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私は何も知りませんよ。あなたが知っているんです。【後編】【物語シリーズ 考察】

こんにちは、タツミです。

新年明けまして、おめでとうございます🎍
もう1週間経ってしまいましたけれど。


今年2記事目です。
前回は、普段とは違うコラムチックな記事を書きました。


本記事はその続編記事となります。
まだ読んでいないよ!って方は、まずはこちらの記事からお読みください。



ちなみに、前後編に分かれているこの記事を書くきっかけになったもと記事はこちらです。


何でもは知らない。知ってることだけ。

私は何も知りませんよ。あなたが知っているんです。

前回の記事では、羽川翼、忍野扇が述べた上記のセリフの対称関係や、物語シリーズを貫く「自分を知る」「自分と向き合う」というテーマについて考察しました。


誰しも悩みは持っていて、自分や自分に起きるあらゆる出来事に向き合い、意味づけることからは逃げてはいけないという話でしたね。


その上で、最後にこんなことを述べました。


私たちはよく自分や他人のことを「知っている」気になります。あるいは、「間違えて知っている」ことを知識として思い込んでいる場合もあります。

と。
今日の話はここからスタートです!!


読む前の注意

この記事は物語シリーズ『続・終物語』までのネタバレを含んでいる可能性があります。ネタバレを避けたい方はブラウザバックを推奨いたします。


また、記事の内容上、物語上の固有名詞が登場しますが、物語シリーズを読んだことのない方でも、「こういう発言をした人がいるんだなあ〜」くらいに捉えておいてもらって大丈夫です。


ただ、原作小説を読んだ or アニメを見た後に読むと、より理解が深まると思います。


「知ってる」と物事の理解


改めて。

私たちはよく自分や他人のことを「知っている」気になります。あるいは、「間違えて知っている」ことを知識として思い込んでいる場合もあります。


物語シリーズでは、臥煙伊豆子臥煙遠江という2人の人物でその描写がされていました。


伊豆子は「完璧おねーさん」という通り名を持ち、先ほど出てきた神原の叔母にあたる人物で、あらゆる業界に通じている怪異専門家の元締めです。
彼女の有名なセリフはまさに羽川とは対照的。

私は何でも知っている。

対して、遠江は神原の母にして、伊豆子の姉。伊豆子の唯一恐れる人物として描かれています。
そんな遠江は『続・終物語』にてこんなセリフを述べます。

『知ってる』と『知らない』は、決して二元論じゃない――妹(伊豆子)は『知らない』を排除して『知ってる』を追求したし、きみ(暦)の友達である羽川さんは『知ってる』と『知らない』を己の両輪にしていたけれども、二人とも、大切なことを見落としている。つまり、知識の中には『間違えて知っている』ことも、多々あるってこと――知ってるつもりで、勘違いしていることもある。だから、物事には理解が重要だ。

少し長いですね。

簡単にいうと先ほど紹介した「知っている」「知らない」の議論をどーでもいいと言い張り、このように述べています。


もはや何を言っているのか分からない。結局何が言いたいのか?
哲学的になってきましたが、逃げずに考えてみたいと思います。

※ 二元論とは?

  • 2つのものの境界が、区別がはっきりとついて分類されており、どちらもそれぞれがそれぞれで独立していること。

  • 例えば、心身二元論という言葉は、心と体はココロとモノという本質的に異なる独立した二つの実体がある、とする考え方。

  • かき混ぜて曖昧にペーストみたいにするんじゃなくて、ざっくりはっきりと切り分ける。


「私は何でも知っている」


冒頭に投げかけた事実について、もう一度触れておきましょう。


大事なポイントなので、何回も何回も述べます。
それくらい大事なことです。


私たちはよく自分や他人のことを「知っている」気になります。 あるいは、「間違えて知っている」ことを知識として思い込んでいる場合もあります。


この点について詳しく語る前に、まずは伊豆子の発言に注目してみます。


伊豆子のような「私は何でも知っている」という強烈なまでの思い込み。
これは一種の自己暗示に近いものだ、と僕個人としては考えています。


というのも、僕も似たようなことを考えていたことがあったからです。


完璧主義だった中学生時代、小学校の時から英語を習っていたこともあり、僕の成績は結構いい方でした。自慢みたいになり恐縮なのですが、時には学年1位をとったこともありました。


