シェアハウス・ロック2401初旬投稿分

元日には『目覚めよと呼ぶ声の聞こえ』0101

 もう30年以上、元日の朝は『目覚めよと呼ぶ声の聞こえ』(J.S.バッハ)を聴く。この曲で新年の朝を迎えるわけである。
 有名なのはBWV140のカンタータだが、『目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声』『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』『目覚めよと呼ぶ声あり』など、いろいろな訳がある。
 だが、私が元旦に聴くのはオルガン曲のほうで、こっちはBWV645である。パイプオルガンはいろいろな音を出すが、この曲では、天使の吹くトランペットみたいなところがある。新年にふさわしいすがすがしい曲である。
 新年早々、ほかの雑駁な音を聞く前にこれを聴くことが望ましい。そうすると、すがすがしい新年が迎えられる。
 リビングにあるテレビとDVDプレイヤーで音楽を聴くわけだが、どちらも私の専用ではない。共用である。
 おじさんはテレビっ子で、つまりテレビっ子のままじいさんになり、リビングのテレビを見ている。だから、朝電源を入れると、入力切替をする前に、0.5秒くらいテレビの音の雑駁が入ってしまう。だから、前日に入力切替をしておく必要がある。なかなか手間がかかる。
 お気に入りは、マリー=クレール・アランという人の演奏である。そのCDが行方不明になってしまったので、ここ数年は、別の人の演奏で聴いていた。去年の元旦は、鈴木雅明の演奏をyoutubeで聴いた。再び手に入れたので、今年はマリーさんである。
 これだけこだわっているので、私がオルガンという楽器が好きなのかと思われるかもしれないが、それほど好きなわけでもない。私の好きな楽器は、「夜逃げのときに持って逃げられる」という条件を満たすものである。
 ピアノになると、もはや音楽製造装置というオーダーであり、当然持っては逃げられないが、これがオルガンになると装置どころか建築と呼びたいくらいになる。教会造り付けというか、教会の一部である。
 オーディオも装置ではあるが、これも建築と呼びたいオーダーになることがある。たとえば、三橋達也という俳優さんは、オーディオ装置周辺に50年くらい前で2000万かけ、スピーカーは地下室の壁に埋め込んでいたという。これも、建築の域に達している。
 私、そのころフジテレビで「お昼のやりくりクイズ」という番組のチェックマンというアルバイトをしており、その番組の司会者が三橋達也さんだったのである。チェックマンは、クイズの「正解」が本当にそうなのかを調べるのが仕事である。なかなか楽しい仕事だった。いろいろ面白い話があるのだが、これはネタがなくなったら書くかもしれない。
 三橋達也さんちのスピーカーは、見たくても見られないし、もうなくなっちゃってるかもしれないけど、渋谷の「ライオン」というクラシックばっかり流している喫茶店のスピーカーは、オーディオ好きな人だったら一度は見たほうがいい。これはまだある。私は、音楽好きではあるけど、それほどオーディオ好きではないのだが、あれは、世界遺産に登録してもいいと思う。建築にはなっていないが、あのスピーカーに合わせて店を設計したとしか思えないものである。

