シェアハウス・ロック2312下旬投稿分

カレーもラーメンも和食1221

 食い物の話に戻る。
 国立科学博物館だったと思うけど、「和食展」というのをやっていた。行ってはいない。行けば行ったで、それなりの発見とかあったんだろうけど。
 そのポスターの真ん中に、でんとラーメンの写真があった。そうか、ラーメンも和食だったのか。そう言えば、台湾でも、大陸でも、中国ではラーメンって見なかったよな。腑に落ちた気がした。
 一方、カレーはと言えば、少なくとも20年くらい前には、インド料理店で食うカレー以外は、あれは和食だったのではないかと思う。そして、日本のカレーは、あれは丼ものの変形なのではないか。
 明治6年には既に、陸軍幼年学校では、土曜日はカレーの日となっていたそうだ。だから、もうそのころには、普通にカレーが食われていたことになる。まあ、一部だろうけど。それ以降の歴史で、だんだんと普及し、かつ和風化してきたのだと思う。
 和風化というのはなかなかの操作というか、知恵というか、なかなか優れた行為だと思う。と言うか、外国の文物を取り入れて、自家薬籠中のものとする行為が和風化だな。和風化は、結果である。
 私が子どものころ、『ものしり博士』というNНKのテレビ番組があった。このタイトルではわからない人でも、「ケペル先生」と言えば「ああ!」と思いあたるだろう。いい番組だった。「文化ってなに?」というテーマの回があり、ケペル先生が挙げていた例は、「銭湯」と「アンパン」だった。前者は独自文化だが、後者は自家薬籠文化である。パンに出会った当時の人が、パンを饅頭化したんだね。最初に饅頭化したのは、木村屋だったはずだ。
 同じデンで、カレーでも、カレー南蛮蕎麦、カレーうどん、カレー丼がある。こう並べると、20年前のフツーのカレーは、これらにラインアップするのがわかろうというものである。つまり、和食である。
 こう考えると、日本人ってえのは、大発明はできないけど、小発明は得意なんだね。このラインアップで感動するのは、カレー丼である。だって、カレー(和風)があるんだよ。そこへもってきて、さらにカレー丼だよ。これは、小発明どころか、微小発明であると言って過言ではない。発明というより、創意工夫だな。
 創意工夫と言えば、QC運動というものがあった。QCは、Quality Controlのアクロニムである。簡単に言えば、現場で、現場の作業員が、自分の職分の範囲で創意工夫をして、品質向上を図るということである。90年代だったか、アメリカでもQC運動に注目が集まり、いくつかの企業では、これを定着すべく取り組んだことがあった。
 でも、うまくいかなかったんだろうなあ。というのは、西欧社会では、労働は刑罰の一種と考えられるものなのである。刑罰である以上、自分の職掌範囲を必要十分になしとげることが大前提になる。この必要十分は、労働協約で定められており、まっとうな企業では、働く前に労働協約を読まされる。
 それ以上のことをやると、日本だったら、「よく気がついたね」かなんか言われて褒められるところだが、西欧型の労働環境では、「出過ぎたことをした」と、むしろ叱責される。
 だから、アメリカのQC運動は根付かなかったのだろうと、私は思っている。
 今回も、話がとっちらかったが、私が言いたかったことは、日本人は創意工夫の民であるということである。

