シェアハウス・ロック2311中旬投稿分

ラーメンはいつからあんなに偉くなったのか1111

 ラーメンがブームになったことがある。過去形で書いたが、いまでもブームなのかなあ。よくわからない。
 ブームの最盛期と思われるころ、TV番組でよくラーメン特集をやっていた。だいたい「ラーメンの匠」みたいなオヤジが出て来て、ウンチクを語る。そのころは、なんともヘンテコなラーメンオヤジが出て来て、相当ヘンなことを言っていた。私が聞いたなかで最高にヘンだったのは、上に載せるメンマ、チャーシュー等々を、麺の下に置くというオヤジだった。オヤジによると、ラーメンはのびる、トッピングはのびない。それでそういう配置にしているという。その店では、客が水を求めても、「水飲みたいならほかの店に行ってくれ」と言うそうだった。ヘンオヤジは、水なんか飲んだら、ラーメンの味がわからなくなると主張していた。それほどのラーメンなんだろうか。
 まあ、いずれにしても、こういうオヤジが出現するほどのブームだったのだろう。
 私が愚考するところでは、これはグルメブームの成れの果ての現象である。バブルのころ、グルメ番組、グルメ漫画等々が跋扈し、一億総グルメみたいになったことがあった。それで、皆さんグルメに走ったのだが、しょせん味が本当にわかる人は少ない。
『食は広州にあり』という本があった。著者は邱永漢である。邱永漢によると、中国には「食は三代にしてなる」ということわざがあるそうだ。
 一代目が奮励刻苦して金持ちになったものの、しょせんは貧乏育ちだから、贅沢なものを食っても味はわからない。二代目は、子ども時代は貧乏なので、やはり味がいまいちわからない。三代目になれば、生れたときから裕福なので、やっと味がわかる。そういうことだそうだ。
 バブルで社会が豊かになり、にわかグルメを目指しても、そのころの大方の日本人は二代さかのぼれば芋のつるをしゃぶってたクチだから、やはり味などわからない。グルメブームに踊らされたものの、「これならわかるんじゃないか」とたどりついた着地点がラーメンだったというのが、私の見るところである。
 もちろん、単なる仮説に過ぎないが、時間的な流れは一致しているはずだ。
 もう10年くらいは前の話だが、当『シェアハウス・ロック』によく出てくる「寛永」という焼酎バーの隣にラーメン店ができた。まだラーメンブームの余熱のようなものがあったので、行列ができる。その店が7、8か月間で閉じ、次のラーメン屋ができる。また行列ができる。また閉じて、また次のラーメン屋ができる。また行列ができる。
 つまり、ラーメンファンとしては、新しいラーメン店が開店すると無視できないということで、そこは、「新規開店需要」でもっているような店だったと言えるし、逆に、積極的にそういう経営をしていたんじゃないかとも思えるフシがあった。いろいろな点で、経営者は同一と思われる根拠がいっぱいあったのだった。
【追記】
 おばさんの手術は無事終了。今朝電話があった。電話できるくらいには回復したようだ。「バルーンのおかげで、痛みもそれほどは感じない」とのことである。なんだか、公私混同のようだが、落ち着いて考えれば、両方とも「私」だからね。
 読んでいてくれる友だちから「大丈夫か」とメールを何件かもらったので、報告しておく。数は少ないだろうけど、顔も知らないおばさんを心配してくださった方もいたかもしれない。その方々にも、「ご心配おかけした」と申しあげておく。