【Live】なんという元旦だろう0102

 元旦のお天気はおだやかで、午前中はバッハを聴き、午後は高幡不動まで初詣に行った。
 帰りのバスのなかにいるときに、マエダ(夫)からラインが来た。「ブリをくれる」という。マエダ家に届いたブリを、マエダ(夫)がさばいたのを(夫)から受け取ってから、シェアハウスに戻った。そして、夕飯の支度を始めた。おだやかだったのはここまで。
 キッチンに立っていて、「あれっ、貧血でも起こしたか」と思ったが、ちょっと様子が違うのでテレビをつけたら、緊急地震速報をやっており、能登半島沖で地震が発生したのを知った。
 こういうときはNHKである。組織力、取材力があるので、信頼できる情報を流す。かなり緊迫した女性アナウンサーの声が、「いますぐ、少しでも高いところに避難してください」「立ち止まらないでください」「様子を見に戻らないでください」「周りの人に、『一刻も早く非難してください』と声をかけながら、避難してください」などと繰り返していた。
 3人がテーブルにつき、テレビっ子あがりのおじさんが、テレビ朝日にチャンネルを変えた。そこでも、文言は同一のアナウンスが繰り返されていた。
 どうも、マニュアルがあるのではないかとか、「こういう言い方をする」という申し合わせがあるのではないかという思いが頭をかすめる。テレビは二社だけだったけど。
 もし、そうであるなら、こういう申し合わせをした時点では平穏無事だったはずだから、もうちょっとシリアスな事態で、かつ、事前打ち合わせが可能なことでは、報道協定めいた、緊急会議めいたものが行われないはずがない。それで、大マスコミの報道は切れ味が悪いのではないかと思ったわけである。
 首相官邸からのメッセージというのも聞いた。生成AI作成のような文章を秘書官だかなんだかが棒読みにしていた。もうちょっと、なんとかならないものか。これは言い方、内容に関してというよりも、支援体制についてである。その発表が希薄だった。
 起こってしまったことは、起こってしまったことだし、しかも天災である。だから、私らが聞きたいのは、いまどういう支援体制が組め、それがいつから実効するのか、そういったことである。
 テレビ等々の悪口はここまでにする。悪口というよりも、これは苛立ちである。
 いまの段階では、犠牲者の数はそれほどでもないようだ。だが、これにしても、ただ単に集計が遅れているだけなのかもしれない。
 1997年は、地下鉄サリン事件の年であり、阪神大震災の年である。大震災直後に乗ったタクシーの運転手さんが、「こんな年は来ないほうがよかった」と言い、その控えめな言い方に私は打たれた。『ヨブ記』で義しき人ヨブに、神は次々と苦難を与える。ヨブの信仰を確かめるために、である。神さまも、ひどいことをする。子どもを奪われてもヨブは、「神が与えて、神が奪われたのだ。神の名は誉むべきかな」と言うが、最後の最後の苦難で、「私は生まれないほうがよかったのだ」とギリギリのことを言う。それを思い出したのである。
 最後になったが、亡くなった方々の冥福をお祈りする。同時に、被災者の方々に物資その他の支援が一刻も早く到達することをもお祈りする。

三日は和太鼓グループの演奏を聴きに0103

 本日は、イーアス高尾という商業施設に行く。「鼓一」という和太鼓グループを聴きに行くのである。12:00からと14:00からの二公演。今日『シェアハウス・ロック』をあげるのは9時ごろだと思うので、近くの人は間に合うよ。
 私は、音楽はだいたい好きなので、和太鼓も好きである。
 和太鼓というジャンル自体の誕生は、鬼太鼓座(おんでこざ)から始まると言っていい。ここで言っている「和太鼓」は、ステージでの演奏/鑑賞に耐えうる水準のものといったことである。もちろん、和太鼓という楽器自体はずっと以前からある。
 鬼太鼓座の結成は1971年だったので、和太鼓の歴史は50年そこそこであることになる。彼らは当初、佐渡で集団生活をしながら演奏技術を磨いた。「おんでこ」は佐渡の言葉である。
 その後、秩父囃子の締太鼓を取り入れた。締太鼓が基本的なリズムを刻み、大太鼓その他がオブリガート的な動きをする現在の和太鼓のスタイルが確立された。もちろん、この役割は時として入れ替わり、それが演奏にスリルを与えることになる。
 四谷にいたころは、鶴岡八幡宮で催される和太鼓のイベントによく行った。鬼太鼓座、鼓童など、プロの演奏はよく聞いていたが、アマチュアの演奏はどうなのかと思い、鶴岡八幡宮の大祭に聞きに行ったのである。相当な水準だったので、さらに、たとえば神田明神、湯島天神等々、いろんなところへ聴きに行ったのだが、行った範囲では鶴岡八幡宮がぴか一だった。つまり、最初からアタリを引いたわけである。
 八王子に引っ越し、なかなか八幡さまには行けなくなってしまったが、それで「鼓一」を発見したわけである。
 私らと私らの友人は、ほぼ「鼓一」の追っかけと化している。
 去年の三月だったか、関東地区予選の会場であった相模原市の市民会館に「鼓一」を聴きに行った。もちろん、地区予選なので、他の団体も出ていた。ここで優勝すれば、全国大会に出られる。
 観客が一人一票を投じ、審査委員が一人100票を行使した。確か審査委員は5人、相模原市長と、その地区選出の国会議員もいた。会場はせいぜい600人だから、このバランスは問題である。しかも、審査委員の票がどう動いたかも発表はなし。これは、発表すべきだ。
「鼓一」は残念ながら準優勝。相模原市の団体が優勝。ただし、演奏中に手(拍手)が来たのは「鼓一」だけだった。だから、ホーム・デシジョンだろうと私は思っている。
 新年の太鼓は、本来新年を寿ぐものであるが、今年は、少なくとも私はそのなかで鎮魂を聞き取ろうとしている。

