僕たちは、可哀そうじゃない!~孫息子の「卒業式」と、ばあばの「気付き」
孫息子の卒業式が執り行われた。
どうなるのかな~と思っていた孫息子(中学)の「卒業式」は「各家庭1名の参加」という事で、無事に行われた。
「余計な事」は割愛し、例えば、来賓は参列しない、祝電は読まない等々…そのお陰で、本当に中学の3年間を共に過ごした人たちだけで、卒業を祝った感じが「良かった」と娘(孫息子の母)が言っていた。
簡素化したとはいっても「下級生」が「卒業生」を校庭で見送る「花道」は、寒い雨が降る中、みんな傘をさしながら、行われた。
当然「ばあばの私」は参列できなかったわけで、娘(孫息子の母)がLINEに送ってくれた「動画」や「写真」を見ただけだった。それでも「卒業式」が出来たことが嬉しかった。
毎日の生活と仕事で、心身ともに疲弊している娘が、仕事を一所懸命、調整し、母親として「絶対、卒業式には出席する」と、豪語していた。
娘は、一人で孫息子を産んで、今日まで育ててきた。その息子の「義務教育」が、終わったのだ。
ここまで無事に成長したことが「奇跡」の様にも思える。
まさか、感動すると思わなかった。
娘が、「答辞」を読んだ「卒業生代表の生徒」の動画を撮っておけば良かったと言った。
「なんで?」と尋ねると、「その内容が本当に素晴らしくて、こんなに感動すると思わなかった。」と言った。
「どんな内容だったの?」と聞くと、娘が要約して話してくれた。
「原文」とは、違うと思うけれど、こんな内容だった。
娘の話を聞いて、私まで感動してしまった。
「職業体験」とは、地域の協力を得て、実際にその場所に行って「仕事を経験」させてもらう事で、孫息子も、ずっと楽しみにしていた「行事」の一つだった。
中学生になって、私がびっくりする程、孫息子の食べる量が増えた。「学校給食」に、成長期の孫息子は、どれだけ支えられてきたか、でもそれは、他の子ども達も、同じだったんだ。
孫息子は、「可哀そうじゃない」と気付いた
代表を務めた生徒と、孫息子は「同じ小学校」だった。
「ひと学年1クラス」の学校だった。だから小学校の時から、良く知っている子だ。
こんなに「立派な言葉」を言えるように「成長」したんだ。
この言葉を聞いた他の卒業生たちも、きっと、この3年間を振り返り、その通りだと思ったに違いない。
孫息子は、中学生になって「20cm」背が伸びた。
身体だけでなく「心」も成長したんだ。
「母子家庭」で育った孫息子は、私からすると「可哀そう」でならなった。小学校の頃「学童」が終ると、誰もいない家に帰ってきていた。暗くなっても母親が、なかなか帰宅しないと「ママがまだ帰ってこない」と私の携帯に電話をしてくる事もあった。私は、何もしてあげられなかった。寂しくても、「寂し」という言葉を「言うこと」すらできなかった。
仕方がないと思っても「母親である娘」には「憤り」しか、私は持てなかった。
だけど、この3年間、いつも通りでは無い「中学時代」を過ごした中で、成長した孫息子を「可哀そう」と思うのは「違うんだ」と気が付いた。卒業式には、参列できなかったけれど、娘から聞いた「卒業生代表の生徒の言葉」に「ばあばの私」は大きな「気付き」があった。
これから大人に成っていく彼にとって「中学校の思い出」は、この先、きっと「自尊心」を支えてくれるだろうと「ばあばの私」は思った。
学校の「お友達」やお世話になった「先生方」には、心から感謝申し上げます。卒業おめでとう!
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