シェアハウス・ロック2308後半投稿分

22.生活習慣が対立したら、ややこしいほうに従う(ノウハウその3)0816

 日常生活というのは、①意味のある生活習慣、②あまり意味のない生活習慣、③ほとんど意味のない生活習慣の集成である。ここまでは万人に異議のないところだろう。
 ところが、私の観察するところ、どちらかと言えば、誰でも②、あるいは③がこだわりの拠点になっているような気がする。つまり、①だったら、それはほとんどの人で共通だろうから、私どものような生活でもお互いに異議の出ようがない。
 クセモノは、②③である。
 人というのは、何に、どのようにこだわるのだろう。私にはまったくわからないが、逆に、私の②③のこだわりも、他人にはうかがい知ることができないだろうと思う。
 だから、②③で対立したら、グループホーム内部であったら、ややこしいほうに合わせたほうがいい。
 私は、「日本人は~」という言い方も、そういう問題の立て方も嫌いである。人類は、どこの人間であろうが、貧しかろうが金持ちだろうが、偉かろうが偉くなかろうが、同性愛だろうが異性愛だろうが、全部同じだと思っているからだ。「基本的に」もつけない。基本的ではなく、原則的にはである。それも、大原則だ。
 でも、ここではその言い方しかできないから仕方なしに使うが、日本人は議論が苦手である。苦手というか、議論をすると、最終的に口喧嘩のようになるのが通例だと思う。つまり、同調圧力の範囲で生きているんだな、きっと。よって、冷静な議論ができる風土が醸成されていない。
 だから、生活習慣が対立したら、私はややこしいやり方に従うようにしている。
 この「ややこしいやり方」がよくわからないと思うので、次回はどういうことが「ややこしいやり方」なのかのお話をする。

23.「ややこしいやり方」とは(ノウハウその3続き)0817

 私は、グループホームに突入する前に、ひとつだけ提案をした。それは、「風呂を使うときには、銭湯に行くつもりで…」ということだった。
 つまり、それぞれが使うシャンプー、石鹸、スポンジ等々は基本自室に置き、風呂に入り終わったら、また自室に持ち帰るということである。これは簡単に破られた。それぞれが自分の装備品(シャンプー、リンス、洗顔石鹸、浴用石鹸等々)を勝手に風呂場に置いているのである。入居する前は、それぞれ、「それはいいアイデアだ」などとお追従を言っていたのになあ。でも、まあ、浴室は広いので、それほど気にはならないからいいけど。
 突入して、対立した生活習慣は、実際のところ、それほどはなかった。
 次の2点だけである。
① 「洗濯したら、そのたびにゴミ取り器に入ったゴミを捨てるように」(2、3回に一回で十分だよ。面倒くせえ)
② 「オーブントースターを使ったら、必ず、掃除し、元に戻すように」(私は毎朝使うのに、その都度かよ)
 ()内は、心で思うだけで、当然言ってはいない。
 ①は、そのようにしている。②は、その後も何回か言われたが、いつの間にか言われなくなった。
 それでも、②のほうはキッチンの範囲であり、私はキッチンが汚いのはいやなタチだから、最低でも週に1回はオーブントースターを掃除している。「病気か?」と我ながら思うくらいだから、その都度網を外し、水に浸してから銅のブラシで網をこすり、そのあと台所洗剤を使って洗う。ついでに、内側、外側を濡れティッシュで拭く。
 だから、生活習慣が対立したらややこしいほうに合わせるというよりも、あまり議論することをしないで適当な範囲でやるくらいかな、実際のところは。