四日は御用始め0104

 年金生活者の分際で、御用始めなんぞと片腹痛いとお思いかもしれないが、御用ではある。今日から、87歳のお爺さんの、宗教的自叙伝の編集作業を始めるのである。
 この人は40代早々に奥さんを亡くし、3人の娘さんを男手ひとつで育てた。聖書は大学時代に友人の影響で読み始めたのだが、教会には属さなかったと言う。
 教会に行く人たちが「連峰」としたら、このお爺さんは独立峰である。教会に行く人たちをくさしていると思われると困るが、独立峰は山として美しい。
 つまり、このお爺さんは私の好きな独学者の条件を満たしていて、さらに信仰者であることになる。この人の書いた文章のなかには、カール・ヒルティ、カール・バルトの引用が頻出する。これは、信仰者としてはあたりまえだが、さらに、エマニュエル・カント、アンリ・ベルクソンなどもかなり参照している。
 私は、聖書こそよく読むが、信仰からは見捨てられた人間である。だから、いわゆるキリスト教書はそれほど読んではいないのだが、そのなかで、カント、ベルクソンの引用は見たことがない。
 お爺さんは北海道生まれ。長じて東北大学に入り、そこでマルクス経済学を修め、河北新報という新聞社に入った。つまりインテリである。かつ、頭がいい。
 これは、学歴、職歴で言っているのではない。お付き合いさせていただいたり、話をさせていただいたり、この本をつくる工程でやりとりした印象で申し上げている。
 ところが、頭のいい人にはいい人なりの欠陥がある。特に文章を書く際、まず、書いている自分がわかってしまっている嫌いがある。わかってしまっていると、わからない人のことがわからない。
 これは、他人が書いた文章を読む際にも言えることだと思う。つまり、たとえそれが悪文でも、わかっちゃうから、わかりにくい文章に対するセンシビリティに欠ける傾向がある。
 それで、編集者としてはなかなか困った事態だが、それを上回ることがある。たとえば、信仰に至る道筋というのがだいぶ見えてきた。これは、私の好きなシモーヌ・ヴェイユを読む際に意味があると思える。でも、私が信仰に受け入れてもらえるとは、とても思えないけど。
 お爺さんの誕生日は四月末で、そこで米寿になる。
 それまでになんとか形にしたいと、お爺さんも私も希望している。
 原稿は全部入力が終わり、後半部分は、ご本人の承諾を得て、リライトも済ましているが、前半はリライトが済んでいない。
 でも、間に合うと思っている。
 編集者としての私の望みは、3人の娘さんが、「お父さんは、こういうことを考えながら、私たちを育ててくれたのか」と思ってくれることである。涙のひとつも流してくれたら、それにまさる喜びはない。