他人にあからさまに自慢をすることはありませんでしたが、その時から「あらゆることを知っていた方がすごいのでは」と思うように。


世界が自分を中心に回っているような気がして、結構楽しかったのを今でも覚えています。当時の自分はあまりに広い世界に触れていませんでしたし、何より「自分」というものがわかっていなかった。自分の思考を疑うことは今より格段に少なかったんです。


だから、自己暗示をしていることにすら気づかず、学生生活のほとんどを「あらゆることを知っている人はすごいし、自分は平均よりは近い領域にいる。」と感じて過ごしていました。



やがて大学生になり「全知」が不可能だということを本格的に思い知らされるのですが、当時は割と本気で思っていました。



まさに井の中の蛙。
僕が怪異に取り憑かれるとしたら、蛙の怪異かもしれません。 作者・西尾さんに「たつみフロッグ」というショートストーリーを描かれてしまいます。


ただ、強く思い込んだ結果、高校でも大学でも、「悪い」と思うようなことは勉強ではほとんど起きませんでした。自己暗示は、環境ややり方によってはうまくいくこともあるんですね。


伊豆子も本当は「何でも知っている」なんてあり得ないことはわかっているんだと思います。それでもあえて言っている。


なぜか。

1つ目は伊豆子自身が専門家の元締めであるということ。


元締めにはそれなりの権威やポジションが必要です。他にも忍野メメや貝木泥舟など、クセの強い人物がたくさん。そんな人たちを束ねる存在なのですから、「何でも知っている」くらいのわかりやすいものがあった方が確かに権威性がつくかもしれないですね。


2つ目は暗示をかけることで、自然と情報のアンテナを高くするため。


怪異というのは突然現れ、突然消えていく異形の存在。伝承で語り継がれたものがあると言えど、基本的に初見での対峙となります。撃破するにはさまざまな知見と経験が必要。


あらゆる筋から勝機を見出す情報が必須になるわけです。ですが、情報はいくらあってもキリがない。集めるのも大変ですし、自分一人の力は限界があります。


それでも、伊豆子は一人でできる限りのことをやろうとした。「何でも知っている」を口癖にして、頭で考えなくても自然と情報を取り入れるくらいになろうとしたのではないかと思います。


世の中には、息を吸うように自然と情報を集めてしまう人もたくさんいるでしょうし。いわゆる情報収集の才能みたいなものを持っている人に、自力で勝つには正攻法だけでなく、自己暗示みたいなオカルトチックなものにも頼る。そういう気概での行動なのかもしれませんね。



閑話休題。


とはいえ、基本的には「何でも知っている」という思い込みのほとんどは、慢心から来ています。過去の僕がそうだったみたいに。


思い込みが生まれる原因


なぜこんな思い込みをしてしまうのでしょう?


原因の一つは「知っている」「できている」ことが「いいこと」だという解釈が世の中で常識になっているからです。


まるでそれが全てであるかのように。
「何でも知っている」ことがただ一つの正義であるかのように。


自分が「知らない」と思うこと、その事実を他人に気づかれてしまうことを恐れ、本質から目を背けているのです。


ですが、作中で遠江はその正義を断罪します。「知ってるつもりで、勘違いしていることもある。だから、物事には理解が重要だ。」と。


人間関係だと、顕著に現れます。


例えば、僕はエンジニアとして制作の仕事をしているのですが、制作者とクライアントとのやり取りの中で「物事の理解」の重要性を強く感じることがよくあります。


確実に納期や、制作物の仕様などの詳細情報を伝えたのに、クライアントがそれを無視して注意してきたり、理不尽に怒ってきたというシチュエーションは、クリエイティブに関わる人のほとんどの人が一度は経験したことがあるのではないでしょうか?


確かに、先方が完全に把握ミスをしている可能性もありますが、多くは認識の齟齬 = コミュニケーション不足によるものです。共通認識が2者間でできていないので、理解にもズレが生じるんです。


クライアントは必ずしも制作のプロとは限りません。なので本来、制作側はクライアントの理解や、依頼の裏側まで考えた上で発言する必要があります。


しかし、「自分は伝えたし、認識はあっているはずだ」と思いこむと、クライアントの立場に立って事情や認識を理解できず、「『クライアントはわかっている』と自分が勘違いしている可能性」を見逃してしまうことになる。


だから遠江は「『知ってる』と『知らない』は、決して二元論じゃない」と述べているのだと思います。「知ってること」「知らないこと」の2つだけではなく、「知ってる」ようで「知らないこと」もあるということ。


