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【ドキュメント映画『「奇跡の丘」のためのパレスチナ巡礼』】

すぐに忘れていしまいそうなのでメモ程度の所感ですが。

マタイの福音書を描いたパゾリーニの『奇跡の丘』のロケハンのドキュメンタリー。映画のロケハンとしてイスラエルの地を訪れたものの、そこでは大きな失望が待っていた。ゴルゴダに始まりナザレなどイエスゆかりの地を次々に訪れるものの、そこに展開される光景は近代化された建物や夥しい電信柱などで埋め尽くされていた。1964年の時点で、すでに2,000年前を再現することが困難であったのだ。

当時のままだと思われるところもあったのだが、あまりに殺風景な風景にパゾリーニは唖然とするばかり。古代から中世にかけて何度も絵画にされてきた世界とは全く異次元の世界であり、期待と反してあまりにも味気のないものであった。

「アラブ人たちが入植する前は決してこんな光景ばかりではなかったはずだ」と意気消沈するパゾリーニに語りかける神父。それに対して、パゾリーニが答える。

「この味気のない風景を前にしても、それが詩であれば(パゾリーニは詩人でもある)、わたしは何も躊躇することなく筆を取り詩作に興じることができるであろう。でもこれが映像となると話しは大きく変わる。わたしは、自分のなかで育ててきた美的世界を映画へと投影しなくてはならないのだ。」

極限までリアリティを求めるパゾリーニは、生活に密着している一般人を俳優やエキストラに使うケースがほとんどのようだが、イスラエルにいるユダヤ人をエキストラすることは難しいことを知る。イスラエル建国から20年近くが経ち、人々の生活が余りにも豊かになっていたのだ。少額のギャランティではふりむいてくれる人は少ないだろう。そればかりではない、余りに豊かになってしまったためだろうか、当時のユダヤ人を再現できるような顔がないのだ。そこにあるのは、あまりに満たされた顔ばかりであるのだった。

アラブ人の住む場所へと移動する。そこにひとりの美しいアラブの少女がロバ二匹を連れて通り過ぎようとしている。彼女の顔には、2,000年前と何ら変わることのない表情が宿っていた。自分の前に示された、宿命をそのまま引き受けたようるようなその少女の顔は、どこか悲しげでありながらも崇高さを宿している。そのあまりの美しさにパゾリーニは思わず少女の頬に手をかざす。

最下層のアラブ人は、まるで2000年前と変わらないような生活と顔を持っていることを知ったのだが、アラブ人の顔では、ユダヤ人を描くことができない。彼は更に絶望を抱えることになる。

ロケハン後に撮りためたフィルム(その多くが車中から撮影したもの)を見直してみると、多くの光景がパゾリーニの記憶から消えていた。しかし一緒に同行した神父は、その旅順と光景をまるで整理整頓したかのようにきっちりと記憶しているのである。詩人パゾリーニは、移動中、深く沈思していたのだあろと吐露していた。そういえば、わたしも似たようなところがある。いつの間にか思索に耽けて周りを観ていない、ひとり別世界の中にいることになる。

このロケハンがパゾリーニにとってすべて無駄なという訳ではなかったようだ。最下層の人々の表情のなかに、または殺風景であったとしても、歴史的な場に立ったことは、何かしらの霊感をパゾリーニ に与えられたことは確かなようであった。

この映画の撮影後、結局多くのロケ地をアフリカに求めることになるのだが、そこには人類がとうに忘れてしまった奇跡のような光景ばかりが展開されることになる。『奇跡の丘』は、イスラエルのロケハンでの絶望を通過したのち、まさに奇跡のような作品として昇華したのであった。


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