24.適当な距離感が大事(ノウハウその4)0818
 
 三者の距離感というのも大事だと思う。
 私らの例で言うと、おばさん-おじさんは仲がいい。あっちこっち旅行(海外旅行も含めて)に行っている仲である。おばさん-私も仲がいい。おばさんの仕事をずいぶん手伝ってきたし、仕事でおばさんの家に行ったときの仕事後の夕食は私がつくってきた。
 おじさん-私は、仲が悪いわけではないが、仲がいいわけでもない。顔見知りと友だちの中間くらいである。私が人付き合いのいい人間だったら、友だちみたいになっていたかもしれないが、あいにく、私は人付き合いはあんまりよくない。
 よって、おばさんは、おじさんと私の二人の接着剤として振る舞っている。それがいいのかもしれない。
 だから逆に、こういう生活に入るのであれば、あんまり相互に仲がよく、仲良し三人組みたいなのはよくないのかもしれない。
「標準的な一日」で、夕食は一緒にとると言ったが、逆に言えば、我々のグループホームで全員での唯一の儀式が夕食である。このとき、おじさんとおばさんはよくしゃべっている。私はほとんどしゃべらない。自分でつくった陶器のぐい飲みと片口で酒を飲み、黙々と食事をする。あまり考えごともしない。せいぜい、陶器を見ながら「ここは釉薬をうまくかけられなかったな」くらいのことしか考えない。
 

25.『年寄りは集まって住め』10819

『年寄りは集まって住め -幸福長寿の新・方程式-』(川口雅裕著・幻冬舎発行)という本がある。私らも集まって住んでいるので、この本はこういう生活のマニュアル本みたいなものではないか、あるいは、そうではないまでもこういう生活形態の人間に、なにがしか役に立つことが書いてあるのではないかと思い、読んでみたわけである。
 ところがそうではなかった。
 老人医学という言葉がある。それになぞらえて言えば、老人生活学、生活学なんていうヘンテコな言葉に違和感があるならば(十分あるが)、老人QOL論というか、そういったたぐいの本であった。
 たとえば、同書はCCRC(Continuing Care Ritirement Community)という概念に相当紙幅を割いている。CCRCとは「日本の高齢者施設のように、介護保険からの報酬に依存したビジネスではないので、要介護にならない、させないことに重きが置かれている」(同書より引用)施設というか、概念というか、考え方というか、そういったものである。
 この考え方を前提に運営されている「Community」が「全米では約二千ヵ所におおよそ七十五万人が暮らしている」そうである。そのすぐ後に、「規模は大小ですが、平均すると三五〇~四〇〇人くらいが集まって暮らしている」と続くので、わかりにくい「Community」は、アバウトイコール「施設」と言っていいと思われる。
 ところで、 CCRCの指針は、
・カラダの安心(介護を含めた健康サポート)
・オカネの安心(生活面や介護の際のコスト)
・ココロの安心(居住者のつながりや生きがい)
であるという。
 これだけではわかりにくいと思うので、このお話はもう一回続ける。それで、川口さんの主張はだいぶはっきりすると思う。

26.『年寄りは集まって住め』20820

 川口雅裕さんの著作、『年寄りは集まって住め -幸福長寿の新・方程式-』からもう少し引用を続ける。

 幸福感が世界トップクラスとして知られるデンマークでは、一九八八年に「老人介護施設」の新設が禁止され、自分の意思で暮らせる「高齢者住宅」の建設が進められるようになりましたが、その理由について当時の福祉大臣は「施設の多くは孤立し、不毛で活気がなく、いる人たちの権威を失わせるようなミニ病院、いわば人生の最期を迎える前の待合室になっていた」と述べています。
 
 この前段に、川口さんは、老人には『自己決定』がなによりも重要であるという意味のことを言っておられる。
 つまり、要介護者(考えてみれば、これもひどい言葉だね)として生きるよりも、年とってあっちこっちに不具合が出ても、それでもできるだけ自立した(しようとしている)人間として生きることが重要だということである。「自己決定」だけなら、あっちこっち悪くなってもできるもんね。
 さて、『年寄りは集まって住め -幸福長寿の新・方程式-』では、諸外国の例を挙げるだけでなく、日本における先進的な取り組みも紹介している。
 たとえば、
・ハッピーの家ろっけん(神戸市長田区の六間道の一角にある多世代型介護付きシェアハウス)
・Share(シェア)金沢(金沢市若松町。三万六千平米の敷地にサービス付き高齢者向け住宅等々がある)
・東灘こどもカフェ(これは居住施設ではないが、高齢者自らが運営する施設である)
などである。
 また、
・中楽坊(高齢者向け分譲マンション)
に多くの紙幅を割いている。
「中楽坊」は「人々の中にいる楽しさ(孤独ではない)」、「中ほどの楽しさ(丁度よい、しみじみとした楽しさ)」からきた造語で、「坊」は宿坊の坊。つまり、人が住む一角といった意味。ここは、「ライフ・アテンダント」という生活指導員の存在と、そのありようが特徴で、目指すのは「近くにいる娘や息子」のような存在だということだ。わかりやすい例で言うと、親のことを本当に思っている娘や息子は、親が本当にできないことは介助するが、それ以上のことはあえてやらない。できることまでやると、親はかえって早くおとろえてしまう。そういう姿勢であるという。
  同書では、「ライフ・アテンダント」と居住者の交流で発生した心温まるエピソードなども多数紹介している。
 著者の川口雅裕さんは「著者紹介」によると「老いの工学研究所」(NPO法人)の理事長であり、研究というか啓蒙というか、「老い」に関する立ち位置はそういったところ(工学、かつ研究)だ。また、「1964年生」とあるので、まだまだ若く、研究するだけの余裕がある。がんばってくださいね。
 これらの施設は、なかなかいいと思う。でも、なんとなくお金がかかる気がする。その点、私らのようなグループホームなら、本人たちの決心だけであり、けっこうCCRCなので、お勧めである。