味の教育者1112

 以前、少年時代の話をだいぶした。
 父親が精神病院に収監され、和服の仕立職だった母親は、孤軍奮闘で入院費、私らの食費等々を稼いでいた。孤軍奮闘でも、私と妹には三食をきちんとつくってくれた。
 それでも、急ぎの仕事などの関係で、どうしても時間が足りず、「これで、どっかで食べておいで」と言って、いくばくかの金を渡してくれることがあった。そんなときは、まだ幼稚園児だった妹の手を引き、近所の食堂へ行った。小学校3年、4年くらいの少年が幼稚園児の手を引き、食堂に入る光景は、相当にヘンなものだったに違いない。いまだったら、「子どもの家出です」とか言って、警察に通報されるかもしれない。
 あちらこちらの店に行ったが、駅に直行する通りから一本東側にある店が、定番になった。妹が、そこのおばちゃんのファンになったのである。そこのおばちゃんは愛想こそあまりないが、その分、私らをちゃんと一人前に遇してくれた。それが気に入ったのだろうと、いまは思う。「一番」という名前の中華料理屋(というか、ラーメン屋だな、そのころは)だった。
 王貞治さんの背番号は一番だったが、ご尊父の営む中華料理店は「五十番」だった。なんだか「脱臼」しているような関係だったので、おぼえている。王貞治さんを知っていたのだから、4年生のときだな。3年生のときに『少年サンデー』『少年マガジン』が創刊され、確か『少年マガジン』の創刊号の表紙がルーキーの長嶋茂雄さんだったから。王貞治さんの入団は一年後だったはずだ。ちなみに、『少年サンデー』『少年マガジン』も、「一番」のラーメンも30円だった。
「一番」は、私が高校生のとき、どっかへ引っ越してしまった。
 後年、私が母の介護で実家にいて、料理も当然つくったのだが、老人向けのものが多くなる。一緒に食べるが、こんなもんばっかり食っていたら年寄りが感染すると思い、駅からちょっと外れた中華料理店にこっそり食いに行ったことがあった。
 接客に出てきたおばちゃんが、私を見るなり私を指さし、「あーっ!」と大声をあげた。おばちゃんの顔をしばらく見ていたら、顔はだんだん若くなり、「一番」のおばちゃんの顔になった。私と妹をおぼえてくれていたのだった。
 それからはしょっちゅう通ったし、友だち連中も、もちろん妹も連れて行った。
 その店は「楊州飯店」といい(揚州でないのにご注意)、たぶんおばちゃんの旦那さんが楊さんだったのだろう。これも、なんだか「脱臼感」がある。
「楊州飯店」はなにを食べてもうまかった。たぶん「一番」も、子どもの舌にはいまいちわからなかったが、うまかったんだろう。
 私が、もし味のわかる人間になっているとしたら、楊さんのおかげだろうな。
 母の介護が終わったあとも、私は引っ越した四谷から「楊州飯店」に通ったが、ある日行ったところ閉まっていたので、近所の八百屋で聞き、おばちゃんが亡くなったことを知った。私は、とうとうおばちゃんのお名前も、楊さんのフルネームも知らずじまいだった。

味の記憶1113

『シェアハウス・ロック1006』でお話しした思想家は、吉本隆明さんである。
 勁草書房から出ていた「全著作集」のなかに、吉本さんが料理について書いているところがある。料理名はネギ弁、白菜鍋、肉じゃがである。後二者は、料理名が違うかもしれない。「全著作集」のどこかにあるはずなのだが、見つけられないのである。
 まず、ネギ弁であるが、これは料理名だけには絶大な自信がある。なんで「弁」なんだと思ったので、その違和感が記憶の持続に役立っていると思う。ようするに、かつお節と刻みネギを混ぜ、醤油をかけ、ご飯にまぶし、食うというだけのものである。全然、「弁(当)」じゃない。でも、「弁当」自体、もしかしたらもともと「携行食糧」ということじゃなかった可能性もある。吉本さん、文学者でもあるし、私ごときが「弁」論を展開するには及ばない。
 ここで、吉本さんは、「上等のかつお節を、削り器で削り」などと、意地のようなものを見せている。結婚当初、新聞紙を拡げ、その上に座って食べたそうだ。「ひっそりとしていて、愉しかった」と書いていたように思う。吉本さん、詩人でもあったからね。
 白菜鍋はネーミングの記憶に自信がないが、白菜を輪切りにし、葉の間に豚バラ肉を詰め、鍋様にしたものである。これは私も試したが、なかなかいける。「常夜鍋」という名前で知っている人も多いだろう。これは、毎日食っても飽きないということだろうと思う。
 最後の肉じゃがは、もっと記憶に自信がない。
 これは、肉の代わりに油揚げを使い、醤油の代わりにウスターソースを使う。それ以外は通常の肉じゃがと大差はない。大差はないと言ったが、これだけでも相当の大差である。これも私は試してみた。ただし、油揚げの代わりに豚肉を使った。このあたりが、大思想家と、私ら中小零細との違いである。中小零細はどうしても易きに流れてしまう。
 吉本さんは、その文章の終わりで、次のようなことを言っている。これも記憶なので細かな表現は違っているだろうが、大意はそれほど外していないと思う。
 
