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「羊羹」はなぜ「煉(練)羊羹」が主流?

割引あり

現在では羊羹と云えば小豆あずきを主体とした餡を羊羹舟と呼ばれる型に流し込み、寒天(テングサなどの海藻を煮て凍結・乾燥させたもの)に水や砂糖を加えて煮立て、じっくりと時間をかけて水分を飛ばしながら餡を練り混ぜて煮詰めて固めたもの(煉(練)羊羹ねりようかんの場合)が主流ですよね?
しかし、実は羊羹の主流は長年、葛粉や小麦粉などの澱粉でんぷん質を蒸して寒天以外のつなぎで固めて作られた蒸して作られるタイプだったのです。

元来は蒸羊羹が主流だった!?

羊羹の歴史は、その名の由来となった料理を模して蒸したものから始まりますが、現在の様な煉(練)羊羹が世に登場したのは、17世紀後半の江戸時代前期に寒天が発明されてからです。

最初に煉(練)羊羹作られた場所については、京都説や肥前国(長崎・佐賀)説がありますが、ここでは江戸が発祥地とする説を採用します。
江戸時代以降、様々な工夫が加えられ、蒸羊羹より糖分が高く甘くて日持ちが良いなどの理由から、煉(練)羊羹の普及が促進されました。
また、高価な砂糖を多用するため、蒸羊羹よりも高級な菓子と見なされるようになりました。

現在、煉(練)羊羹は和菓子を代表する定番菓子の一つとなり、百貨店やスーパー、コンビニエンスストアでも手軽に購入できます。
また、全国各地には古くから続く煉羊羹の老舗・名店が数多くあり、お店によっては有名デパートの他にネット販売も行なっているため、自宅に居ながらにしてお取り寄せが可能です。

煉(練)羊羹の創世記

室町時代の中頃、1461年、寛正2年に京都伏見の近郊で饅頭屋『鶴屋』(後の『駿河屋』、1685年貞享2年に改名)を創業した、初代岡本善右衛門おかもとぜんえもんは、蒸羊羹の日持ちを良くするための改良を考えましたが、なかなか成功には結び付きませんでした。
この頃はまだ現在に近しい煉羊羹が開発される以前で、蒸羊羹タイプの製造方法では日持ちせず、ほとんど生菓子といった程度の賞味期限だったのです。

月日は流れて120年後の1589年天正17年、5代目善右衛門(4代目説あり)の時代に『伏見羊羹』(あくまで蒸羊羹の一種であったとの史料が多く、後年の様な煉羊羹ではなかった様です)として改良された、別名『紅羊羹』が豊臣秀吉に献上され、大茶会で諸侯に引き出物として配られ大絶賛を受けました。

その後、千利休からの助言などを受け、さらに改良が加えられて現在の煉羊羹に限りなく近づいていきました。
しかし、煉羊羹を初めて作ったとされる文献・資料には誤りがあるとされ、実態は煉羊羹に近い蒸羊羹だったと考えられます。
また、この件が史料に見えるのは10年ほど後の慶長4年(1599年)であるとの説もあります。

さてその蒸羊羹を改良して、材料選別・配合具合・炊き方など研究し、伏見で発見された寒天を使い、更に当時ようやく栽培され始めた和三盆糖に小豆餡を加えて炊き上げる製法を用いて、1658年万治元年頃に6代目善右衛門がほぼ現在の様な一般的な煉羊羹を完成させて発売するに至った、との説があります(諸説あり)。

現在の総本家駿河屋

5代目岡本善右衛門のこの最初の煉羊羹は、当時はまだ製法が発見されていない寒天の代わりに凝藻葉こるもはを用いて練り上げたと云われています(『日本名菓辞典』など)。
諸説ある様ですが、凝藻葉とは天草てんぐさの古名の一つであり、この凝藻葉の中でも固まり易いタイプ、現在の心太ところてんの原材料の一種とされているものを使用して羊羹造りに利用したと考えられているのです。
また異説ではこの羊羹は、凝藻葉(寒天との説もありますが、これは誤りと思われます)を煮溶かし、これに生臙脂しょうえんじで紅色に染めた白小豆の漉餡を加えてふねに流し固めた豪華な茶菓子であり、槽に流し込んで棹物に切る仕方もこの時点で発明されたと云います。槽は箱状で、一つの槽から長さ6寸、1寸角の大きさで12棹に切るのが定寸とされました。