 
27.社会性維持(メリットその9)0821

「3人いれば、それは社会だ」と言われる。だから、私らのような生活形態だと、それだけでまず、社会性はそれなりに保てるはずだ。
 一方で、老人が単独で生活していても、それ以前の社会生活の残滓があり、それが減衰しながらも維持されていくので、しばらくはそれなりの社会性は保てると思う。でも、それは貯金を取り崩すようなもので、いずれ、「貯金」はなくなる。
 老人でも、多少なりとも仕事(賃仕事、ボランティアにかかわらず)をしていれば、仕事は社会的なものだから、やはり、それなりの社会性は保てる。こっちは、社会性の「年金」みたいなものだな。どうも、たとえが老人っぽいね。まあ、間違いなく老人だからな。
 だが、老人が引越し、かつ単独で暮らすと、間違いなく孤立する。これは、引っ越すことによって「原資」がまったくなくなってしまうからだが、これも、グループホームなら、3人以上で社会だし、それぞれの人脈をたどれば、それは複数倍になるはずだし、社会性は比較的簡単に維持できるのではないか。自分の家を持っていればいいが、賃貸物件に住んでいる単身老人は、だんだん更新もむずかしくなり、住み慣れたところから移住しなければならなくなると思われる。そのあたりが見えてきたころが、グループホームに切り替える時期だろう。もちろんその気があればだけど。しかし、長々書いているこの文章の通奏低音は、グループホームの勧めだからね。
「人間は社会的動物である」と言ったのはアリストテレスだが、これを確かめるためにネットで調べたら、「人間が個人として存在していても、その個人が唯一的に存在し、生活しているのではなく、絶えず他者との関係において存在している」と解説があった。
 まあ、関係性の網の目のうえに人間は載っていて、「俺は俺だ」なんぞと威張っても、そんな「俺」なんかは、吹けば飛ぶようなもんだということだな。

28.浅間山大噴火の教訓0822

 浅間山は、長野県北佐久郡と群馬県吾妻郡嬬恋村の境にある標高2,568メートルの成層火山であり、荒ぶる山である。21世紀になってからも、2004年、2008年、2009年、2015年、2019年に噴火しており、つい最近も小噴火している。
 噴火は有史以来のようだが、天明3年(1783年)のものは「大噴火」と呼ばれ、甚大な被害を及ぼした。死者 1,624人(上野(現群馬)一帯で1,400人以上)、流失家屋 1,151戸。「流出」は主に土石流による。
 被害が最も甚大だったのは、現在の群馬県嬬恋村鎌原地区であり、火砕流や土石雪崩等の直撃を受けて埋没し、村の総人口570人のうち80%を超える477人が死亡、村より高いところにある鎌原観音堂に避難していた住民は助かったが、それは93人に過ぎなかった。
 根岸九郎左衛門は、幕府の復興対策責任者として現地に派遣された。その著書『耳袋』 (現代語訳)には、以下のような記述がある。

 浅間山噴火の被災者を収容する建物を建てた当初、3人の者たち(黒岩長左衛門・干川小兵衛・加部安左衛門)は(中略)、「このような大災害に遭っても生き残った93人は、互いに血のつながった一族だと思わなければいけない」と言い、生存者たちに親族の誓いをさせ(中略)た。

