「自分が生きた証」は要らない。

私は前の投稿で「何かを成し遂げる」という表現を使い、目標や夢、野望を抱き続けていると書き記した。

しかし、私は「自分が生きた証」が欲しいのではない。

何かを成し遂げても私はどうせいつかは死んで無に帰すのだから、私の死後、この世界に私が遺した物や記録や人々の私に関する記憶が存在するかしないかなどどうでもよい。

むしろ、私が存在しなくなったと同時にそれらも全て消えて無くなればよいと思っている。


無論、私が死ねば、この世界がどうなっていようとそれを観測する私は既に存在しないのだから、何か私が存在した証のようなものがあろうと無かろうと、関係の無いことだ。

だが、現に今、私は生きていて、私には死んだ経験も無いので、私は私が消えた後の世界のことを、私が生きている立場から想像する。


私は、幼い頃から己が存在するということが酷く耐え難く、また自分や他者の死を、他人よりも極端に恐れていた。

自分が本当に実在しているのかどうかも分からないのに、それでも、そう考える私は現に存在しているという事実。

曖昧な存在としてこの世に生まれ、そのような存在者として生き続けることが、どうにも心許なく苦痛で堪らなかった。


だが、それと同時に、曖昧な存在者として理不尽に存在させられて、いつかは理不尽に死を迎える、つまり無に帰すという理不尽を被る宿命にも怯えていた。

さらに私と触れ合っている他者も本当は実在していないかもしれない、そしてその曖昧な存在者としての他者といつか触れ合えなくなるということに恐怖していた。

だから、私や他者――この世界――が本当に実在しているのかどうか、私は知りたくて仕方がなかった。自分が死ぬまでにその真理に辿り着けなかったらどうしようと不安になる度に、狂いそうになるほどの恐怖を覚えた。


そして、一般的日本人に比べると、他人からは「過酷だ」と評価されるような生育環境や様々な痛みと苦しみに満ちた人生の道程――私は他人の人生を知らないので、私の人生を一般的に「過酷だ」と言い切ってよいのかどうか分からないが――を経て、昨日40歳の誕生日を迎えた。

若かりし頃、20歳まで生きられる自信が無かった私にとっては驚くべきことだ。

当初、予想していた死に至るまでの年齢の丁度倍の年齢になったのだから、驚きとともに感慨深さや侘しさ、そして若かりし頃の自分とは違う今の自分の少し緊迫感の薄れた気持ちが入り混じって、複雑な心境になっている。


けれども、それでもやはり「自分の生きた証」などひとつも要らない、という私の想いは変わらない。

生きているうちにやりたいこと、やらならければならないことはたくさんある。

シモーヌ・ヴェイユを研究対象にするきっかけとなった経験から、私には果たさねばならない責務が生じ、私は自分の死んだ後の世界などどうでもよいと考えながら、同時に、今生きている我が同胞や、生きづらさを抱えている若い人たち、痛めつけられている人たちが、その苦しみと呪縛から解放されるように社会は変革されるべきだと強く思っている。

どうせ死ぬのだからという気持ちはあるが、今苦しんでいる人たち、これから苦しむことになり得る人たちのことを無視してはならないとも思っている。


私は生き甲斐を見つけたいわけではない。

ただ、私の中にある何か得体の知れない善――のようなもの――に対する強烈な衝動が、私がニヒリズムにどっぷりと浸ることを拒絶するのだ。

だから、私はどうせ死んでしまうけれど、生きているうちだけは曖昧な存在者のままであっても、この不条理に塗れた曖昧な世界の中で生きねばならない。


「なぜ人は自ら死んではならないのか」という問いに対する明確な答えは私には無い。

私はかつて数度自ら死を選び、ギリギリのところで助かって(助けられて)しまったが、数年前からの私に限っては、今言った衝動と、そこから生じる責務が「私が自殺してはならない理由」となっている。


しかしながら、それでも私は遅かれ早かれ、いつかはどうせ死ぬ。

私は中島さんと感覚が似通っている面もあるが、死に関する感覚は異なっている。

勝手に曖昧な存在者として存在させられ、そして現在もなお存在させられ続け、さらに勝手に無に帰せられるという不条理に怯えながらも、早く終焉を迎え、見境無く怯えながら生きているこの私の存在が消滅することを、私はずっと心待ちにしている。


他者の死は私にとっては無ではなく他者の不在だが、私の死は私にとっては無であり、無は何ものでもない。

したがって私の死は、私自身にとっては本来、救済でも不幸でもない。


もう一度言うが、私にとって真理を得ることが叶わないまま死ぬことは、とてつもなく恐ろしい。

だが、理不尽に存在させられる苦痛が無くなるという意味で、この世に何も遺さず、できるだけ早く、且つ自死ではない形で綺麗に無に帰したいという願いにも似た欲求が、私にはある。

不可能だと知りながらも、できることなら「まるで最初から存在していなかったかのようになる」ことを夢見る、夢想家でもある。


しかし、それを期待して生きるような生き方をすることは「無責任だ」と、私の中にある衝動が激しく私を戒めてくる。

だから、私は理不尽に曖昧な存在者として存在させられていることに苦しみながら、自身の死=無から目を背けているふうにも見えるような振る舞いで、今日も生にしがみついて生きている。

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