五郎ちゃん、次郎ちゃん1222

 五郎ちゃん、次郎ちゃんは自衛隊員である。私は、自衛隊は違憲であると考える者だが、自衛隊員に友だちがずいぶんいる。罪を憎んで人を憎まず。また、自衛隊そのものも、違憲ではあるものの、あっちゃってるんだから(ヘンな日本語だが)仕方がないと考えている。
 さて、五郎ちゃん、次郎ちゃんと会ったのは、毎度おなじみ「寛永」である。市ヶ谷駐屯地(いまは半分くらい防衛省になったが)が近いからだ。
 ある日、なんかの加減で、五郎ちゃんが「うまいカレーが食いたい」と言い出した。また、「うまい蕎麦が食いたい」とも言った。「寛永」も蕎麦が売り物である。だから、「マスターには悪いんだけど、うまいと定評のある蕎麦屋に行きたい」と、微妙な言い方をした。五郎ちゃん、なかなか神経が細かいのである。
 うまいカレーと言えば、『シェアハウス・ロック1107』に出てきた湯島・デリーのカシミール・カレーである。ただ、やたら辛いので、辛さに耐えられるかどうか試験をした。
「寛永」から靖国通りに出て、右に曲がって二、三軒目に、インド人のやっているカレー屋があった。まあまあのカレーを食わせた。
「まずそこへ行って、ベリベリーホットを頼んで、それが食えたら連れてってやる」
と私は言った。
 ふたりとも合格。
 で、デリーに行き、カシミール・カレーを食った。五郎ちゃんの感想は私とまったく同じもので、「めちゃめちゃ辛いけど、その辛さに合った味の設計で、うまかったです」というものだった。我がシェアハウスのおじさん、我が友青ちゃんには評価がまったくできなかったカレーであったが、五郎ちゃんは自衛隊員になる前にパティシエをやっていて、味がわかるのである。
 次に会ったときに、
「カレーって、煮込めば煮込むほどうまいって感じがするでしょ。でも、フレッシュなほうがうまいカレーってあるんだよ。今度行ってみるかい」
と言って誘ってみた。彼らは異口同音に「行きます」と即答した。
 今度は、東銀座にある「ナイル・レストラン」である。インド料理店で「ナイル」はなんか変だが、店主がナイルさんだから、仕方ない。
 フレッシュなカレーも、彼らには驚きだったようだ。
 さてどん尻に控えしは、神田の「藪」である。
 私が知っている「藪」は三軒だ。神田、並木、池之端の三軒。交通の便を考えて、神田にしたのである。「寛永」からは、都営新宿線で一本。駅にして4駅。
 五郎ちゃんたちと行ったその前には、蒲鉾がいつもと違うものだったので、ちょっと冒険だったが、蒲鉾をつまみに頼み、蕎麦味噌とそれで日本酒をまず飲んだ。ここの日本酒は、菊正宗の樽酒である。木の香りがいい。蒲鉾も従来のものに戻っていた。
 ざるを二枚ずつ食った。
 五郎ちゃんの感想は、
「うまかったです。それより嬉しかったのは、『寛永』の蕎麦が水準以上だとわかったことです」
 この野郎、なかなか言うじゃねえか。

梅干は塩だけで漬けたものがいい1223

 梅干は、塩だけで漬けたものがよろしい。私は、紫蘇ですら入っているのはいやだ。
 化学調味料や、たんぱく加水分解物を使っているものなどは論外。「梅干」と称するのすら許せない。これらの苦みが梅干本来の味を邪魔する。
 論外のさらに下は、砂糖、蜂蜜等を使用することである。あれは、論外を通り越して「外道」の域に到達していると言わざるを得ない。酸っぱいのが嫌なら、梅干など食わなければよろしい。あれを考えた業者は、利にのみ走り、梅干を、しいては日本の文化を破壊した者である。
「梅干本来の味」と言ったが、塩味のなかに梅本来の薄甘さと梅本来の香りを感じるのが、梅干のうまさであると私は思っている。だから、塩味があまり強いものも歓迎しない。「薄甘さ」と「香り」が感じられる程度の塩加減がよろしい。うるさくてごめんね。これは、読んでくださっている方と同時に、「梅干」にもあやまっているのである。
 和歌山に、ある食品販売会社の仕事で取材に行ったことがある。
 紀伊半島の先端にある小さな空港で降り、そこからは取材先の手配の車になった。運転手さんは取材先の社員で、道々梅に関する解説をしてくれた。
 まず、南高梅はなぜ「南高」なのか。「南部高校」という農業高校で栽培をしていたからというのが彼の説明だった。
 これを書くにあたって、改めてWikipediaで調べたところ、高田貞楠が「内中梅」の実生苗木を60本購入し、植えたなかから優良株を選定した。これは、まず「高田梅」と名付けられた。高田貞楠さんのお父さん、南方熊楠のファンだったのかね。和歌山だからあり得る。ちなみに、私もファンである。
 1950年、上南部村で「梅優良母樹種選定会」が発足。5年にわたる調査の結果、37種の候補から「高田梅」を最優良品種と認定。調査に尽力したのが南部高校の教諭竹中勝太郎であった。
 つまり、「高」のほうは、「高田」と「南部高校」の両方にかかってるんだね。運転をしてくれた彼の説明は、当たらずとも遠からずだったわけである。まあ、素人相手だから、多少省いたんだろうな。
 南高梅の高いものは、一粒で2000円くらいするものすらある。この秘密もわかった。
 梅は落果して、地面に触れると、それだけで味が落ちてしまう。そのため、落果しそうになると、木の下一面にブルーシートのような網を張り巡らし、地面に触れるのを防ぐ。つまり、それだけ手間がかかるのである。これも納得。この網も道々見た。
 最後は、前述の食品販売会社の取引先の事務所兼販売所にお邪魔した。販売所のほうには、安い物から最高級品の梅干が並べられていて、梅干パイとか、梅干のキャラクターグッズとか、よくわからないものまで売っていた。塩だけで漬けたものはどこだよ。
 その会社の若社長がインタビューに応じてくれた。
 話のなかで、彼が言った。
「ほら、よく蜂蜜を使っている梅干があるでしょう」
「ああ、ありますね」
「あれね、ぼくが始めたんですよ」
 私は、
「おまえか!」
と言うのを必死にこらえた。言葉には出さなかったものの、顔には出てしまったかもしれない。
 