 その後、黒岩、干川、加部は、復興の中心的な存在となり、家屋も再建されるなか、生存者93人を「再編成」した。夫を亡くした妻と妻を亡くした夫とを再婚させ、また子を亡くした親に親を亡くした子を養子とするなどして、家族として再編した。
 養子はともかく、再婚のほうは、いまの人間にはとんでもないことのように思われるかもしれないが、江戸時代のことだ。現に、長男が死んでしまった場合、次男がその妻と再婚し、妻子はその次男が養うなどは、昭和になっても農村地帯ではごく普通に見られた風習だったのである。
 一方で、この大惨事は、もうひとつ大きな改革を、結果としてもたらした。瓦礫、火山灰に埋まった土地を田畑に戻すのは長期間かかると考え、その土地に桑を植えたのである。
 桑は蚕を育て、蚕の繭は、桐生を始めとする広範な地域を絹織物として潤すことになり、江戸末期には八王子を起点(群馬を考えれば、中点)とする日本のシルクロードを拓き(端は横浜の反町)、最終的に絹織物は江戸末期、明治初期の最大輸出品のひとつになったのである。 
 この家族の再編成劇は、いまの私らのグループホームの基本精神に近いのではないだろうかと思う。

【Live】タイトルを変更し、中身をまとめることにする0823

 8月11日投稿分に、オカベさんという人から「グループホームなんかに入っちゃだめですよ」と言われたくだりがあり、オカベさんは、ご自身の会社の近くにある「営業グループホーム」を前提にしていたのではないかと書いた。
 それでちょっと気になったので、Wikiで調べてみた。

 グループホーム (group home) とは、社会的弱者が小人数で支援を受けながら一般住宅で生活する施設。高齢者や重度障害者を主とした介護施設から、軽度障害者や親と同居不可能な子供などが共同生活を行うシェアハウスのようなもの、アパートのような集合住宅まで様々である。

とあり、また、

 社会的介護、養護の一形態。地域社会に溶け込む生活が理想とされ、「集団生活型介護」とも称する。

とあった。
 うーん。そうか、こういうふうになってきているのか。
 前段の引用をちょっと無理してつづめると、「高齢者が共同生活を行うシェアハウスのようなもの」とならないこともないが(実際、私はそのつもりだったのだが)、どうもWikiの定義では、支援、介護、養護に重きが置かれているように読める。
 私がタイトルに「グループホーム」を使おうと考えたころは、もうちょっとこのあたりはニュートラルだったと思う。私が知らなかっただけかもしれないけど。
 で、タイトルから「グループホーム・ブギ」を外すことにする。それと同時に2週間分程度を一本にまとめ、「シェアハウス・ロック23年07月分(前半)」とかにして再投稿し、それに対応する一日一日の投稿は削除することにする。
 これは近々、吉日を選んで決行するが、決行と言うほど大げさなものではないな。 

29.『故郷』へ0824

 グループホーム関連は、今回でとりあえず終了。今後、グループホームネタが出てきたときは【Live】で書くが、それ以外は書き溜めたヒマネタを掲載していく。ところで、おじさん、おばさんのプロフィールに関しては若干お話ししたものの、私の話はほぼしていない。だから、今後しばらく、その話を続けることにする。
 おじさん、おばさん、そして私と、個性がまったく異なる3人の共同生活であるが、それがとりあえず5年間、大過なく推移している理由をうまく説明しているような文章を発見したので、それを紹介する。『唱歌誕生』(猪瀬直樹)という書籍中の文章である。

『故郷』も『朧月夜』も『紅葉』も、そして「春が来た」や「春の小川」が、忘れ去られた数多くの文部省唱歌とは別の長い生命を得たのは、辰之と貞一との組み合わせが絶妙であったからだ。
 気の合う仲間同士で意気投合するよりは、他人のほうがよい場合が稀にあるのではないのか。仲間同士なら、心情を吐露し合い終わってしまうが、二人は自分を抑制した部分で表現に専心した。
 (中略)
「夢は今もめぐりて/忘れがたき故郷…」
 故郷とは、自分の若い日の夢が行き先を失い封印されている場所のことだ。
 
