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金スマ YOSHIKIの人生とhideについて

伝説的ロックバンド「X LAPAN」のリーダーYOSHIKI。

天皇陛下即位10周年記念奉納曲を任されるなど、日本を代表する音楽家です。
奇抜でド派手な「X JAPAN」でしたが、その実力は確かなもので、昭和に生まれ、平成に移り変わった時代を駆け抜けました。

ビジュアル系というカテゴリーを確立し、野茂やイチローがメジャー挑戦したように、X JAPANもアメリカ進出し、ロック界のパイオニアとも言えるでしょう。
その挑戦が、バンドとしての寿命を縮めてしまったことは事実でしょうけど、世が世なら、また違っていたことでしょう。


YOSHIKIの目覚め

YOSHIKIは呉服屋を営む家に生まれる。幼少の頃からピアノを弾き、父はその姿に喜び応援していた。しかし、YOSHIKI少年が小学生の時、34歳だった父が突然の死。後から自殺だったと知ることになるが、悲しみはもちろん、怒りもあったそう。そんな中、ロックバンド「KISS」と出会ったことで、父を失った悲しみや苦しみを解放させるかのように、ドラムに打ち込み始めた。

見方によっては、父の死がなければ、YOSHIKIがドラムに出会わなかったかもしれません。

小学生にYOSHIKIの洋楽好きは理解されない中、唯一話があったのが、Toshiくんだった。小学生でバンドを組み、その名も「DYNAMITE」として、YOSHIKIの音楽活動がスタートする。

中学になると、ロックミュージシャンを目指していることもあり、先生から髪型を指摘され、強制的にバリカンで坊主にされるということがあった。それをきっかけに、反発心が強まり、不良となっていく。事あるごとに先生に反発するようになるが、学力はトップクラスで、学校からも不良なのか優秀なのか、どちらが本当の姿なのかを悩ませていた。


Xの誕生

YOSHIKIは進学校に進学するが、相変わらず反発した不良でもあった。そして、Toshiも同じ学校に進み、新たにバンドを結成するのだが、それが「X」の誕生の瞬間だった。「無限の可能性」という意味を持つ「X」を結成し、コンテストなどにも出場するようになっていた。
荒れてはいたものの、それでも母の言いつけを守り、勉強だけはしていた。進路を考える時期になり、ピアノを弾きながら考えていると、「音大に行きたい」と母親に伝え、母も喜んで応援していた。

そこに、Toshiがやってくる。「X」は、評価が高く、YOSHIKIベストドラム賞、Toshiはベストボーカル賞を受賞するなど、「高校卒業後、Xでやっていけるんじゃないか?」というToshiの言葉に、YOSHIKIは、音大進学を辞め、ロックの道に進むことになる。当然反対されるが、いい加減な気持ちではできないと、覚悟を決めた。

YOSHIKIとToshiの2人に、TAIJIが加わり、別のバンドで、音楽を辞めて美容師を目指そうとしていたhideを誘い、PATAの5人で、「X」が完成した。覚えてもらうために、奇抜な髪型とメイクを施し、ビジュアル系バンドとして全国をワゴン車で回る下積み時代を過ごしながらも、中々売れない時期を過ごす。
今後のことを話し合うとき、「アルバムを出そう」とYOSHIKIは提案するが、自費出版をするには1000万円かかる。「これでダメだったら諦める」と母親に相談するが、「そんなお金はない」と断られるも、翌日、母親は1000万円をYOSHIKIの口座に振り込みました。そのお金で、アルバム「VANISHING VISON」を発売。

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これが、瞬く間に1万枚を売り上げ、インディーズながら、日本史上初となるメジャーチャートにランクインすることになった。

しかし、社会の評価は厳しく、音楽性よりもその見た目で売れたと叩かれ、思うようには進まなかった。そこに、ソニーの津田氏が注目し、名曲「ENDLESS RAIN」が生まれたことで成功を確信し、1989年にアルバム『BULE BLOOD』でメジャーデビューすることとなる。

津田氏の思った通り、「X現象」と呼ばれるほどの人気となり、デビュー3年で紅白にも出場し、東京ドーム公演を成功させた。そして、海外進出をすると同時に、「X JAPAN」に改名することとなりますが、メンバーのTAIJIが脱退。その真相は、「バンドのルールを破ったから」だそう。TAIJIの代わりにHEATHが加入し、アメリカへ行くも、アジアの新参者は徹底的に叩かれ、言葉の壁もあり、レコーディングは難航した。


X JAPANの解散とhideの死

ついには、Toshiが脱退を表明し、「X JAPAN」は1997年に解散することとなる。東京ドームでの公演を最後に再三するも、YOSHIKIとhideは、「新しいボーカルを見つけて、2000年に「X JAPAN」を復活させよう」と約束をしていた。

