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小説は歴史と同じ? えっ?


タイトルはちょっと強調して書いたが、土屋氏がそんなことを一言も書いておられないので、そこは言及しておきたい。
土屋氏が言及されたのは、

実は歴史家と歴史小説家の違いは、一見されるよりも小さいものだ。

小説かと歴史学者(歴史家?)の違いはなんであろうか。
実は、大きく違う点があり、小説家は読者を楽しませるために虚偽も含めたフィクションを提供し、歴史学者は読み手を楽しませるのではなく限りなく事実に近い推測を提供するものだと考える。
小説家は、別に事実を書かなくてもいいし、自分の持つバイアスを極限までに拡大して読者に提供できる。
多くの共産主義系の小説家が、自分たちのバイアスのかかった意図のあるフィクションを提供して、読者を楽しませてきたり納得させたりしてきた。

現実は厳しいものだから、小説というファンタジーの中にだけでも【正義】や【鬱憤】を晴らせるようにしたり、【可哀想】を提示することで、意図的な【社会の問題】をクローズアップさせることができる。
J・R・R・トールキンの『指輪物語(ロード・オブ・ザ・リング)』の一つの指輪こととは、【貨幣】のことだし、ミヒャエル・エンデの『モモ』は【時間】についての本質的なことを物語を使って著者の【問いかけ】や【言いたいこと】を楽しく表現するものだと考えらえる。

一時、河合隼雄先生の深層心理学から見た物語や昔話の書籍に凝ったことがあった。
確かに物語や昔話は面白いのだけれども、現実の生活としては【お金】からは逃れられないし、【時間】からも解放されることはできない。
小説家の作品は内容というのはそういうものである。それで人生が救われたような方も出ているののは事実であるから、心理的な効果がないというわけではない。人生楽しむということが悪いわけではないからである。いわゆる【方便品】である。

話を元に戻すと、歴史学者といえども読み手に情報を提供する場合は、個人の思想・信条・信仰が入り込み、必ずと言ってバイアスがかかる。
だから、本来はその歴史学者が参考にした【史料】を見るのが一番正解で、バイアスはかかりづらい。

プロット1:Aが道を歩いていると、レンガに躓き、頭を打ち、後に亡くなった。

プロット2:Bが道にレンガを置いた。Aが向かいの道にいる美女を目で追いながら歩いているとそのレンガに躓き、頭を打ち、後に亡くなった。(喜劇的)

プロット3:前の晩、AはCと殴り合いの喧嘩をし、ひどく頭を打って朦朧としていた。しかし、それでも彼は仕事に行かなければいけないと感じ、家を出た。そんな状態で歩いていた彼は、道に置いてあったレンガに躓き、再度頭を打ち、後に亡くなった。(悲劇的)

土屋氏が提示されたものを引用して使わせていただくと、【史料】から得られる情報としては【プロット1】だとすると、小説家はプロット2や3を描いて【金銭】をえることは、全く問題がない。
石川達三や榛葉英治、堀田善衛が【プロット1】から、どう描こうと何を書こうと表現の自由がある以上は、【事実】と異なっていたとしてもその【意図】を表現することは別に構わない。

しかし、歴史学者が【プロット2や3】を【推測】し【説】を唱える場合は、【蓋然性の高い】他の【史料】が要求される。
これを【蓋然性の低い】【証言】などの【オーラルヒストリー】などで自分の【説】を補強したつもりで、【事実】である。【無かったとは言えない】などと言えば、正直【笑い者】である。

例えば、東京大学の日本の政治学者・歴史学者。国際協力機構 (JICA) 理事長でもある【政界】にも大きく顔が効く北岡伸一先生がおられるが、奈良の東大寺学園の【郷里の巨星】でもある。
この方は、日中共同研究という中国と日本の歴史の共同研究会を主催されて、最後に報告書を提示されている。
古代、中世とすばらしい成果があったことは間違いなく、評価されるべきであるが、それが近現代になるとおかしくなる。

例えば、上海事変から続く蒋介石が首都としていた南京城攻略戦での日本軍の様々の行為、いわゆる【南京事件】【南京大虐殺】、この日中共同研究の成果として【事実】を認めたなどと誤解する方達が巷にいるが、実際には、この研究会の中で【議論】は行われておらず、日本の学説を紹介したに過ぎないと言及されている。
日本側の【論文】を読んでも、確かに【学説】の紹介に過ぎないことは明らかで普通の方が読めばわかるのではないかと考える。(斜め読みする方は別だけれど)

問題は、この北岡先生なのだが、

南京事件について、日本軍の虐殺を認めたのはけしからんという批判がある。

先述した通り、共同研究では南京事件にとくに時間をさいて議論してはいない。よく報告書を読んでもらえればわかるが、日本側は、日本側には犠牲者数について諸説あるということを紹介しているだけである。

ただ、虐殺がなかったという説は受け入れられない。

正直、何を言っているのかよくわからない人物である。
報告書をよく読むと、諸説として紹介しているのは、『南京戦史』を別としても、いわゆる【虐殺肯定派】の説を紹介しているだけで、その書籍に関しても【蓋然性】の【低い】【史料】を元にした【説】であったり、この人物の専門に近い【国際法】を【誤読】した【適用】を行なっている人物(共産主義系の歴史観)の【説】を【使用】しているのである。
ご自身の専門的な見地からの言及でもないし、史料も提示しているわけではない、単に他人が書いた学説を見知って【ただ、虐殺がなかったという説は受け入れられない。】とは一体どういう了見だろうか。奈良の郷里の巨星が、驚愕の認識である。

本来【戦闘】による結果は【悲惨】で【残酷】で、【悲劇】はいうまでもない。しかし、当時の状況を測る指針としては未熟ではあったけれど【国際法】に拠らざるを得ない。この人物もその専門家の筈である。それゆえに、この【言及】は理解し難い表現で、単なる個人的な【思想・信条・宗教】からの【思い込み】による判断に過ぎない。
そこに、何ら【根拠】も【蓋然性】も存在しない。小説家と変わらない。
小説家であるならば、仕方がない【表現の自由】だからということになるのだが...

最後に、土屋氏は次のように言及されている。

歴史家が歴史を書く際、様々な局面で選択を迫られている

様々な局面とは、何かよくわからないが、局面になり得るものは【史料】に他ならず、他にはない筈である。
1991年のソ連崩壊とそれより少し前のペレストロイカによるソ連の情報公開。1995年のアメリカのNSAの【ヴェノナ文書】の公開。
国際法では、1998年の国際刑事裁判所の発足とローマ規程の成立。
こう言ったものは、【局面】になり得るものであることは間違いない。

こういった【局面】を無視しつつ、戦前戦後の日本を述べることは不可能で、本来ならば歴史学者は自説の変更を迫られる筈である。
そこに【哲学】が必要なわけでもなく、小説のようなフィクションの想像力が必要なわけでもない。
厳密に冷淡に客観的に見る歴史の事実を【史料】から見直す必要があるわけである。
歴史学者に求められるのは、【想像力】ではなく、【史料】から【客観的】に物事を分析できる能力だろう。

【小説】と【歴史】は全く異質なものである。

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