コーヒーの淹れ方1224

 60年くらいコーヒーを淹れていると、手順が決まってくる。特に考えなくとも、最適化していくんだろうと思う。

① やかんに水道水を入れ、火にかける。
② ドリッパーにコーヒーフィルターをセットする。
③ ミルで豆を挽く。ミルはフィン式である。
④ お湯が沸いたら、お湯をポットに入れる。ポットを温めるわけである。このとき、①で入れた水が必要十分だと、今日はいいことがあるような気がする。気がするだけで、いいことなどあったためしはない。
⑤ 空になったやかんに、スーパーでもらってきた水を、マグカップに2杯半入れ、火にかける。
⑥ 粉になったコーヒーを②に入れる。ミルに付いている粉は、木のへらでかきだす。その後、できるだけ粉を残さないように、プラスチックの刷毛で、掃きだす。これは、とりあえず吝嗇からである。
⑦ ⑤がそろそろ沸くので、⑥に注ぐ。とりあえず、ドリッパーの口まで。蒸らすのである。
⑧ 蒸らす間に、⑥でとり切れなかった粉をウェットティッシュで拭き、木のへら、刷毛を洗う。ていねいに拭かないと、すぐに嫌な匂いをだすのである。
⑨ 残りのお湯を注ぐ。湯が落ちるのを待つ間に、キッチンの汚れで気になったところを、ウェットティッシュで拭く。

 60年もこれをやっていると、手順は定まり、あたかも茶の湯の名人のお点前のようになると思われるかもしれないが、そんなことはない。半分寝ぼけているので、たとえば、年に2、3回は、②に豆を入れてしまい、あまりの光景にビックリして、そこで目が醒めることがある。
 ペーパーフィルターは、近所の安売りスーパーと100均とどちらが安いのか、調査(大げさな!)したことがある。スーパーのものは、100枚入り158円、100均は60枚入り100円。ところが、前者は3/103だけ安くなるカード割引があり、しかも、消費税は8%。後者は、消費税を10%しっかり取られる。計算すると、前者が1枚当たり1.65円、後者が1.83円である。
 細かいでしょ。年金生活者なんて、こんなものである。
 もうひとつ細かい話をする。⑥に出てきたプラスチック製の刷毛が、マイクロプラスチックを出すのではないかと考えているのである。だから、来年の目標は、どこやらで竹を貰ってきて、それで竹製の刷毛をつくることである。
 一時期、マイクロプラスチック汚染が騒がれ、フリースを洗濯すると大量に出るからよくないと言われたことがあった。あれはどうなったのだろう。ユニクロが、膨大な広告費を使っているので、マスコミが忖度しているのだろうか。
 もうひとつ、さらに細かい話をする。コーヒーフィルターには、漂白したものと、薄茶色で一見非漂白に見えるものがある。ある日、件のスーパーで値段を見たところ、前者のほうが安かった。ここから考えられるのは、後者は自然のままではなく、漂白したものにわざわざ「自然色」めいたもので着色しているのかもしれないということである。
 