 手間暇のかかった豪華な料理、それはダメである。日常の繰り返しに耐えなければダメで、それが受け入れられれば、家族を味で支配でき、支配という言葉が適切でなければ、死んだ後も、その味を思い出し、家族は懐かしい思いにひたるはずである。

 まったく同感する。
『シェアハウス・ロック1006』では、「いずれきちんとした形でこの人のことは書こうと思っている」などと大見得を切ったが、今回は果たせない。料理の話だからである。

 実験料理1114

 吉本隆明さんに『日々を味わう贅沢』という著書がある。『うえの』というタウン誌に書かれた文章を中心にまとめられたものだ。エッセイ集である。そのなかに「精養軒のビア・ガーデン」というタイトルのものがある。
 上野精養軒で、「生ビール1、ミックスピザ1、焼鳥1、フライドポテト1」を食べたと書いているように思った。私も、10年程度前、美術館だか博物館だかの帰りに、ちょうど時分時にさしかかっていたので精養軒のビア・ガーデンに入り、中小零細の分際を省みず、同じメニューを頼み「追体験」したことがあった。吉本さん、重篤な糖尿病だったのに、こんなもんこんなに食べていいのかしらと思いながら、飲み、かつ食った。
 今回、これを書くにあたって、再読してみた。書棚にあったのが、すぐに見つかった。「精養軒のビア・ガーデン」は、不忍池で溺死した知人の話が中心で、精養軒に行くことは書いているが、メニューにはまったく触れていない。私の記憶違いか、「ニセの記憶」かのどちらかである。
 それで、もしかして「こっちか」と思い、『開店休業』(吉本さんの長女であるハルノ宵子さんとの共著)にあたってみた。はたして、文庫版の53ページにハルノさんの文章で、吉本家で上記のレシートが白日の下にさらされ、「母はブチ切れ、その後一切の炊事を放棄し、以後二度と台所に立つことは無かった」とあった。
 私は、二冊の本を、頭のなかで合成していたのだった。だから、前回の、「ネギ弁、白菜鍋、肉じゃが」も相当あやしいとお考えいただいたほうがいい。
『開店休業』は、『dancyu』に2006年の終わりから掲載された吉本さんの文章に、ハルノさんの「注解」のような文章(イラストも)がついている。この「注解」が痛快無比である。
 吉本さんのかつてつくった料理を「実験料理」とこきおろし、「父の料理を思い出すと、『うっ』とこみあげるものがある」などと言い、姉妹で(妹は吉本ばななさん)味の素を「父の命の粉」などと言い、言いたい放題である。「戦後最大の思想家」も形無し。
 でも、吉本さんの主著のひとつである『共同幻想論』に立ち返れば、対幻想の磁場というのはこういうものなのかもしれない。
 この、私の文章を読んで、吉本姉妹が親不孝者のように思われるといけないので、まず、それは違うと申しあげておく。ばななさんのほうはなにかの後書きに、それほど手柄話っぽくは聞こえないものの、最晩年の吉本さんを相当に支えたと感じられることをサラッと書いていたし、『開店休業』のあとがきに相当する文章「氷の入った水」は、娘と父親、それもここでは「戦後最大の思想家」と呼ばれた父との交情が、抑えた筆致で書かれていて、ホロっとくる。
『開店休業』の解説は平松洋子さんである。平松さんも、「食の思想」に関しては、私は全面的に信頼を置いている人である。それも含め、『開店休業』はなんとも豪華な書籍であることになる。