 
雑煮はお昼に0105

 三が日は雑煮を食べたが、それは昼に、である。おばさんは朝食をとらないので、私の朝は元旦から変わりばえせず、コーヒー、パン、バター、ジャム、ミルクであり、それに去年の暮れからはヨーグルトが加わった。
 パンは、昔々はごくフツーの食パンだった。それで十分だったが、シェアハウス住まいになって、カンパーニュというものに替えた。おばさんが、「どうせ共同経費から出すんだから、もっとちゃんとしたのにしなさいよ」と圧力をかけてきたからである。
 新年早々の話題ではないが、忘れてしまうといけないので言っておくが、何回か出てきた四谷の小料理店で、そこの奥さんが、わが友・青ちゃんを評して「青ちゃんはいやし系だからね」と言ったのに対し、青ちゃんは隣にいたおばさんを指し、「こちらは威圧系ですからね」と答えたという。青ちゃん冴えてるよっ! ご本人のおばさんも、思わず「うまいっ!」と言ったそうだ。自覚はあると見える。
 話を戻して、カンパーニュは半球のフランスパンである。これを四等分にして毎朝一片を食うことにしている。
 いま、簡単に四等分と言ったが、これが実はなかなかに難しい。
 昔、『ケーキを三等分できない非行少年たち』という本を読んだ。とても面白い本だったが、この非行少年たちを、確か著者は「境界知能」という言葉を使って説明していたと思う。これには若干の異議がある。これは知能の問題ではなく、教育の問題だと思う。簡単に言えば、360°、120°ということを知らなければ、丸いケーキは三等分できない。かなりの知能があっても、教えられなければわからないと思う。
 私は、いまは非行ではないし(と思う)少年でもないが(間違いなく)、半球のパンをうまく四等分できない。二等分はできるよ、難なく。ところが、それをさらに二等分するのが難しい。大きさというよりも、量で二等分しなくちゃいけないからである。もう、四年程度やっているが、会心の出来は一度もない。いつもどっちかが大きいような気がしている。
 長さ(一次元)の三等分、四等分は簡単にできる。面(二次元)の二等分、四等分も簡単である。ところが量の二等分になると、なにかカップとか秤とか、量るものがないと難しい。これは、人間が三次元動物であることと関係しているのだろうか。
 こういったことは、ギリシャ数学の範囲だと思うのだが、寡聞にして、そういうことを言った人の話は聞いたことがない。
 さきほど、『ケーキを三等分できない非行少年たち』という本と言ったが、これは記憶だけなので、アマゾンで調べてみた。ところが、『ケーキの切れない非行少年たち』というタイトルしか出て来なかった。もっとも、ずっと下まで行けばあったのかもしれないが。
 タイトルを変えたのだろうか。それとも私の記憶違いか、よくわからない。
 

『夕焼け小焼け』の作詞者0106

 私が初めて全部きちんとおぼえた童謡は、『夕焼け小焼け』だったと思う。5歳くらいだったか。歌詞は、皆さんご存じとは思うが、以下である。
 
 夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る
 お手々つないでみな帰ろう 烏と一緒に帰りましょう