しかし、1998年5月2日。突然の訃報がYOSHIKIの元に。
hideが亡くなったと。

アメリカにいたYOSHIKIはすぐに帰国するが、hideの死によって希望を見失う。追い討ちをかけるように、hideの死を嘆いたファンの後追い自殺が報じられ、傷心の中会見を開いて、食い止めるように訴えるが、誰よりも傷ついていたYOSHIKIは、精神科にもかかっていた。わかりもしないのに「わかります」という医師の言葉に、YOSHIKIは怒りが吹き出したそうな。でも、それがきっかけで、気持ちは吹っ切れて、hideを思って作曲し、YOSHIKIは「X JAPAN」の扉を閉じた。


「X JAPAN」再結成

その後、ステージに立つことはなくなったが、「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典』で演奏の依頼を受け、思い悩むが母親の一声で、受けることにする。ピアノに向き合うと、閉ざしていた音楽の扉が開かれ、メロディが溢れてきたそう。祭典は大盛況に終わり、音楽家として、新たな一歩を踏み出す。

その後、2007年には、ToshiからYOSHIKIに連絡が入る。再び会うこととなり、hideへの追悼曲「Without You」をセッションする。それがきっかけで「X JAPAN」を再結成することとなり、新メンバーとして、LUNA SEAのSUGIZOが加入。YOSHIKIも椎間板ヘルニアなどで、公園が中止になったりもしながら、ワールドツアーなどを成功させる。また、活動が再開したことで、Toshiの洗脳騒動も解決することになった。

また、一夜限りで、元メンバーのTAIJIをゲストにライブを行うが、TAIJIは翌年の2011年、急逝してしまいました。

メンバー2人の死を受け、責任を感じるYOSHIKIだが、その2人の分も背負って音楽活動に邁進し、YOSHIKI自身、アメリカの三大ステージで演奏するなど、目覚ましい活躍をし、活動を続けています。


YOSHIKIと「死」

YOSHIKIの人生には、幼少の頃から「死」が近くにあり、どこか「いつ死んでも構わない」と思って生きてきたそうです。そして、強制されることを極端に嫌い、常に「反発心」を持っていたようにも思います。父の死がきっかけとなって、感情を発散するドラムと出会い、人生が変わるきっかけとなりました。

ロックの道に進んだのも、Toshiの一言だったりしますが、いわば進学という既定路線を進むか、新人生のロックの道を進むか、そこは「土壇場JCT」だったのかもしれません。

「X JAPAN」は解散し、hideの死という悲劇もありましたが、hideの為に作った曲によって、「X JAPAN」はまた復活することなりました。
父の死や友の死によって、大切なものを失いましたが、得た大事なものもまたあるんだなぁと思います。


YOSIHIKIが今も音楽を続ける理由

YOSHIKIは、椎間板ヘルニアなどの体調面でコンサートを中止にすることもあったり、精神的にも感受性が高く、精神面でも苦しんできたと思いますが、それでも音楽を続けている理由は、「X JAPAN」は凄いバンドなんだと証明する為だそうです。亡くなったhideは素晴らしいミュージシャンでありギタリストだった。TAIJIも本当に素晴らしいミュージシャンだったということを、今も活躍することで、伝えたいんだと。

失ったものは返ってくることはありません。そして、YOSHIKIは「神は、乗り越えられない試練を与えない」という言葉が好きだと行っていましたが、それは

「明るいものにするか、暗いものにするかは、未来が決めること」

だと述べていました。
これはまさに、「せいをおかげに」ということだと感じました。

父の死も友の死も、起こったことはどうしようもない。辛いし苦しいものでもあります。「せい」にして暗いものにするのか、「おかげ」にして明るいものにするのか。それは未来の自分が決めることです。

そして、決めつけや強制が嫌いなYOSHIKIにとって、常に「反発心」があったと思います。「ロックとはこうだ」「できないだろう」というような他者の声に、YOSHIKIは常に反発して乗り越えてきました。学生の頃は、若気の至りで不良という反発をとりましたが、「X JAPAN」としては、音楽や結果を示し、黙らせてきました。根っからの、ロックンローラーなんでしょうね。

今も音楽を続けているのは、友の素晴らしさを証明するということと、「せいをおかげに」すること、そして、ロックンローラー故の反発心なんだなと思います。


実は私、hideが大好きで、hideの死には思うところがあります。その亡くなり方から、当時は「自殺」と報じられましたが、YOSHIKIも言っていたように、hideは自殺をする人ではない。「2000年の約束」の話を聞いて、さらに確信が深まりました。

hideの死は事故死。それが私にとっての真実です。

hideが亡くなったのは5月2日。命日には、hideへのコラムにしようと思います。

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