もんじゃ焼き1115

 なんかの話の折に、我が長女が、
「もんじゃ焼きで基本的に体をつくった人にはかなわない」
などと、ナマを言った。コノヤロと思った。長女が小学5年か6年のときのことで、夕食時だった。
 長女は、生まれて小学2年まで横浜で育ち、その後、私たちは湘南海岸に引っ越した。『anan』『nonno』(このごろ聞かないが、休刊したのかね。まあ、女性誌で、若い女性向けの雑誌である)なんかでのブランドシティ育ちである。私のような生まれも育ちも場末などという人間とは違う。だけどなあ、おまえ、おれの子どもだぞ。悪いけど。
 私は、彼女の誤りを正してやろうと思った。
「あのな、あなたはもんじゃ焼きを食い物と思っているかもしれないが、それは違う。
 月島あたりのこじゃれたもんじゃ焼き屋で食うものとも思っているだろうが、それも違う。
 あれはなあ、食い物というより肝試しだ。
 だいたいは駄菓子屋の片隅に焼き台が置いてあって、そこで食うものなんだ。だからそこから2mかそこらが道路っぱたで、ほこりが舞っているような不衛生な環境だ。事実、年に2回くらいは赤痢が出て営業停止になる。
 その営業停止が解かれると、場末の少年の間に、『再開したぞ!』という知らせが駆け巡る。そこで、私らは、倉持くんなどという、名前を聞いただけでブルジョア然とした友だちを誘いに行く。
 倉持くんは当然逡巡するが、拉致同然にして駄菓子屋に行く。
 もんじゃ焼きの基本は、小麦粉を水に溶いたものにキャベツを切ったものが入っているだけだ。キャベツも、いまあなたが食べているような新鮮、パリパリといったもんじゃなくて、なんだかシネッとしてて、『おばちゃん、切るの大変だったろうね』というようなものだ。これが基本セットで、5円とか10円。
 オプションがいろいろある。
 よく頼んだのはタマゴと豚肉だ。タマゴは、おばちゃんが割り入れると、黄身が必ず崩れる。古いんだろうな。おばちゃんは、それがバレないように、実に手早くかき混ぜる。
 豚肉も通常、ちょっと変な匂いがするが、私ら場末の少年は、それが豚肉の匂いだと思っていた。
 それでも、十分に火を通せば、まさか赤痢にはなるまいと思ってよく焼いていると、店の怖いおばちゃんは『もんじゃはそんなに焼くもんじゃないんだよ』と怒声を発する。
 仕方ない。まだトロトロの生煮えのものを口に運ぶことになる。
 おい、どうした。顔色が悪いぞ。
 もう、食事はおしまいか?」

【Live】先週の土曜日1116

 先週の土曜日は、隣の隣駅にあるブックオフに行った。前に書いたことの繰り返しになるが、私がこの世で一番好きな場所が古本屋である。背表紙を眺め、「ああ、これおもしろかったな」「これはくだらなかった」などと反芻していると、一時間や二時間はあっという間に経ってしまう。
 ただ、そこのブックオフは、本が比較的肩身の狭い思いをしていて、その代わり、楽器、パソコンその他電子機器、キャラクターものなんかが大きな顔をしていた。楽器、パソコンはまだ許すが、その他のものにはまったく興味がない。まあ、ご時世というものだろうな。
 肩身が狭いわりには、獲物は三冊あった。私は、興味の幅が広いと言えば、なんだか碩学の人でかつ思考が柔軟な人みたいでかっこがいいが、なーに、興味がとっ散らかっているだけなのである。30代のころの友人は、私のことを「知識の変態性欲者」と呼んだ。うまいこと言うもんだなあと思い、あまり腹は立たなかった。
 獲物の紹介をする。『ネリモノ広告大全(ちくわ編)』(中島らも)、『四人組がいた。』(髙村薫)、『チョムスキーと言語脳科学』(酒井邦嘉)。ねっ、だいぶヘンタイっぽいでしょ?
 前二者は紹介不要だろうと思うので、最後のやつのお話をする。
 ノーム・チョムスキーは言語学者だが、あまり「正統的」な言語学者ではない。彼は、普遍文法というものを提唱した。我々は、特に文法を教えられなくとも、正しい文法で話す能力を獲得する。それは、我々がそういう能力を生得的に持っているからで、しかもそういう能力を司る脳の領域を持っているからだということである。
 田中克彦という、私がいま気に入っている言語学者は、チョムスキー説を「神学」と言った。ただ、田中さんはコチコチの言語学者でもなく、文法を国家の規制であると述べておられる。こういうところが、私は気に入っているのである。
 話をチョムスキーに戻すと、前述の本は、「そういう能力を司る脳の領域」の探求を報告する本だと思える。まだ一行も読んでないけど。
 言語学にはまったく素人の思いつきに過ぎないが、私は、言語は運動であり、また個々の言葉は重さを持っていて、そうして全体としては一定方向に進化していくものだと思っている。運動、重さから考えると、言語全体として万有引力の法則のようなものが必ずあるはずであり、チョムスキーが言っているのはそれではないのかという気がする。
「神学」について、ちょっと解説めいたことをお話しする。
 いま読んでいる『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソートイ)のなかに、ダーフィト・ヒルベルトが、有限個の式から無限個の式をつくれることを、有限個の式を具体的に挙げず(当時の数学者がこれを明かそうと式をいじくりまわし、四苦八苦していたにもかかわらず)、これを明快に示し、世間を驚かせた。当時の著名な数学者は、「これは数学ではない。神学だ」と断じたが、やがて、ヒルベルトの正しさが認められ、この分野の専門家であるパウル・ゴルダンは「神学にも長所があることが納得できた」と敗北を認めたという。
 余談だが、ヒルベルトは、池澤夏樹さんにちょっと似ている。池澤夏樹さんもヒルベルト同様、私の好きな人である。
 