URのさらなるメリット1225

 まず、昨日の『シェアハウス・ロック』に質問が来たので、そこから。
 お湯は、沸騰させることが原則。沸騰させなくていいお湯は④のものだけである。
 次に、「スーパーでもらってきた水」とはなんだという質問だった。スーパーでは、水道水を加工した水をくれる。この加工にはいろいろ問題、疑問があるのだが、それは日を改めてお話しする。少なくとも、この加工によって、コーヒーと飯は相当に味が違ったものになるのである。
 さて、いろんな話をしてとっちらかっているので、自分でもうっかり忘れることもあるのだが、当『シェアハウス・ロック』のテーマはシェアハウスの勧めである。7、8月ごろの話は、ほとんどそれで終始している。
 そのころの『シェアハウス・ロック』で、URはシェアハウスを認めているので、物件を選ぶにはURがいいとお話ししたこともある。そのときに言わなかった話があったので、本日はそのお話を。言い忘れたのではなく、知らなかったのである。
 我らがシェアハウスには、1階と2階にトイレがある。それをウォッシュレットにするということになり、事務所に「改造申請書」なるものを貰いにいったときに見つけたリーフレットが今回のお話の出どころである。
 7、8月ごろのシェアハウスの勧めのなかで、URだと契約更新がなく、一生居られると言った。これは私らのような老人には福音であるが、そのリーフレットによれば、さらに手厚い。
 住み替えに関するリーフレットだったのだが、まず、住み替えに際して、
① 現在の敷金を引き継ぎ可能!
とある。これは、貧困老人にとっては、本当にありがたい。つまり、次に住むところが、現在の敷金以内であれば、新たに敷金は不要ということである。
② 入居時の収入確認書類が不要!
ともあった。これも、貧困老人にあっては、心強いことである。安倍悪政以来、じりじりと年金支給額が減らされ、いまのところに入るときにすら私はぎりぎり基準内だったのに、もし万が一ここを出なければならない事態になったときにはどうしようと、心配していたのである。
 URは偉いっ! 政治のダメなところを、しっかりと埋めている感じすらする。本来は、貧困老人のケアは政治の仕事だろう。
 あ、そうそう、年金の「物価スライド」って、物価上昇、高騰等にそって、年金も上げますよってことだと、私はうかつにも思っていたのだが、「年金の増額は、物価上昇以下に抑えますよ」ってことなんだってね。ビックリした。スライドしてないじゃん。
 成田悠輔という人が、「高齢者は集団自決しろ」と言ったというが、こんなどこの馬の骨とも知れぬ人に(ホントは知ってるけどさ)、わざわざ言われるまでもないさね。日本の政治、社会そのものが自決を勧めていると思わざるを得ないことが多々ある。馬の骨に言ってもらわなくとも大丈夫である。
 なお、『シェアハウス・ロック0721』では、「日本全国で47万戸を擁する、日本最大の『大家さん』である」と紹介したが、今回調べなおしたところ、「70万戸」であることがわかった。半年足らずでいくらなんでも23万戸も増えるわけがないから、前のは情報が古かったんだろう。謹んで訂正する。

芝浜三題+11226

 歳の瀬になってくると、落語好きにとっては『芝浜』の時季である。
 私は『芝浜』という噺が本当に好きで、芝浜と聞いただけで涙が出てくる。パブロフの犬と一緒ですな。
 何回か『芝浜』の話をしようと思うので、ストーリーをまず紹介しておこう。酒好きの魚屋、と言っても棒手振りだが、それが主人公である。熊さんと言っているが、演者によっては勝っつぁんだったりする。

 魚屋の熊さんは、ここのところ酒浸りになっていて、商売もなまけている。暮も迫ったある朝、女房に起こされ、諭され、いやいやながら芝の魚河岸に出かける。ところが、女房は、起こすのを一刻間違えていたのだった。
 よって、まだ問屋は開いていない。仕方がないので芝の浜で問屋が開くのを待っていたところ、波打ち際で皮の財布を見つける。なかには二分金ばかりで五十両という大金が入っていた。
 あわてて家に戻った熊さんは、「大金を拾った」と女房に言い、「もう仕事なんかやめだ」と宣言し、前日飲み残した酒を飲んで寝てしまう。
 起きて朝風呂に行き、友だちを連れて来て、酒を持ってこさせ、仕出しを取り、どんちゃん騒ぎをやって、また寝てしまう。
 起きたら、女房に「この払いはどうするんですか」と言われ、「あの金があるじゃねえか」と返すが、「そんなものないよ。おまえさん、夢でも見たんだろう」と言われ、納得してしまう。
 飲食代の支払いの始末を女房に頭を下げて頼み、そのかわり、熊さんは心を入れ替え、酒を断ち、商いに精を出すことを約束する。
 三年後の大晦日には、借金もなく、畳も入れ替え、気持ちよく歳が越せるようになった。「人間、まっとうに働かなきゃだめだな」としみじみ女房に言う熊さんであった。
 それを聞き、「もう、この人は完全に立ち直った」と思った女房は、「あれは夢ではなく、大家さんと相談のうえ、番所に届け、一年後に持ち主が出ないと下げられてきた」と革の財布を出し、真実を打ち明ける。