 子どもが帰った後からは まあるい大きなお月さま
 小鳥が夢を見るころは  空にはきらきら金の星

 一番は子どもの視線から書かれている。だが、二番は、俯瞰視線、仰角視線である。5歳のころは、さすがにそんなことは考えなかったが、小学二年くらいになったころには、二番は「この光景は誰が見ているんだろう」と思い、とても不思議な感じがしたことをおぼえている。つまり、一番は子ども(=自分)が見ているが、二番の光景は「子ども(=自分)には見られないし(だって、帰っちゃってるんだから)、ましてや小鳥のことなんかわかるはずがない」と思ったわけである。いま思うと、近代小説理論の「神の視線」てえやつに気が付いたわけですな、これは。
 私は、いまでこそこんな体たらくだが、それに気が付くなんて、幼少のころは頭がよかったのかもしれない。
 ところで、荒川区立第三日暮里小学校にはこの歌にちなんだ記念塔があり、また、第二日暮里小学校には記念碑があるという。これはずいぶん前から知っていた。だから私は、あのあたりの歌なのかなと漠然と思っていたのだが、あのあたりには山などない。まっ平である。それで、「どういうことなんだろう」と、これもずっと不思議だった。
 実は、『夕焼け小焼け』は八王子の市歌のようなもので、午後四時になると、私が今住んでいるところでは、そのメロディがラウドスピーカーから流される。
 これは、『夕焼け小焼け』の作詞者・中村雨紅が、八王子市上恩方町生まれであるためである。恩方には、「夕焼け小焼けの里」という施設すらあり、これは八王子市民であればほとんど知っている。
 中村雨紅は、本名高井宮吉。明治30年生まれ。大正5年東京府立青山師範学校を卒業、東京都北豊島郡日暮里町の小学校に奉職した。前述の荒川区の記念塔、記念碑はこれにより建てられたものである。
 中村雨紅は、その時代に童話、童謡の執筆を始め、童話童謡を掲載した.雑誌『金の船』(後の『金の星』)で活躍した野口雨情に傾倒し、雨紅のペンネームを使うようになったという。
 一方、『夕焼け小焼け』の作曲者・草川信は、長野県上水内郡長野町(現長野市)で明治25年に生まれている。

童謡と唱歌0107

「兎追いし かの山」で始まる『故郷』を、童謡だと考える人がいると思う。だが、あれは唱歌である。「えっ、それってどう違うの?」と思った人もいるはずだ、
 だが、童謡と唱歌は違うものである。岩波文庫で、『日本童謡集』『日本唱歌集』と別建てになっていることからも、このことはうかがえよう。
 これを一緒くたにしたら、唱歌のほうは怒らないかもしれないが、童謡の側は怒るはずだ。つまり、唱歌がダメなので出てきたのが童謡なのである。
 まず唱歌は、明治5年の学制頒布以来使われている用語であり、とりあえずは教科名である。歌のほうは文部省唱歌と正式には呼ぶようだ。現在知られている唱歌は、国定教科書下で出てきたものであると思ってほぼ間違いはない。
 では、唱歌のどこがダメか。
 唱歌は文語で書かれている。だから前述した『故郷』の詩を、兎を「(食べたら)おいしい」と多くの子どもがそう思った。浦島太郎の歌の後半、太郎くんが地上に戻ってきたときの場面の「帰ってみれば、こはいかに」を「怖い蟹」と思ってしまった子どももたくさんいた。私たちも知っている『春の小川』の出だしは、戦前は「春の小川は さらさら流る」だった。これが、「ゆくよ」になったのは、戦後の弥縫策である。
 こういう状況にあって、子どもにもわかる歌を子どもたちに与えなければと考えた人たちがいた。同時にその人たちは、子どもには素晴らしい童話と詩を与えなければとも考えた。
 1918年(大正7年)に、その人たちの「機関紙」と呼べる雑誌が創刊された。『赤い鳥』という児童文芸雑誌である。主宰は鈴木三重吉。これには、北原白秋も協力した。
 前回お話しした、『金の船』も児童文芸雑誌であったし、あと私が知っているのは『童話』『少女号』である。一時期は、もっともっとたくさんの児童文芸雑誌があったのだろうと思う。
 これら児童文芸雑誌の群立の後背には、大正デモクラシー運動があった。ロシア革命は1917年(大正6年)である。だから、大正デモクラシー運動に連なる政治的な人々は共産主義、社会主義、アナーキズムなどに走り、穏健というか、芸術志向的な人々は童謡運動に拠った。この童謡運動によって世に出た童謡として、『かなりや』(西条八十/成田為三)、『赤い鳥小鳥』(北原白秋/成田為三)、『青い眼の人形』『十五夜お月さん』『七つの子』(野口雨情/本居長世)など、多くの歌がある。
 まだまだたくさんのいい歌があるのだが、それらと、作詞者、作曲者と彼らの交流、背景を紹介していったら、一大論文になってしまうので割愛せざるを得ない。
 テーマは『夕焼け小焼け』なので、それに若干関連することを言っておくと、上記の『赤い鳥小鳥』は雑誌『赤い鳥』の大正7年十月号に発表されたが、それに成田為三が曲をつけ、同誌に発表したのは大正9年の四月号である。
『夕焼け小焼け』の詩は1919年(大正8年)に発表され、曲がつけられたのは1923年(大正12年)であるという。
 こういうことから考えると、おそらく、『夕焼け小焼け』の作詞者と作曲者は、面識すらなかったのではあるまいかというのが私の想像である。
 また、『かなりや』は、赤い鳥で曲のついた第一号である。ここからも、詩を書く人間のほうが、曲を書く人間より圧倒的に多かったことが想像される。
『赤い鳥』は鈴木三重吉の死(1936年)により途絶したが、『金の船』(後の『金の星』)を発行していた会社は、金の星社として、いまも営業を続けている。

