俳家の酒 其の八「白鷹」
だが待てよ。これでは答えになってはいない。神々の歌には言霊に寄せるものがあるが、果たして現代俳句において、それを意識することがあるのだろうか?
考えるほどに、あの人の残していった課題には「No」と答えざるを得ない。太古の歌を祈りとするなら、現代俳句はこころの叫び、あるいは呟きとでもいうようなもの。心を突き詰めることなど、神には必要とするはずもなかろう。だから、
「己を見つめる精神は、神代から受け継がれてきたものなのか?」
という問いに「Yes」とは言えない。
ところで何故、ひとは自らのこころを歌うのか?新たな疑問が湧いてきて、飛び出す夜道に明かりを求める。ひょっとすればそれは、背負いこんだものを他者に解き明かしてもらうためなのかもしれないと思い始めた時、大将の暖簾が目に入る。
カウンターに腰かけると同時に置かれた酒は、神宮御料酒「白鷹」。そして大将が、
元日や神代のことも思はるる
と独吟。呆気にとられていると、
「どうだい、答えは出たかい?」
と笑い始めた。
先の句は、荒木田守武の句である。俳諧の黎明期にある室町時代、1536年に詠まれたもの。「俳諧之連歌独吟千句」により俳諧の基礎を固めたことで、俳祖と呼ばれる守武。伊勢神宮の神官だったことでも知られているが、そのような人物がこれを詠ってしまうのである。
暗に、神代と今生の断絶を詠んだこの十七文字。神とともに在るとされる者がそれを認めてしまうところに、俳諧としての面白みが生じるのかも知れないが、何とも言えぬ味気なさが漂う。
兎にも角にも、この句は単なる呟きである。自らの現状を申し述べたに過ぎない。耳にしてその可笑しさに気付き、笑みを浮かべる者はあるのかもしれないが、言葉は詠み人の心中を離れることなく、いかなるものも動かしはしない。やはり、太古の歌との間には、高い壁が存在する。そう、人と神との間には、越えることのできない線が引かれているのだ。
人とは、無明を徘徊する独法師・・・
猪口の酒を流し込むと、苦味ばかりが押し寄せてきた。なんだか一気に醒めてしまって、ぼんやり天を仰ぎ見る。するとその時、表の暖簾がはためいて、風が店を駆け抜けた。
「何故、他者を動かす必要があるんだい?」
背後に轟く男の怒声。
「おまえは全く分かっちゃいない!」
(画像は有楽町産直横丁|「俳家の酒」最終回 第8回 俳句のさかな了「酒折の歌」へと続く)