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日誌(7月の3週目)

前回

本当に人と話す機会がない生活を送っているので、日常生活レベルでの心の発露ができなくなってしまうのではと思い、適当につらつらと文章をしたためようと思っていましたが、ついにこの時がきたと思った。わざわざインターネッツに発表するような事柄が何もない。日々、犬の散歩行ってスペイン語勉強して食事をして寝るだけ。困ってはない。けど変わり映えのない日々を変わり映えのない文章で表現するのは結構飽きる。とりあえず毎日はあきらめて、週末にまとめてTwitterで書いたことでも膨らますことにした。


かわいい犬の肛門

ThreadsというSNSもやっている。あそこの私のアカウントのFor you界隈はすごい。差別と優越感の匂いをオシャレで隠そうとしているけれど、人々のオシャレな発言から相当な感じでそれらが滲み出ててきてしまっている。そんな場所で、犬を飼おうかと思っているが部屋や家具に犬の肛門が接触するのが嫌だと思っている人を観測した。さらにその犬の肛門が床やクッションにつくことが嫌だということが共通認識であるという前提で、みなさん対策はどうなされてますかと質問している。なんというか、本当に晴れ晴れとした空色の毒沼感があった。結局は大好物。スクロールが止められない。

煮干し

棚の奥から前回日本に帰ったときに買った煮干しが出てきた。犬たち用に買ってきた煮干しはあっと言う間になくなってしまった。本当にうちの犬たちは潮の匂いのするものに目がない。その棚の奥底に眠っていた煮干しの賞味期限がちょうど今月だった。塩分に注意しながらだけど、犬にあげるかと思いながら試しに一尾、すこし大きめのを食べた。旨い。こんなに美味しい食べ物をほっておいたなんて。バギバギゴリゴリした食感と内蔵の苦味、そして塩見と旨み。こんなに健康的なビールのお供はないなと思って、煮干しを見つけてから晩酌のビールが一瓶から二瓶になった。

誰が為に…

Instagramでフォローしている女性のモデルさんが、ストーリーズで何やら質問を投稿していた。バーチャルな世界でも人に話しかけるなどができないので、もちろんそのような質問に答えるようなことはしない。だけど質問に答えてしまった時の向こうのありうる反応を想像して、背筋がゾワリとした。彼ら彼女たちのSNSにおける距離感がわかりかねる。もしその質問に34歳男性からの回答があった場合どう思うのだろうか。「全然しらないオジさんから返信がきた。(リアルで繋がるのある)友達に聞いたつもりだったんだけどな…😅」と思われたらどうしよう。😅。やめてください、そんな顔をするのは。
最近のInstagramには仲良し限定公開的な設定が出来るから、あまり気にしなくてもいいのかもしれない。だけど、SNSの向こう側には生身の人間がいる。物理世界でもそこに存在してるという理由だけで話かけていい訳ではない気がする。あれ?でもInstagramの場合、彼らは質問をパブリックに投げかけている。あれ?むしろスルーの方が、失礼を向こう側が認識するまでの強度はないにしても、ほんのり失礼感があるのか…?本当にわかんない。はやく終わってほしい。

需要と張り切りと冷笑

「需要があるだろうか。」インターネットでよく見かける。様々な数字を稼ぐということであれば、需要に沿ったものを需要がある分だけ提供できればいいと言うことになるのだろうけど、そんなことはなかなか難しい。難しいと言うか需要の有無を前提とせずに行動を起こし、たまたま需要があったというやり方をした人に、「需要があるから」で行動を起こした人は実存的な強度において勝ち目がないから疲弊してしまう気がする。続けられないと思う。でもわたしも含めてなんでそんな思考になったのかを考えると、これはきっと張り切りを薄ら笑いながらバカにすると言うことがオッケー、むしろ正義という社会に生きてきたからかもしれない。
例えば小学校の時などは学級委員長や学習発表会の役などに、進んで立候補する場合かなりのリスクを背負わねばならなかった。リスクも大マジのリスク、学校社会の中における抹殺の可能性。果ては自死まで追い詰められることもありうる。このリスクを避けることが出来るカードだったのが他薦、すなわち「需要」だった気がする。「需要」に対する応えとして行動をするのだから、学級委員長や発表会の役柄の私から公への転換が起こる。この類の社会構造に慣れきってしまったせいで、私たちは「好きかどうか」よりも「需要があるかどうか」をはじめに気にしてしまうようになってしまったのでは。需要を判断基準に生きると、多分、自分と他者の感覚が曖昧になって自分が好きかどうかの判断力も鈍ってしまう気がする。
さて、この構造の一番ダメなところは好きなことを張り切ってやることに対する冷笑。抹殺側の主体、もしくは加担。この前、私は政治家は政治家として立候補した時点で政治家として疑わしいみたいなことをTwitterで言った。これは良くない。人が現行の政治家みたいのものになりたくて政治家をやるため立候補するって言うのであれば、やばい人だと思っていいかもしれない。でもやりたいことがあって、それが他の人の利益にもなり、それを実行するためには政治家になるしかないと信じている立候補者には、その政策などに賛成できなくても立候補という行動に対してくさしてはいけない。反省。結局は、人間、もがきながら自分を取り戻して、取り戻した自分の赴くまま生きるしかない。もしくは失う前に死ぬ気で自分を守っていった方がいい。そしてその取り戻した自分、もしくは守ってきた自分のおもむくまま生きてる人を笑ってはいけない。

在外

海外で生活してよかったことといえば、自分がその土地における他者になったこと。実際はきつい。差別されたりする。仕事を見つけたタイミングと仕事をすることが許されるタイミングが合わなくて、その仕事ができなかったこともあった。日本で当たり前に守られていた、居て良い権利みたいなものがあやふやになる。正規の手順を踏んで入国したは良いものの、気を抜くとここに存在すること自体が簡単に法律上グレーになったりする。だけどこれによって、世界でもっときつい状況にいる人が自分の立場の延長上にいると感じれるようになったことはよかった。だから、「不法移民には引き返すか鉛かの選択を」なんて感覚には共感し得ないし、オリンピックもやな感じ。

虫食

煮干しを食べながら、未来の食生活の提案をしている人たちにスポットを当てるドキュメンタリーを見た。虫を食べていた。全然、虫、食べられるなと思った。

次回


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