『夕焼け小焼け』の作曲者0108

『夕焼け小焼け』の作曲者・草川信は、旧制中学まで長野で過ごした後、東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)に進み、ヴァイオリンを安藤幸と多久寅に、ピアノを弘田龍太郎に学んだ。
 ちなみに、弘田龍太郎は『浜千鳥』(詩は鹿島鳴秋)『叱られて』(同以下略、清水かつら)『雨』(北原白秋)『雀の学校』(清水かつら)『春よ来い』(相馬御風)『靴が鳴る』(清水かつら)など、多くの童謡を手掛けている。弘田龍太郎も童謡運動の旗手であったことになるが、ただし、弘田は『鯉のぼり』(作詞者不詳)という文部省唱歌もつくっているので、あまりこだわらない人であったのかもしれない。と言っても、「屋根より高い 鯉のぼり」のほうではなく、「甍の波と 雲の波」で始まるほう。文語バリバリで、一文字目から「甍」である。
 さて、草川信の童謡作品から有名どころをあげると、『ゆりかごの唄』(北原白秋)『兵隊さんの汽車』(富原薫)『どこかで春が』(百田宗治)『緑のそよ風』(清水かつら)など。
 そのなかの『兵隊さんの汽車』は、「兵隊さんを乗せて…」という歌詞があり、それを戦後GHQが「不適切である」としたため歌詞を変え、題名も『汽車ポッポ』に変更したといういきさつがある。つまり、戦後改作された。
 また、『緑のそよ風』は1948年(昭和23年)につくられた。戦後の曲である。
『夕焼け小焼け』がなぜこれだけ広く歌われるようになったのかは、歌の持っている力であるとしか言いようがないと思われる。 
 大正12年、文化楽社から刊行された『あたらしい童謡(一)』に掲載された童謡のうちのひとつが『夕焼け小焼け』であった。文化楽社と言っているが、ピアノの販売店がその本体であり、ノベルティグッズのような扱いだったのだろうと思われる。
 この童謡集は震災に遭遇し、そのほとんどが失われたが、残った数部から歌い広げられていったことになる。
 ちなみに、『日本童謡集』(岩波文庫、与田準一編)では、中村雨紅の詩は『夕焼け小焼け』のみであり、『あたらしい童謡(一)』(より)となっている。よって、これが詩曲そろっての初出と考えていいだろう。
 作詞者の中村雨紅は、後年まで教師を続けたが、教え子たちは、彼が『夕焼け小焼け』の作詞者であることを知らなかったという。そういう話をする人ではなかったのだろう。
 前述のように、ふたつの記念塔、記念碑などもあるため、ジャーナリストなどが中村を訪ねあて、作詞した時期を質問したというが、本人も正確にはおぼえていなかったそうだ。中村は、昭和47年逝去。75歳だった。
 ところで、作曲者・草川信の故郷である長野市往生寺境内にも『夕焼け小焼け』の歌碑があるという。
 細かなことを言うと、そこに「歌碑」(つまり詩が刻まれている)があるのは少しおかしいが、でも私は、そこに山があり、そこにお寺があり、鐘があれば、どこに歌碑があってもいいとも思う。あれは、優れて日本の原風景を歌った歌だからというのが、その理由である。
『奇跡の童謡』(山内喜美子著)は、ほぼ草川信の伝記であるが、この「奇跡の童謡」は『夕焼け小焼け』のことである。
 