【Live】白菜鍋1117

 おばさんが入院しているので、我がシェアハウスは片肺飛行ならぬ、二本足の鼎である。たぶん、「二本足の鼎」は、ことわざか慣用句にあるに違いないような気がする。いま書いて気が付いたんだけど、鼎って字は、ほんとに「かなえ」って形しているね。たいしたもんである。
 さて、4日前の夕食は、チンゲン菜と豚バラ肉、豆腐の炒め物であった。その次の日は白菜鍋。急に寒くなったので、鍋はなかなかよろしい。
 おばさん不在時の夕食は、指揮する人がいないので、原則それぞれが用意して、それぞれが食うが、今回は二連チャンで私がつくったものをおじさんが食ったわけである。
 これは私からすれば相当な進展だ。
 そもそも私は薄味が好きで、おじさんは漬物に醤油をかけるほどの人である。だから、薄味の私の料理は、ちゃんちゃらおかしくて食えないのだろう。だけど、おじさん高血圧だからなあ。本当は薄味に慣れたほうがいい。
 でもまあ、3人とももう相当の歳だから、好きなものを好きなように食って飲んで、幸せのうちに死ぬのが理想だろうとは思う
 私も、実は喘息兼CОPD(慢性閉塞性肺疾患)であり、医者にかかっている。医者は、即刻煙草をやめろと言うけど、やめていない。そりゃあ、煙草吸ったら明日死ぬぞと言われればやめるだろうけど、「1年後に死にます」くらいだったらやめないだろうと思う。ただ、私にも多少なりとも他人に迎合するところはあり、禁煙を命じられて、それまでのロングピースを手巻きの煙草に変えた。こうすると、本数は減る。劇的に減る。
 たとえば、寝起きの一本がなくなった。寝ぼけていて、巻くのが面倒くさいのである。それから、歩き煙草が皆無になった。歩きながら煙草は巻けないからである。
 経済効果もあった。ロングピース時代に比べて、煙草代がほぼ半分になった。これは、年金生活者にはなかなかの福音である。
 当『シェアハウス・ロック』では、基本、一回一テーマということにしていた。基本なんで、周辺や関連のネタは書くけれども、それでも、私のつもりとしては、一回一テーマである。
 今回は、相当にとっ散らかっている。まあ、私自体がとっ散らかっているから仕方ないが、このとっ散らかりは、酔っぱらっているからである。私のせいではない。たぶん。
 とっ散らかりついでに、もうひとつ別の話題を。
 昨日の土曜日の話は、チョムスキーの話で忙しく、すっかり忘れていたが、鳥取の婆やを自称する人からの荷物を、おじさんが受け取ってくれていた。
 こういうのも、シェアハウスのメリットである。
 婆やの話はいずれまた書くことになるだろう。