 この引用では、「辰之と貞一」となっているが、『故郷』は作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一である。どうしても、フルネームで紹介しておきたくなった。
 猪瀬直樹は、上記のように、多少センチメンタルに故郷を定義している。一方、私の故郷は、いまいるところからせいぜい一時間程度の場所であるにもかかわらず、もうそこにはなく、過去という時間にしか存在しない。

30.おかめ亭の人々0825

 私が生まれ、そこに17歳までいた家の隣に、おかめ亭という建物があった。邸の書き間違いではない。「亭」である。「おかめ邸」であれば、シャーロック・ホームズもの、あるいはディケンズの小説あたりに出てきそうな響きであるが、惜しむらくはイギリスにはおかめはいない。それで仕方がないので、代わりにピエロ(クラウン)を代入すると、ホラ、だいぶそれっぽくなるでしょう。「クラウン邸殺人事件」なんてね。シャーロック・ホームズものにありそうだ。
 おかめ亭はようするにアパート、そして一部は店舗である。構造を簡単に説明すると、まず最初に、頭のなかに凹の字を書いてください。これを反時計回りに90°回転させる。つまり、凹のへこみ部分が左にくる。その開口部に接して、道路がある。この通りは、生意気にも小岩銀座通りと言った。通りの反対側には東海銀行があった。東海銀行、まだ平屋だったよ。
 へこんだ部分は、おかめ亭の通路である。通路を入ると左右に住居、店があった。店と言っても居酒屋、バーなどだ。どういうわけか、不動産屋もあった。
 開口部をはさんで両側、通りに接する部分は店舗であった。向って右側が下駄屋(後に美容院になった)、左側が菓子屋だった。この下駄屋には、私の父親がよく将棋を指しに行っていた。下駄屋のおじさんが、いつも駒を並べながら、「お粗末な駒で…」と言い訳をしていたのを思い出す。
 下駄屋と私の住んでいた家の間には、ボタン屋さんがあった。ボタン屋といってもボタンだけ売っていたわけではない。いくらのん気な時代でも、ボタンだけ売っていたんでは店を張るのは無理だ。ボタン以外に針、糸、毛糸、ビニールのサイフなど、細々したものも売っていた。それでも十分のん気であるが。ボタン屋さんのおばさんは私の母親と仲がよく、私とも仲がよかった。小学校の3年生くらいになると、おばさんが買ってくる『週刊新潮』を読みに行った。おばさんは、必ずお茶を淹れてくれた。
 おかめ亭はまことに不思議な構造だが、それはその名前に由来がある。もともとは寄席だったのである。それでおかめ亭だ。正面の三階に相当するところに、ペンキでおかめの絵が描かれていた。納得いったでしょ。

31.寄席がけっこうあったのだ0826

 私の母は、おかめ亭が寄席として営業していたときから妹、私からいうと叔母とそこに住んだ。つまり、寄席時代を知っていた。柳家三亀松がよく出ていたという。寄席があったんで繁華街なのだろうとご想像されるかもしれないが、そんなことはない。場末である。江戸川区の小岩というところで、次の駅が市川(千葉県)だ。場末にもほどがあるほどの場末だ。
 色川武大さんのエッセイだったか、一時期は東京に寄席が300軒あったとか出てくるから、いまの映画館よりも多いくらいである。300軒もあれば、場末とはいえ、一軒くらい寄席があっても不思議はない。もっとも、山本夏彦先生によれば、寄席は「戦前、東京に100軒くらいあった」となる。どういうことかなあ。200軒も差がある。
 ちょっと不吉なことを考えてしまった。夏彦先生、隅田川からこっちは東京と考えてなかったんじゃないか。
 さて、おかめ亭はなんとも奇妙な建物であるが、背景には、戦後すぐの住宅難がある。寄席を廃業し、住宅難をあてこんで「側」だけ残し、不可思議な形に区切り、住居、店舗等にしたのだろう。
 住人も不可思議だった。紙芝居屋さんが住んでいた。そこの子は、私より二つ上だったと思う。おかめ亭では紙芝居屋、競馬の予想屋なんていうのは立派な職業のほうで、生業が不明な人たちも多くいた。ゴーリキの『どん底』の世界である。もうちょっとはマシだったけどね。
 下駄屋の奥は居酒屋だった。7時くらいになるといつも同じ流しがやってきて、居酒屋の外で、『湯島の白梅』をギターで弾き、歌った。他の居酒屋にも、別の流しがやってきて、違う曲を、やはり外で演奏した。一曲が終わってしまうと、彼らは別の店に向う。つまり、客がつかなかったということである。曲の途中で店から呼ばれるとなかに入り、客のリクエストに応えて演奏した。
 前述の下駄屋の奥、その居酒屋を一軒挟んで、フジイ一家が住んでいた。そこの次男坊のタダシちゃんは、私の初代親分である。
 タダシちゃんのお兄さんがマサヒロちゃん、その上に二人、お姉ちゃんがいた。下のお姉ちゃんは、ユキちゃんといったと思うが、上のほうのお姉ちゃんの名前はおぼえていない。