 おおむね、こういう噺である。
 私らの年代の人間にとって、『芝浜』の名演と言えば、十中八九の落語ファンは、まず三代目桂三木助を挙げるだろう。現三木助の親父さんかな。私は、高座では聞けなかった。ちょっと遅れた世代だったのである。
 で、テープで聞いたのだが、あまり感心はしなかった。
 というのは、あまりに文学臭が激しく、特に、芝の浜のくだりは「この人、文学になにか劣等感でもあるのかね」という状態である。
 七代目立川談志は、三木助の『芝浜』を酷評し、「安藤鶴夫みたいなヤツのことを聞いて、変に文学的にしようとしている嫌らしさがある」と言っている。三木助は安藤鶴夫ら、学生、学者なんかの意見を取り入れて改作したわけである。三木助の『芝浜』がダメなののA級戦犯かな、安藤鶴夫は。
 安藤鶴夫で別のダメは、『週刊新潮』かなんかで、「尻尾まであんこの入っているたい焼き」を激賞したことである。私の母親は、東京府下生まれ育ちだったにもかかわらず、これに対して「やだね、田舎者(いなかもん、と読んでね)は」と言い、「尻尾は、口直しのために、わざわざあんこを入れないんだよ」と解説してくれた。東京府下生まれの田舎者に、田舎者って言われたんだからなあ。
 そのたい焼き屋は「若葉」といい、私が四谷にいたころも繁盛していた。

談志の『芝浜』1227

 五代目古今亭志ん生は、三木助の『芝浜』を批評して、「あれじゃあ夢にならねえ」と言ったという。つまり、芝浜での描写があまりに長いので、「あれじゃあ、しっかり目がさめちまうはずだ」ということである。
 だから、志ん生、その息子の志ん朝の『芝浜』では、芝の浜の描写は省かれている。こっちのほうが正解であると、私も思う。
 さて、三木助の『芝浜』を酷評した談志の『芝浜』である。今度は、私が酷評する。因果は巡る。
 談志に『現代落語論』という著書がある。主著と言っていいだろう。この本の中心命題は、「落語は人間の業を肯定する」というものである。これは、それほど大したことでもなく、まあそうかなといった程度のことだ。でも、この命題はヘン。業なんてもんがあるのは人間だけである。これは、お釈迦さまもおっしゃっておられる。だから、人間の業というのはトートロジーである。
 ところが談志はなまじ頭がいいもんだから、この中心命題から離れられなかった。拘泥しちゃったんだね。もしくは、「おれは、すごいことを発見した」とか思ったのかもしれないな。
 だから、談志の『芝浜』は汚らしい。業を肯定しちゃってるんだからね。当然そうなる。
 前回の大晦日のくだりで、女房は「もうこの人は、ああいった金をあてにせず、商売に精を出すに違いない」と確信し、本当のところを告白するが、このとき談志は女房に、「おまえさん、(真実を言ったからって)捨てちゃいやだよ」と言わせているのである。ダメだよ、これじゃあ。悪しきリアリズムである。
 だって、この話全体が、一幅のおとぎ話なんだから、こういうリアリズムはそぐわない。だってさあ、たとえば「花咲じじい」のいいおじいさんが、実は嫌なところもある人で、悪いおじいさんだって実はいいところもあったんだなんていうリアリズムは、子どもだったら混乱するだけでしょ。
 談志も、私は嫌いな噺家ではないし、事実、好きな時期もあったし、地噺なんて素晴らしいの一語だけど、この人、頭の良さが中途半端なのかね。よくわからない。
 私は、頭のいい人は好きだし、素直に「いいなあ」とうらやましがるが、中途半端に頭がいいというのが苦手なのかもしない。
 私は、残念ながら、中途半端にでも頭はよくないので、まず頭は措いておいて、中途半端のほうは筋金入りであるので、中途半端同士の近親憎悪というとこなのかもしれないな。 
 志ん朝の『芝浜』では、「仕方ないとは言え、だまして悪かったよ」と手をついてあやまる女房に向かって、亭主は、「どうぞ、お手をお上げなすって」と言っている。いいなあ。
 こっちのほうがずっといいし、だいいちきれいである。

