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■上州吉井中野屋の火打金。350年間、令和まで続く日本のブランド

はじめの一歩

江戸時代初期、武田信玄の配下の刀鍛冶「近江守助直」が吉井で火打鎌を打ったという「多野郡誌」の「吉井物産」に記述がある。これが「吉井の火打鎌」の始まりと見る。
吉井宿では福島家、岡田家、横田家等多くの火打金職人が 生まれた。その中でもブランド化し突出して有名になったのが「中野屋一族」であった。

なぜ吉井?


江戸時代にはその町の住人は旅などの移動は禁じられていた。住んでいる町からは理由なしに出ることはできなかった。神社仏閣参りの旅だけが唯一認められていた。江戸の住人は「神社仏閣参り」と称してお上(おかみ)に通行手形を発行してもらい各地に旅に出た。そのためお 伊勢参りには年間 200 万人の旅人が出向いている。信州「善光寺参り」もその一環であった。江戸から信州に向か う商人や旅人には中山道の碓氷峠の関所の検閲がきつかったため、「姫街道」と呼ばれた裏街道「脇往還」を 通り、現在の国道 254 線(埼玉県本庄~群馬県藤岡~吉井~富岡~下仁田~本宿~和美峠あるいは内山峠)を超 え信州へ向かい、同じ経路をたどり帰路に着いた。

信州からの旅人が帰 り道に吉井宿でお土産に買った火打金が「火花がよく出る」と江戸で評判になり、口コミで江戸だけにとどま らず全国に一気に広まり独占的なシェアを占めるようになった。「西の明珍」(京都)、「東の吉井」(群馬)と 言われたが、吉井の火打金の方がはるかに火花が出たとの記述もある。「吉井」は火打鎌の代名詞にもなった。
生産量のピークは明治8年「吉井町物産取調」によると約7万丁の製造総数となっている。全国的には愛知県の生産量が次に4万丁と追いかけてくる。

豆知識


火打金と石、買ったのだけど、段々と火花が出なくなってきた!
99.9%打撃により石の角が丸くなっています。火打金が石によって削れないので火花が出ないのです。金槌でたたいで石の角を出してください。
間違っても、グラインダーなどで研がないでください。
火打金を10年間毎日100回打撃し鉄の角が丸くなっても火は出ます。


吉井本家の火打金は、軟鉄を浸炭させて作っています。グラインダーで研ぐことにより、浸炭部分が剥がれてしまいます。また、熱により成分変化を起こします。どうしても鉄のエッジを効かせたい場合は、砥石で研いでください。


火打ち石の割り方動画


江戸時代の携帯用火打ち石の大きさ

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