32.フジイタダシちゃん0827

 フジイタダシちゃんは、私より5歳年上である。だから、友だちというよりも、親分である。いま思うと、5歳も年下のチビと、よく遊んでくれたものだと思う。いまの歳になると5歳差などなんともないが、タダシちゃんが10歳のときに、私は5歳である。話にもなんにもならなかったはずだ。歳が倍だもんなあ。
 私は、小学校に入る前には既に字が読め、それなりの本も読んでいた。たぶん、タダシちゃんが、地面にろう石で書いて教えてくれたのだろうと思う。ろう石は、当時の少年の必携品であった。タダシちゃんがろう石で地面に木、山、川などの簡単な漢字を書き、私がそれを読んでいる記憶がある。たぶん、タダシちゃんは、そのころ、小学3年かそこらだったのだろう。だが、ひらがな、カタカナをそうしてもらった記憶はない。まあ、記憶にないころから、そうしてもらったんだろう。英才教育(笑)だな。
 タダシちゃんといつから仲良くなったのかは、まったく記憶がない。たぶん、よちよち歩きのころからお兄ちゃん格で、もの心ついたころには、既にタダシちゃんは私の親分だったのだ。
 そう言えば、私の家には、タダシちゃんの茶碗と箸があった。私がだいぶ正気づいて、母親に「これは誰の茶碗?」と聞くのへ、母親が「タダシちゃんのだよ」と答えた記憶がある。
 ここからは推理になるが、子ども好きだった母親は、フジイ家の経済的な状況も考え、ことあるごとにタダシちゃんに食事をさせていたのだと思う。
 当初、母は、自分の妹とその家で暮らしていた。満州からの引揚者だった私の父親になる人物がその家に転がり込んで来たのは、タダシちゃんが4歳のときだ。その翌年に私が生まれている。
 ただ、4歳では箸は満足に使えないから、タダシちゃんの茶碗と箸を整えたのは、その後なのかもしれない。
 だから、一時期ではあるが、私の家は、母、叔母、父、タダシちゃん、私と、最低でも5人で食卓を囲んでいたのだ。
 カート・ヴォネガットの小説に「拡大家族」という概念が出てくる。血縁家族(?)を越える概念としてヴォネガットはそれを提出したのだろうが、それを一読して、私はとても好ましく思ったものだった。
 いま、これを書くために時系列を整理してみて、5人で食卓を囲んでいたこともあったのがはじめてわかったわけであるが、記憶にはないものの、そんな原風景が私にあったから、ヴォネガットを一読好ましいと思ったものなのかもしれない。