私の腸活0109

 以前、「食い物シリーズ」に入るあたりで、栄養学の話になり、「食い物ではないけど、腸内細菌が健康に大きく寄与しているようだ」みたいなことを書いた。
「以前」からだいぶ経ってしまったが、これから書いていくことは、その続きである。
 まず、私は、「新ビオフェルミンS」と「ある乳酸菌」を常用している。
「新ビオフェルミンS」は、約20年前から飲み始めた。その年の春、私は花粉症がひどく、どうしたものかと思っていたところ、たまたま読んでいた藤田紘一郎さんの本に、「新ビオフェルミンS」を飲むようになって花粉症の症状が軽減されたとあったのである。
 藤田さんは東京医科歯科大学の教授で、「寄生虫博士」として知られていた人だ。自分のお腹のなかでサナダ虫を飼っており、名前までつけていたという。ところが、このサナダ虫が寿命で死んでしまい、血まなこになって鮭の生身をあさり、サナダ虫の卵を探したが、ついに発見できず、後継者は育てられなかった。
 藤田学説というものがあり、学説と言った割にはシンプルで「お腹(腸)を汚すと健康にいい」というものである。これは、バクテリア等によって汚すということである。
 藤田さんはサナダ虫(名前で呼んであげたいが、どうしても思い出せない)が死んでしまい、花粉症の症状が出るようになったということであった。彼女(女性名前だった)が生きている間は、彼女の排出物で、「お腹が汚れて」いたのである。
 私は、「新ビオフェルミンS」を飲むようになって、2週間ほどで花粉症の症状が、確かに軽減された。それから数週間後、友人から、「これも飲んでみたらいい。ただし、数週間は効果がわからないかもしれない」と、前述の乳酸菌を勧められたのである。それは、金峰(これでフルネームである)という人が開発した乳酸菌であった。
 数週間どころか、二日で、「これも飲んだほうがいい」と「体感」できた。たぶん、「新ビオフェルミンS」で腸活の基礎ができており、効き味が早かったのだろうと思う。この「体感」は、このシリーズのキーワードである。
 金峰さんによれば、市販の乳酸菌等は、何世代もプラントのような環境で培養されており、「野性味」がなくなっているという。だから、金峰さんのかかわる乳酸菌は、毎年、金峰さんの故郷である内モンゴルまで採集に行っており、それを培養してつくられている。
 この腸活は現在でも続けているが、それに2年くらい前から、エビオス錠を飲むことが加わった。それと、納豆を食べること、オリゴ糖や食物繊維を多く含むものを食べることも「体感」からいいと思える。
 ここで若干の注意事項を。
 お酒を飲む人は、乳酸菌、ビフィズス菌(「新ビオフェルミンS」はビフィズス菌)を朝、あるいは昼に飲むほうがいい。夜飲むと、一緒に飲む酒で、アルコール消毒されてしまう。
 次回からお話しすることのネタ元は、『週刊新潮』(23.12.21号)に掲載された、國澤純さんによる「特別読み物」である。もう当然店頭にはないが、こういった話がよくまとまっており、最新情報に近いと思われるので、腸活にご興味がある方は読んだほうがいい。まだ図書館にはあるはずだ。

