが二人にとっては、甲賀以外の土地はすべて見知らぬ外国だった。
 太郎太は大張りきりで、
「さあ、やるぞ! わしからじゃ!」
 石造りの里程標の目の前に立つと、自分の手枷をその上部にガンガンと打ちつけはじめる。
                                          
 ガコンッ!
                                          
 古くて乾燥している木製の手枷はすぐに音を立てて壊れ、両腕は自由になる。
「よし! 次はおぬしじゃ」
「あ、ああ・・」
 コツ、コツ・・
 コツ、コツ・・
 善吉も一里塚の上部に手枷を打ちつけはじめるが、乗り気ではないのでなかなか壊れない。
 太郎太はじれてきて、
「ええい、ほら!」
 善吉の両腕をつかみ、強引に力を貸して打ちつける。
                                          
 バカンッ!
                                          
 手枷は音を立ててバラバラに壊れる。









 




この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?