見出し画像

不安になるのは罪なのか?

聖書では興味深い記述がある

何事も心配しないで、どんな時でも神に祈りなさい。そして、祈りに答えてくださる神に感謝しましょう。

【ピリピ人への手紙 4:6】

人間は誰しもが不安になったり心配するものである。それは人間としての当たり前の感情である。しかしこの感情は喜びなどと比べるとプラスの感情とは言えず、むしろ悲しみなどと同様にマイナスの感情だと言える。そして聖書的に偏った見方ではあるが、残念ながら一般的にキリスト教ではマイナスの感情というものは良くないもの、もっと言うなら「悪」であったり「罪」であるととらえられる傾向がある。

そして冒頭で紹介した聖句があげられる。
文面通り読むと、まるで「心配するなんて、なんとも不信仰な!そんなに心配するなら神に祈りなさい!この罪人めが!!!」ともとれる。

大切なので言わせていただきますが、聖句を一節のみ切り出して解釈するのはとても危ないです。なのでこの一節の前後も含めて読んでみましょう。

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 自己中心にならず、あなたがたが思いやりにあふれていることを、だれもが知る者になりなさい。主がもうすぐ来られると、いつも意識していなさい。 何事も心配しないで、どんな時でも神に祈りなさい。そして、祈りに答えてくださる神に感謝しましょう。 そうすれば、人間の理解をはるかに超えた、すばらしい神の平安を経験します。キリスト・イエスにあって、その平安はあなたがたの心と思いを静め、安らかにしてくれるのです。

【ピリピ人への手紙 4:4-7】

全文を読むとわかるかと思いますが、ここでは超絶ハショっていうなら神様に信頼し意識を向ければ安心が得られますってことといかなる状況でも喜んでいることを表現しなさいと言ってるんですよ。

一つ注意しなければならないのが、神様なら何とかしてくれるから大丈夫と思うことと楽観的になることは同じことではないですってこと。
「いつも主にあって喜びなさい」というのは不安なこと、悲しいこと、辛いことはあるしそれで悲観的にはなるけど、自分が楽観していようが悲観していようが神様は頼れる方だってこと。頼るかどうかはうちら次第ですが…

教会のことを批判したいわけではありませんし、日本の教会ではどうなのかわかりませんが、ブラジル人中心の教会では上記で触れたように不安や心配を信仰深い生活から遠ざける感情として疎まれている。
矛盾することだが、誰しもが持つ感情であるのに自分のことは棚に上げて他人を批判する人もいる。
不安や心配を自分で抱え込むのではなくてそれを正直に「神様、不安です!」「神様、心配です!」と言うことを聖書では進めてるのです。そもそも旧約聖書では律法を述べている部分が多いが、新約聖書ではそうではない。上記の聖句は新約聖書内いに書かれているもので、そうは著者は一つの助言をしているに過ぎない。不安を抱えたり、色々と心配したり、もっとひどくなってこういった感情を抑えるために薬物療法が必要になったとしても、それらが自分の心を支配して、神様が入り込む余地をなくしてしまうことになってはいけないだけです。

正直もう少し教会内で、すべてを罪か罪ではないか、という判断基準で物事を測るのではなくて、どうしてそうなったのか?聖書やイエスキリストは確かにすべての解決策を提示しているが、教会はその中でなにができるか?ということを考える必要があるのではないかと最近思う。

うつ病、LGBT、未成年の妊娠、虐待、貧困、などなど・・・
不安だけではなくてこういったことも罪と言って簡単に片づけるのではなく、しっかりと向き合うことが社会が求めている教会の役割なのではないか?
教会自身は今の世の中にはびこっている不安や恐怖を払拭することはもしかしたらできないかもしれないが、それをするための道筋を示すのが役割だと思う。

今回も特に何かオチがあるわけではないが、ただの備忘録です。
ではでは、また次回 (・ω・)ノシ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?