初めてつくった料理らしきもの1118

 小学4年生で、初めて料理らしきものをつくった。父親が精神病院に入り、孤軍奮闘で仕立仕事をしていた母を、母の日に、夕食だけでも楽をさせてあげようと思ったのである。けなげな少年でしょ。
 カレールウの箱の裏に、カレーのつくり方が書いてあるのを何回か読んでおり、このとおりやれば、カレーができるのかとは思っていた。
 それで、豚肉、ジャガイモ、玉ネギ、ニンジンを買い、当然ルウも買い(裏の「カレーのつくり方」が書いてあるのを確かめて買った。これがなければ、手も足も出ない)、つくったわけである。
 とは言っても、初めての料理(らしきもの)である。「ジャガイモ(中)2、3個」とか、ニンジン(中)1本とか書いてあっても、「これ」が中であるかどうかもわからない。なにかやるたびに、これでいいのかと逡巡した。
 水何ccとか、豚肉何グラムとかは、測ればいいだけだから、それほど悩まなかった。
 かくて、理科の実験のような雰囲気で、カレーづくりは進んだ。
 飯も炊いた。水加減は、美空ひばりと大友柳太郎主演の東映映画で既にわかっていた。お釜に研いだ米を入れ、その表面に手のひらを置き、手首のところまで水を入れればいいと知っていた。タイトルは忘れてしまったが、その映画のおかげである。
 母と、妹と、私で夕食の卓を囲んだ。まあまあの味だった。
 これ以来、私は料理をするようになった。と言っても毎日ではなく、気が向いたらである。
 毎日料理をつくるという重みは大変なものだ。これは料理に限らずなんにでも言えることなのだろうと思う。
 だから、気が向いたらキッチンに立つ程度の男どもが、「ぼくは料理をつくるのが好きでねえ」などと寝言を言うのを、世の主婦の方々は、ちゃんちゃらおかしいと思っているに違いない。
 ルウを使うんだったら、パッケージの裏側に書いてある分量の材料で、書いてあるそのままにつくるほうが実はうまい。私は、スパイス感満載じゃないとだめなので種々加えるが、それはあまりよくないようだ。食品会社は、「その通り」やることで一番うまくなるようにルウを設計しているはずであり、その程度は食品会社を信用したほうがいい。

長女が初めてつくった料理らしきもの1119

 長女の、
「おとうちゃん、おきてよ」
という声で目を覚ました。
 枕元に、朝食があった。楕円形の皿の片方にご飯がのっており、もう片方にはスクランブルドエッグがのっており、その上にはケチャップがかけてあった。しかも、コーヒーまで入っていた。ビックリした。長女が3歳くらいのころだ。
「これ、あなたがつくってくれたの?」
と聞く私へ、長女は「うん」と答えた。
 ありがたく食べたが、食べながらも、どうやってこれをつくったのかをちょっと考え、私はゾッとしたのであった。そそくさと食い終わり、「おいしかったよ」とお追従を言い、「どうやってつくったのか、ちょっと見せてよ」と頼んだので、長女は台所に立った。見れば、流し、調理台の上に頭が出るかでないかである。
 スクランブルドエッグはまだいい。問題はコーヒーである。コーヒーを淹れる姿を見て、私は心のなかで、
―ワッ、ヤベー。
と叫んだ。
 湯沸かしを、自分の頭上より高く差し上げ、お湯を注いでいたのである。
 それからは、台所でバシッという音がするたびに私は飛び起き、ピアノ用の椅子を台所に運んだのである。これなら、万が一手元が狂っても、やけどは足から下くらいで済む。バシッは、そのころ使っていたガスコンロが石打式とかいうもので、金属かなんかで火花を散らし着火する方式だったからである。音が大きくて助かったよ。
 しばらくそれが続いたが、ありがたいことに一週間かそこらで長女は飽きてくれて、私は飛び起きずに済むようになった。
 よく一回目は失敗しなかったものだ。よかった、よかった。
 このころはほんとに可愛かったのになあ。あっという間に、「もんじゃ焼き」の回で言ったようにナマを言うようになってしまった。
 ナマついでにもうひとつ。やはり、5年か6年のころ、
「あなたのように、自分は常に論理的に考えているから、間違いはないと思っているような人には尊敬する人なんかいないんでしょう」
と言ってきた。前段は、それほど違ってはいない。常に、論理的に考えようとはしている。だが、それでも間違えることはあることぐらいは知っているつもりだ。最後はまったく違う。
「そんなことはないよ」
と私は答えた。
「じゃ、誰よ」
 長女は即座に切り返してきた。
 私は一瞬答えに窮した。吉本隆明とか、白川静、田中基などの名前を出しても、知っているはずはない。ナマは言っても、小学5、6年生である。
 私は尊敬する人の名簿を、頭のなかで繰っていった。あっ、いた!
「そうだな、きみたちの知っている人で言えば、スナフキンだな」
 私は、あの人が思慮深く、知恵者で、もの静かで尊敬に値すると思っていて、しかも音楽愛好家という点でも気に入っていたのである。
「ああ、あの人はいいね」
と長女は同意してくれた。私は、若干ではあるが、父親の面目を保てたと思った。・