『芝浜』の成立1228

『芝浜』は、三遊亭圓朝作で、元もとは三題噺であったというのが定説である。三題噺とは、寄席、あるいはお座敷で客から三つのお題をもらい、それらを噺のなかにおり込み、即興でつくるという噺だ。ある日のお題が、「酔っぱらい」と「皮の財布」と「芝浜」だった。 これに関して、「あるお座敷で…」と読んだことがある。どこで読んだかは忘れた。
 この説を疑問視する声もあることを、いちおう言っておいたほうがいいだろう。
 まず、『圓朝全集』に収録されていないということがあるそうだ。私は残念ながら『圓朝全集』はまったく読んでいないので、なにも言えない。でも、「収録されていない」は、収録しなかっただけに過ぎないのかもしれない。なにも言えないと言った割には言ってしまった。つまり、これをもって圓朝作でないとは言えないのである。
 八代目林家正蔵(後の彦六)は、「昔の『芝浜』は財布を拾って、長屋の連中と、めでたいってんで、みんなで歌を歌って騒ぐだけの軽い話だったよ」と述べている。これは、川戸貞吉が書き残しているという。
 川戸貞吉は早稲田大学の「落研」出身で、1961年にTBSに入社、後に演芸評論家として活動し、TBSのラジオ番組『早起き名人会』などに関わる。私は、お名前は知らなかったものの、当時、この人が関わった番組をだいぶ聞いているはずだ。
 立川談志は「(この業界で)貞やんを知らぬ者はいない。知らない奴は馬鹿かモグリだ」と評したそうだ。これは談志の著書にあった話だ。なんか、カタカナの書名だった。落語界の主のような存在だったのだろう。 
 一方、正蔵が生まれる前の速記本で、すでに現在と同じような人情噺になっているという話もある。これも、私は読んでいない。
 ところで、JR田町駅の北200mあたりのところに、山の手線をくぐる通路(ガード)がある。その通路の入り口には「雑魚場架道橋」と書かれている。「雑魚場」は「ざこば」と読み、芝金杉雑魚場と呼ばれる魚市場がこのへんにあった。ここが、『芝浜』に出てくる魚市場だろうと思われる。
 志ん朝はこの説を採用しており、『芝浜』をかけるときのまくらにこの話をすることもあった。
 三田村鳶魚は著書のなかで、魚市場の時代考証から、『芝浜』は享保時代の出来事を寛政以後に落語に仕立てたと言っている。鳶魚は『窓のすさみ』(松崎尭臣著、享保九年=1724年)に、大金を届けた芝浦の魚売りの話があるので、これを元に、当時流行っていた心学風の教訓話に仕立て、さらに高座にかけやすいように、女房と酒浸りの亭主を加えたものだろうとしている。これは、記憶だけで、原典は探せなかった。細かなところは、Wikipediaで改めて確認した。
 ここまででなんとなく思うのは、かつては、おそらくいろいろな『芝浜』が演じられていたのだろうということである。たとえば、『酢豆腐』でも、前にお話しした志ん朝の『酢豆腐』は八代目桂文楽のスタイルである。ところが、五代目柳家小さんの『酢豆腐』はまったく違う。家に訪ねて来た友人に腐った豆腐を食わせる噺になっている。
 いろんな『酢豆腐』、いろんな『芝浜』があったんだろう。基本、落語は、師匠から弟子への口伝えだからね。
 志ん朝がテープでおぼえた噺を寄席にかけたところ、楽屋にいたうるさがたの師匠から、「あんちゃん、あの噺は誰から教わったんだい」と言われたことがあるそうだ。「教わった」は、「おすわった」と読んでね。つまり、このころは、師匠に稽古をつけてもらった噺以外は、寄席にかけてはいけなかったのである。
『芝浜』がいまのスタイルになったのは、三代目桂三木助からだという説もある。「安藤鶴夫みたいなヤツのことを聞いて」(立川談志)いまのスタイルにまとめたという説だが、これは戦後のことであり、いままでお話ししたことと矛盾する。
 