「リレー」と三つの戦略0110

『週刊新潮』(23.12.21号)に掲載された、國澤純さんによる「特別読み物」のキーワードが表題である。
 まずわかりやすいほうの、三つの戦略からお話しする。
 いい菌、いいエサ(菌のエサ)、いい働きがその三つである。國澤さんは「働き」と言っているが、これは若干わかりにくい。「いい(腸内)環境」ということである。その環境によって、「いい菌」が働きやすくなる。
 とは言え、いい菌で推奨しているのはヨーグルトと納豆。錠剤等には触れていない。そして、いいエサは水溶性食物繊維、難消化性オリゴ糖である。そして、いい働きをする助けとなるのはビタミンB1しか紹介されていない。ある意味、とてもシンプルである。シンプル・イズ・ベスト。
 水溶性食物繊維は、具体的には大麦、海藻類に豊富に含まれており、オリゴ糖は、バナナ、牛乳、玉ネギ、ゴボウ、豆類に豊富である。
 次は、リレーの話である。腸内細菌は、食物繊維やオリゴ糖をエサにポストバイオティクスをつくる。たとえば、チョコレートに多く含まれ、ストレス軽減効果が知られているGABAなども、ポストバイオティクスとして生成される。その他、腸内細胞の免疫機能を調整したり、脂肪がつきにくい働きをしたりする短鎖脂肪酸もポストバイオティクスとして生成される。
 ここのメカニズムは、やや複雑である。
 まず、糖化菌(納豆菌もその一種)が食物繊維を糖に変え、その糖を材料に他の菌が乳酸、酢酸などをつくり、さらに別の菌が短鎖脂肪酸をつくるという。これを、國澤さんはリレーと言っているのである。
 リレーの例えを続けると、第一走者が納豆菌(というか納豆そのもの)であり、第二走者が乳酸菌、ビフィズス菌である。これらの菌が、糖を乳酸、酢酸に変え、それをさらに酪酸、プロピオン酸に変えるわけである。
 これらの菌が活躍する舞台は大腸だ。
 ところで、口から摂取した一般の糖類は小腸でほとんど吸収されてしまい、大腸には届かない。よって、大腸で新たに糖をつくり出す納豆菌(糖化菌)が重要になり、また小腸で吸収されにくいオリゴ糖が重要になるわけである。
 同記事には、機能性乳酸菌(ビフィズス菌)とでも呼びたくなるような菌も紹介されている。たとえば、
・ビフィド・バクテリウム・ラクティス菌GCL2505株(内臓脂肪の蓄積を抑える)
・ラクトバチルス・ヘルバティカス菌CM4株(血圧を穏やかに下げる)
・ラクトコッカス・ラクティス菌JCM5805株(免疫力を維持する)
などである。このあたりは、私も初耳だった。
 ここのところ、腸内細菌の研究が相当進んでいるのだろう。納豆をあの状態で食べるのは日本だけだろうから、こっちの研究は諸外国では無理で、いずれ国内の研究者が取り組むものと思われ、さらに新たな知見が加わるはずだ。
 藤田説学徒としては、このへんの進展は楽しみである。
【追記】
 以前、我が畏友その1から、「俳句は分かち書きしないぞ」と注意され、訂正したが、今度は畏友その2から、「もう『夕やけ小やけふれあいの里』には行ったか」とコメントが来た。1月6日に、「恩方には、『夕焼け小焼けの里』という施設」がありと書いてしまったので、やんわりと注意してくれたものと見える。私は童謡のタイトルと「里」しかおぼえてなかったんだな。困ったものだ。ちなみに、畏友その2は恩方生まれ育ちである。
 次回はダイバーシティ(多様性)の話になるので、私の畏友連中にも多様性があり、注意の仕方にも多様性があるとオチがついた。腸活はともかく、友活はうまくいっているな。幸せな人生である。

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