33.はじめの記憶0828

「マアちゃんのとこへ行くよ」と母が言った。
 私の記憶は、ここから始まる。2歳だった。
 まだ独身だった私の叔母(=マアちゃん)は、私を本当に可愛がってくれたようだ。とにかく私を手元から放さなかったという。あるとき私を連れて母が銭湯に行ったところ、知らないおばさんから「今日はお母さんと一緒じゃないのね?」と声をかけられたそうだ。そのおばさんは、叔母を私の母だと思っていたのだろう。
 叔母が風邪をひいて寝ている隣に私も寝かされていた。まだ離乳食にもなっていないころだ。母は叔母に栄養をつけさせるため半熟のゆで卵をつくり、叔母は試みに黄身を私に食べさせたところ、おいしそうに食べるので、ほとんど一個分の黄身を私に食べさせてしまった。いくらおいしそうに食べるったって、ムチャだよなあ。
 案の定、私は重篤な中毒症状をきたし、文字通り生死の境をさまよった。それでどうなったかと言えば、私は無事に生還し、約70年後にこれを書いている。
 叔母は、私が生死の境をさまよっているあいだは完全黙秘をつらぬき、私が生還したときにはじめて母に事情を明かし、「この子が死んじゃったら、私も死のうと思っていた」と言ったという。
 だから、私は1歳に満たないころ、人の命を救ったことになる。
 その叔母が母親に続いて結婚し、大森のアパートに住んだ。ろくすっぽもの心のついてない私でも、叔母の喪失はさびしかったのだろう。で、そこから私の記憶が始まったわけである。私の記憶は嬉しさとともに始まったことになる。
 よく、「ニセの記憶」ということが言われる。人の記憶戦略のひとつとして、スクリプト理論(スクリプト仮説)というものがあり、つまり「筋書き」として記憶するということだが、この筋書きが曲者で、筋書きに沿って記憶が屈曲することがままある。これがニセの記憶の主な成立過程である。
 後年、私が50歳くらいになったとき、叔母本人に大森のアパートの構造、訪ねたときの様子を確認したことがある。つまり、ニセの記憶でないかどうか確認したわけである。アパートの構造は100%、訪ねたときの様子もほぼ正しかった。
 国電大森駅から叔母の住んでいるアパートへの道のりはかなり長く(私、チビだったからね。しかも、おそらくはじめての遠出だし)、暗い道の向こうに叔母の住むアパートの灯りが見え、「あれだな」と母がつぶやき、暗いところから明るいところ入り、ホッとし、懐かしい叔母の顔を見たというのがはじめの記憶というのは、なかなかいいような気がしている。

34.ろう石0829

 タダシちゃんがろう石で地面に字を書いてくれ、それで字をおぼえたというお話をしたが、字を書くのがろう石の主な用途ではない。アフリカの少年じゃないんだから。アフリカだって、いまでは、戦乱等で一時的に…ということはあるにしても、普段は普通にノートを使っているだろう。場所によっては、ノートパソコンくらい使っているんじゃないか?
 では、当時の場末の少年たちのろう石の用途はというと、遊び用である。
 子どもがひとり立って、片手を伸ばす。もうひとりがその片手と手をつなぎ、もう片方の手にろう石を持ち、線を引きながら中心の子どもの周りを一周する。土俵ができあがる。固い土、アスファルトのうえで、私たちは平気で相撲をとった。後年、私らも多少正気になり、相撲は、公園や小学校の砂場に場所を移したが、このときも同じノウハウである。ただし、ろう石の代わりに棒を使った。
 ろう石は万能の筆記具で、ケンケンパの開始線、丸数字も書いたし、ビー玉の投擲線その他で活躍した。ドッジボールのコートを描くのにも、ろう石は使われた。ただし、ボールは公式のものではなく、軟球大のゴムまり、あるいは軟球そのものである。軟球だと相当に痛い。逃げるほうは必死である。コートに入っているほう、すなわち、当てられるほうを「捕虜」と呼んだ記憶がある。
 横丁、道路、原っぱ、ほんのちょっとした空き地などが私たちの遊び場で、公園などは見向きもしなかった。なまじ遊具などがあると遊びにくいからだ。それだけ当時の子どもたちは、こと遊びに関しては創意工夫に満ちていた。
 そして、遊びを軸に、子ども社会が成立していた。「子ども社会」などと大げさなと思われるかもしれない。だが、次に述べる制度を考慮すれば、十分「社会」と呼べる条件を満たしていたと考えられるだろう。
 それは、「おまめ制度」である。
 小学校中学年くらいのお兄ちゃんたちが、たとえば、鬼ごっこをしている。そこへ、5歳くらいのチビ助が、「入れて」とやってくる。リーダー格のお兄ちゃんは「いいよ」と答え、「だけど、おまえ、おまめな」と厳かに宣言し、チビ助はめでたく仲間にしてもらえる。
 おまめは、キャーキャー言いながらみんなと駆け回るが、誰もおまめは捕まえない。たとえ体力が劣っている子がいて、おまめしか捕まえられなくとも、おまめには手を出さなかった。万が一おまめを捕まえるヤツがいたら、制裁が待っている。そいつは、「おみそ」にされてしまう。みそっかすの「おみそ」である。
 少なくとも、私が属したソサエティでは、「おまめ」と「おみそ」はまったくの別物だった。