いろいろな『芝浜』1229

 十代目柳家小三治の『芝浜』を、テレビだったが聞いたことがある。
 40歳前後のころだった。11時を回ったころやっと家に帰り、小腹が空いていたのでなにかつくって食うかと思い、まずテレビをつけた。
 小三治が『芝浜』をやっていた。「おまえさん、おまえさん。起きとくれよ」から聞いた。鳥肌が立った。落語を聞いて鳥肌が立ったのはこのときだけだ。
 たったこれだけの台詞で、お隣さんに聞こえないように声をひそめているものの、亭主には強く出ないといけない女房の気持ち、まだ外は暗いという気配までを、小三治は全部活写していた。
 これだけで、「あっ、この人は、音で落語をやっている」と思ったのである。「音で落語をやる」っていうのは私の思いつきで、なにかで読んだこともないし、誰かに聞いたりしたこともない。でもこの『芝浜』は「音」でやっていた。
 小三治は音楽ファンであり、オーディオマニアである。マニアと言っても、ちょっと度が過ぎている。小三治が書いている本には、スピーカーの中心あたりにゴルフボールを吊るすと音がよくなるとか、CDはかける前に冷凍庫で冷やすとか、ちょっと正気じゃないような話が出てくる。そういった「素養」のようなものが、生かされているのだろう。
 小腹が空いているのも忘れ、テレビに釘付けになった。あれは、また聞きたい。おそらく、テレビ局のどこかにビデオはあるはずだ。出してくれないかなあ。
 春風亭一之輔と師匠の一朝さんの会で、一朝が『芝浜』、一之輔が『シバハマ』をやったのを聞きに行ったことがある。場所は高円寺だった。「座高円寺」って言ったかな、あの小屋は。線路っきわのホールである。
 一朝さんの『芝浜』はオーソドックスなものだったが、一之輔の『シバハマ』はハチャメチャ。基本的に『芝浜』の「謎解き」になっており、最大の謎は、なんで二分金ばかりで五十両も入っていたのかであるが、この「謎解き」自体もハチャメチャ。
 これは一之輔のオリジナルだったみたいだけど、一之輔のファンには古典落語原理主義者みたいなのも多いから、苦々しく思った人もいたんだろうなあ。
 志ん朝さんは、最晩年まで名古屋の大須演芸場で独演会をやっていた。小林信彦先生は、大須までよく聞きに行っていたらしい。その大須演芸場でのことを、『週刊文春』のコラムに書いていて、「このごろは、ノートをとりながら落語を聞いている人がいる」と言っていた。こういう人も、古典落語原理主義者の一派だろう。まあ、人それぞれだからいいんだけど、少なくとも粋じゃないよなあ。
 小林信彦先生も、私の敬愛する人のひとりである。

 
食い物でも泣くことがある!1230

 暮の話題『芝浜』が始まってしまう前は、食い物シリーズだった。
 忘れないうちに、今日の話を書いておこうと思う。「泣き」つながりである。
 私は『芝浜』で必ず泣くが、小説や映画でもよく泣く。それは通常、泣かせるストーリーだからだ。たぶんそういうことだと思う。では、ストーリーがないところでは泣かないかというと、そんなことはない。
 たとえば音楽で泣くのは、どういうことなのか。悲しいストーリーの音楽というのもないことはない。でも、泣くのはそこでではない。もっと音楽そのものに根ざしているところで、である。そんな言葉は聞いたことがないけど「音楽の構築性」、あるいは演奏家の「時間性の表現」といったところで泣いているんだと思う。
 そのうちにゆっくりお話ししようと思うが、ハリー・べラフォンテという人は、美空ひばりが歌う『唄入り観音経』で泣いたという。日本語がほとんどわからないべラフォンテが泣いたのだから、たぶん「構築性」で泣いたのだろうと思う。これは竹中労の『降臨 美空ひばり』に出ていた。
 私にはそんなことは一度もないのだが、絵画を見て泣く人もいるという。つい最近、どこかの読者欄で、母子そろって絵画展で泣いたという話を読んだ。彫刻で泣いた人も見たことがある。
 絵画、彫刻で泣ける人は、「空間の構築性」に関するセンシビリティが優れているんだろうなあ。私には、その感性は、残念ながらない。
 それでも、詩集のグラビアで泣いたことはある。谷川俊太郎の詩集、それも大衆的な詩集で、グラビアがついているものだった。裸の、7歳くらいの少女が海のなかにいる写真で、お腹から下くらいは海水だった。その写真のそばに、