3つ揃って初めて「物事の理解」ができる。
ということではないでしょうか。


もう少し踏み込みます。


「知ってる」ことは自分でも何となくわかりますが、「知らないこと」を全て理解するのはなかなか難しいですよね。そもそも存在を認知していないものもありますし。


「知ってる」ようで「知らないこと」についても、自分は「知ってる」と思っているわけですから、単純にスッと理解できるかと言われると、そんなことはないと思います。



つまり、物事の理解には、自分や他人が「知ってる」ことではなく「知っていない」ことに注目することの方が重要なんです。


「知っていないこと」を理解することで「本当に知ってる」ことを理解・再解釈するべきだ。というふうに僕は解釈しています。


「無知の知」と「無知の無知」


ところで、古代の哲学者、ソクラテスの有名な言葉に「無知の知」というものがあります。 中高の社会の授業などで知っている人も多いのではないでしょうか。



一言で言うと「私は、自分がまだ知らないものがあると言うことを知っている」というもの。自分の思考や考察が間違っている可能性を常に頭に置いておくということです。


この考え方が先の遠江の発言にも絡んでくるのでは、と僕個人としては思えて仕方がありません。


ちなみに、伊豆子の考え方を同じように捉えるのなら、「無知の無知」と言い換えることができるでしょう。


「知らないものがあるということを知らない」。
正確には「知らないふりをしている」だけなのでしょうけれど。


ただ、無知を自覚してこそ、新しい世界を知り、吸収することができるし、驕り高ぶることなくまだ新しい自分にも気づきやすくなるのは確かです。


さらに、「自分がわかっていないことを自覚している人」は、安易に自分の正しさ = 知っていることを主張しすぎず、また相手の正しさ = 知っていることも尊重することができます。


時には、両方の正しさを組み合わせて、新しい正しさを作り出すことすらもできるかもしれません。


新しい正しさとは、当然「自分が知らなかった」もの。
無知を自覚することで「自分の正しさ」として昇華したものです。


「無知の知」の態度を持つことが物事の理解、「自分と向き合うこと」に繋がり、やがて「生き方を作る」ことに繋がります。



「全てを知っている」と無理に驕らなくてもいいし、「知ってることだけ」と謙虚すぎる必要もない。大丈夫。不安にならなくても、「あらゆる答えはあなたが知っている」んです。


正しく理解し、それでも理解が及ばないことがあることも理解し、その事実を淡々と知ることの方がよっぽど大切なのだ、と僕は思います。


まとめ


後日談というか、今回のオチ。


ここまで、「物語シリーズ」に登場する4人の発言をもとに、「知ってる」ことについて考えてきました。

いかがだったでしょうか?

僕は書いていて、またアニメなり小説なりで見返したいな〜
という衝動に駆られました。市営の図書館とかにも置いてあるので、
今度行ってみようかな・・・


閑話休題。


この記事を通して一番伝えたいと思ったことは、やはり
「私は何も知りませんよ。あなたが知っているんです。」
ということに尽きます。


最後は自分。最初も自分。
生きるのも、考えるのも、全部自分です。
自分の中に全てがあると考えると、何でもできそうな気がしてきませんか?


今回改めて記事を書いてみたのですが、掘り下げれば掘り下げるほどいろんなことが線でつながって、気づきが生まれて面白かったです!


西尾先生は実際どんなつもりであの台詞を紡ぎ出したのか・・・
答え合わせではないですが、一度真意を聞いてみたい気持ちに駆られています💦


今回の記事は「物語シリーズ」のセリフから考察してきましたが、これからも漫画やアニメ、映画などから題材を取り上げて、考察・分析する記事を書いてみたいと思います。


冒頭にも書いた通り、フィクションから現実に役立てられることはたくさんあります。ビジネス関係だろうと、ライフスタイルであろうと。


この記事も、一人でも多くの人に見てもらい、何か気づきが生まれることを心から願っています。


感想やご意見などいただけるととても嬉しいです^^


お待ちしています!
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新卒フリーランスエンジニアとして独立し、Web制作を行いながら様々な人や考えに出会い、新しい自分に出会っていった僕が、「ささいな日常から学んだ気づきや、ありのままの自分で仕事を作っていく考え方」について発信していきます。

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【簡単な自己紹介】

長野県長野市生まれ -> 立命館大学 -> 新卒フリーランス。
普通であれなかった、とあるHSS型HSPです。

ゲームと、唐揚げ、物語に触れることが趣味。
(趣味が近い方一緒に語りましょ〜!!)


皆さんのお気持ちを、こっそり置いていっていただければ。小さな幸せ、これからも皆さんに与えます。