煉(練)羊羹の普及

『総本家駿河屋』の現在の羊羹商品のラインナップには、5代目善右衛門が豊臣秀吉に献上したという『伏見羊羹』(現在の商品名は『太閤秀吉献上羊羹』)が含まれています。
さらに、6代目善右衛門の作った羊羹は、現在の同店『古代伏見羊羹』シリーズの原型に見えます。


古代伏見羊羹

寒天と煉(練)羊羹

煉(練)羊羹の製造に必需品とされる寒天の製法が発見されたのは、江戸時代初期の1685年、貞享2年に、山城国の伏見御駕籠町で旅館『美濃屋』を営んでいた美濃太郎左衛門が、海藻の煮凝り、すなわち『心太ところてん』を凍結脱水することを発見したとするのが定説の様です。
これよりも時代的に遡る両善右衛門の煉(練)羊羹製造に関する説は、蒸羊羹と煉羊羹の中間、つまり過渡期的な羊羹(例えば、既述の通り凝藻葉を使用したり、よく練って蒸した羊羹)であったとするのが、一番合理的な解釈なのです。
こうして、蒸す製法から炊き上げる製法への転換が図られましたが、現実に寒天を使用した煉羊羹が一般に広く普及し始めるのは江戸時代の中期以降からで、それまでは依然として蒸羊羹が羊羹の主流を占めていました。

寒天は、天草などの紅藻類に属する海藻の煮凝り、いわゆる心太を凍結脱水し、不純物を除き乾燥したものです。
この寒天の発明者とされる美濃太郎左衛門が、これを黄檗山萬福寺おおばくさんまんぷくじを開創した隠元いんげん禅師に試食してもらったところ、精進料理の食材として活用できると評価され、その名についても「寒天」と命名されたと伝わっています。

黄檗山萬福寺の隠元禅師像

名声と伝統

1626年、寛永3年に、金沢の金物屋で茶人の『金戸屋』(後に浅香の姓を賜る)忠左衛門が作った赤小豆の羊羹は、加賀前田藩主の前田利常に献上され、大いに称賛されたと云います。
これが東京の本郷にあった『藤村菓子舗』設立の起源とされ、前田利常から讃えられた絶品の味と格調高い藤紫色によって、忠左衛門は名字帯刀を許され、味に因んで浅香姓を賜り、加賀藩の御用菓子司となりました。
その後の1754年宝暦4年に、10代藩主・前田重教の命により江戸・本郷の加賀藩邸に隣接した場所に店を移転したと伝わりますが、この時、羊羹の色に因んで藤村に改姓し、店の屋号も『藤むら』と改名しました。
爾来じらい永きにわたり「本郷に藤村あり」と、江戸市中にその名声を謳われる菓子店となったとのことです。
但し、忠左衛門が利常に献上した羊羹も完成形の煉羊羹であったとは考え難く、これも“鶴屋”(後の“駿河屋”)善右衛門の羊羹などと同様の改良型の蒸羊羹だった可能性が大です。

羊羹合戦

浅香忠左衛門の物語は、加賀前田藩始祖である前田利家が家来に命じたことに端を発しており、1585年、天正17年に豊臣秀吉が聚楽第で諸大名を集めた時に『駿河屋』の『紅羊羹』を大変自慢したらしく、それが面白くなかった利家を含む一部の大名衆が、秀吉の鼻を明かそうとより美味しい羊羹作りを始めた事が起源だと云われています。
やがて忠左衛門は苦心の末に、3代目藩主の利常の代になってようやく満足のいく羊羹の製造に成功し、利常から
「濃紫の藤にたとえんか、菖蒲の紫にいわんか、この色のこの香、味あわくして格調高く、藤むらさきの色またみやびなり」
との絶賛を受けます。

この羊羹作り競争の顛末は、これを題材とした火坂雅志さんの歴史短編『羊羹合戦』に詳しく語られており、『駿河屋』や『藤むら』の羊羹作りの創世記を知ることが出来ます。

『藤むら』の羊羹は、夏目漱石の小説『我輩は猫である』や、
森鴎外の『雁』の中には羊羹ではありませんが、同店の田舎饅頭が描かれています。
しかし残念ながら、この指折りの伝統のある老舗は、常連客のみの予約販売を経て現在では閉店しているそうです。

記事は以上となります。
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