 海で生まれた命ゆえ
 めくらのように海を見る

というネームがあったのである。これは、私は、谷川俊太郎の詩としては知らないフレーズであったが、でも、このページで泣いた。写真に反応したのか、ネームに反応したのかは、我ながらわからない。
 さて、食い物で泣いた話をする。
 新大久保駅から少し歩いたところに、一六八飯店という中華料理店があった。そこは(たぶん)30前後の女性がシェフで、名前を知らないので、私らは「プージェ」と呼んでいた。そこへ行く少し前に見たモンゴルが舞台のドキュメンタリー映画の主人公の少女が「プージェ」で、シェフらしき女性がちょっと似ていたのである。
 この人は名料理人であったのだが、この人がつくった「豆苗炒め」で私は泣いた。料理で泣くなんて、自分でもびっくりしたのだが、でも、泣いたことは事実である。
 前に、共感覚の話を少ししたことがあるが、私にも若干は共感覚があるのかもしれない。あるいは、料理にも「時間の構築性」があるのである。いろいろな味が「来る」のには、時間性がある。
 つい先だって、たぶん新聞だったと思うのだが、人間が「なぜ泣くのかは、わかっていない」といったことを読んだ。しかるべき人の言葉だったんで、それはそうなんだろうと思った。でも、泣くなんて、誰もが経験することがわからないなんてね。これ自体が不思議な気がする。

場末の雑煮1231

 私のつくる雑煮は、東京場末の雑煮である。カツオダシ、醤油味、入っているのは焼いた切り餅、小松菜、鶏肉だけ。素朴と言えば聞こえがいいが、はっきりと貧乏臭いものである。
 あの葉っぱを、小松菜と名付けたのは徳川吉宗だという。
 でもこれは落語のまくらで聞いたので、あまりあてにならないが、以下のような話である。ただし、江戸時代の殿さまも、お百姓も、私が直接知っている人はひとりもいなのでどんな話し方をしたのか知らないし、文献でも彼らの台詞はほとんど読んだことがないので、彼らが使う言葉は信用しないように。言葉の出典は、落語、『アンクル・トムの小屋』、赤塚不二夫、近所のカレー屋のインド人あんちゃんである。
 
 徳川吉宗が鷹狩に出た。お殿さまだからわがままで、自分の馬にまたがったら、すぐ出発したがる。
「余についてまいれ」
かなんか言って、お城を出ちゃった。
 家来のほうは大変である。殿さま一人で行かしちゃ物騒だし、といって自分の馬を準備するのも時間がかかる。半分は駆け足で「余について」いって、半分は大慌てで馬を準備し、遅れて出発した。
 その間、お殿さまのほうは、両国橋を渡り、さらに東へ走り、鷹狩に格好の田舎にたどり着いた。腹が減ったので、やっと追いついた家来に命じ、近くの百姓家に食い物を用意させることにした。
 お殿さま、腹が減っているので、何を食べてもうまい。百姓がつくった菜っ葉入りの汁を、三杯もお替りした。
 前に平伏している百姓に向かい、
「この菜の名はなんと申す」
「なななな? あんでがすか?」
「わからん奴だな。この汁に入っている菜はなんという名前なのだと聞いておる」
「おらげのくうもんなんどにゃ、はあ、まんずなめいなんどありまっしねえだ」
「なに、名前がないと」
「そうだす、ほえほえ」
「よしよし、余がつけてつかわそう」
「ありがとごじゃりまじゃり」
「苦しゅうない。この地はなんと呼ぶ」
「血はでましねえ」
「わからん奴だな。ここは、なんというところだと聞いておる」
「あー、ほいだったら、小松川ちーますだ」
「よしよし、では小松菜と名乗るがよい」
とお殿さま、菜っ葉に命令しちゃった。

 おおむねこんな話である。
 でも、この話はおかしい。まず、百姓風情が吉宗と直接言葉が交わせるはずがない。次に、吉宗の時代には既にして一大消費地であった江戸に対し、小松川は蔬菜類等のそこそこの供給地だった。その蔬菜に名前がなかったはずがない。だって、名前がないものなんか売れないよ。と言うか、売り物だったら名前がないはずがない。だから、吉宗風情に、わざわざ名前をつけてもらうまでもないのである。
 ちなみに、小松川は荒川、中川を挟んであっちとこっちにあり、私が生まれ育ったところから、4、5㎞の距離である。

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