35.おまめvsおみそ0830

 ところが、私たちの「おまめvsおみそ」は、全国区ではなかった。
 つい最近読んだ『未来のだるまちゃんへ』(かこさとし著)中に、次の文章を発見したのである。

 鬼ごっこやかくれんぼをするにしても、その子は「おみそ」ということで、つかまっても鬼にはしない。でも仲間外れにはしないで、一緒になって、ワアワア、キャーキャーやる。
 そうして、「何歳、何か月になったらみそっかすを卒業すべし」というルールがあるわけでもないのに、相手の成長度合いと自分たちの楽しさを推し量って、いつの間にか、その子も「みそっかす」じゃなくなっている。
(中略)
 調べてみると「おまめ」とか「おうた」とかいろんな言い方があるけれど、全国どこでもやっていたことでした。

 そのパラグラフの終末で、かこさんは、次の文章を結論のようにしている。

 あれは子ども同士の人間関係から生まれた、実によくできたルールだと思います。

 かこさんは、大正十五年(1926年)に福井県の武生に生まれ、昭和八年(1933年)までそこで過ごされ、歳の離れたお兄さんが現在の東京医科歯科大学に入学が決まったのを機に、東京の板橋に移られた。かこさんが小学二年のときである。
 だから、かこさんの説は、武生でのことなのか、板橋でのことなのかは不明であるが、その本の中に書かれている位置から推し量れば、板橋だと考えることが妥当である。
 私の「おまめvsおみそ」論は、江戸川区の小岩がサンプル地である。板橋区と江戸川区はそれほど離れてはいない。
 一方、「おみそ」(小岩の)に該当する概念は、『未来のだるまちゃんへ』には出てこない。かこさんのお考えからすれば、「そういうことはするものじゃない。だからことさら書くこともしない」ということなのかもしれない。

36.子ども社会0831

 子ども社会などと大きく出たが、少なくとも私が子ども時代を過ごした場所、そして時期には、厳然とあったと言いたい。その最大の証拠は、「子どものけんかに親が出た」という言葉である。子ども社会では、それはあってはならないことであり、常習犯の親に対しては、「子どものけんかに親が出た」を囃子言葉、あるいは抗議の声として、直接当人にぶつけることすらあった。
 一方、「出た」親の子どもにとっては、それは最大の恥辱であり、そんなことをされたら、仲間にも、けんか相手にすら顔向けできなかった。だから、子ども同士のけんかで多少の怪我をしても、「転んだ」「ぶつかった」と親には言うのが、少年の美学だった。
 また、子どもとはいえ暗黙のリーダーがいて、その集団を立派に統率していた。我が親分・タダシちゃんは、私に対してのみならず、集団のなかでもリーダーの資質を十分に発揮していたと言える。
 5歳違いなので、タダシちゃんが6年のときに、私が1年である。
 私が2年になったときに、タダシちゃんは中学生になった。中学生になると、半大人であり、チビ助とはもう遊ばない。これも少年の美学である。
 タダシちゃんが中学に去り、それまでナンバー2だったイナガキくんが、私に対していきなり親切になり、なにくれとなく私に気を配ってくれるようになった。私は、本当にチビだったのでその段階ではよくわからなかったのだが、おそらくタダシちゃんはリーダーの座をイナガキくんに禅譲するにあたり、「あいつ(私のことね)をよろしく頼む」と申し送りをしてくれたのだろうと思う。そうとでも考えないと、イナガキくんの「豹変」は理解できない。イナガキくんはおとなしい少年で、それまでも特にけんかをしたりということはなかったのだが、それ以前は特に目をかけてもらった記憶もないのである。おとなしい少年、イナガキくんはタダシちゃんの要請によく応え、自分の元もとの資質とは違う役割を、少なくとも私に対しては立派に果してくれたのであった。
 大人社会なるものの軸がなんなのか、私にはいまだにわからないのだが、子ども社会の軸は、間違いなく遊びであった。それも、石蹴り、ビー玉、駆逐水雷、宝島等々、どことなく集団性を帯びた遊びであった。

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