【Live】あの方、この方、どんな方1120

 政治の話は当『シェアハウス・ロック』ではしないようにしようと考えていた。今回は、若干は政治に触れるかもしれないけど、政治と言うよりもどちらかと言えば品性の問題である。
『新潮45』という雑誌だったと思うが、あの方が「LGBTは生産性がない」とおっしゃった。確かに、将来の税制を担うべき子どもを産まないということでは、生産性がないと言えないこともない。だが、こういうことは、生産性のある人をそれなりに遇してから言うべきだ。そんなのは簡単なことである。子どもが二人だとツーペイなので、子どもを三人以上つくり、育て上げつつある人は無税にするとか、そういったことである。こういうことをやったあとなら、まだ多少は許せる。多少は、ね。しかも、こういうことをやれば、少子化も若干は防げる。若干は、ね。
 でも失礼だよね、子どもがほしくてもできない人に対しては。この方を大々的に支援しておられたあの方だって、子どもがいなかったし。
 だが、LGBTは、極論すると嗜好の問題に過ぎない。人の嗜好には、余計なことを言わないほうがよろしい。
「アイヌや韓国の民族衣装を着たコスプレおばさん」に対して、「品格に問題がある」ともおっしゃった。アイヌのアットゥシにしても、チマチョゴリにしても、たとえご自分のご趣味に合わなくとも、百歩どころか一万歩譲っても「品格に問題がある」とは絶対に言えないはずだ。だいたいこの方は、品格って言葉の意味がわかってるのかね。それに、民族衣装に対してこういう言い方は、「思想に問題がある」と言える。国際問題になるぞ。
 その方のご尊名は出さない。品格に問題がある(笑)からである。
 当然のことながら、この方は札幌と大阪の法務局から、人権侵犯の事実を認定された。これに対しても、この方は「人権の定義に関する根拠法令がない」とお言い放たれた。
 馬鹿言えよ。だいたい、おまえ法令ってなんだか知ってるのかよ。法(律)(政)令は憲法の下にあるもんなんだぞ。そのくらいのことは、中学で習うだろうが。いくら自民党が現行憲法を変えたいからっていっても、憲法くらいちゃんと読めよ。国会議員なんだろ。おまえさんは知らないかもしれないけど、憲法っていうのは、国が国民に対してした約束なんだぞ。これも、中学で習う。国会議員が憲法をろくすっぽ読まず、仮に読んだにしても理解していないと言うのは、それだけで職務怠慢と言われても仕方あるまい。
 憲法には、俗に人権条項と呼ばれている条文がある。念のため、その13条の当該部分を書いておく。

 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 ちゃんと、「立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」と書いてある。解説してやるよ。「根拠法令」だのへちまだの言う前に、憲法が自分のなかで人権に関しては「根拠法令」など必要ないと明言しているのである。
 どうしてこういう方が国会議員でいられるのか、私は『新潮45』以来ずっと考えてきた。そして、得た結論が、「この方は鉄砲玉なんじゃないか」というものだった。
 ご存じのとおり、組織業の方々の縄張り争いに際し、鉄砲玉が送り込まれる。鉄砲玉は、あっちこっちにアヤをつけまくり、ゴロを巻きまくり、当然の結果として殺される。後に、この殺しをネタに本隊が出て行って、双方の利害がバランスをとるところで手打ちになる。とは言っても、鉄砲玉を送ったほうが得をする結果になることは言うまでもない。これが鉄砲玉の役割である。似てるでしょ。似てるけど、この方は鉄砲玉以下だ。アヤつけ放題でも殺されることはまずないだろうからだ。
 毎日新聞の社説では、この方を「放置する首相の見識疑う」とあった。そんなこと疑ったって、まったく意味はないし、この社説自体無意味である。鉄砲玉だからだ。
 最後になったが、今回のお話は、大変失礼であったことをお詫びする。組織業の皆さま、あんな連中と一緒くたにして本当に申し訳ありませんでした。

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