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私とマラソン

「つらい?でもこの旅がいつかあなたの大きな財産に 鏑木毅」。

プロトレイルランナー・鏑木毅さん直筆のメッセージパネルだ。
このように、いつもレジ奥の棚に貼りだしているーーーわけではない。
(noteに載せるために、わざわざ貼りだして写真を撮影したのでした。)
ーーーがしかし、私(自由港書店というお店を営んでいます旦悠輔といいます)は、このメッセージパネルを、背負っているリュックサックの中に常に忍ばせて、店と自宅の間を行き来しているのでした。「この旅がいつか大きな財産に」ーーーなると信じて。

「つらい?」。

ーーーつらかった。

このメッセージパネルは、私が、鏑木毅さんが大会プロデューサーを務めるトレイルランニング(登山マラソン)の大会、その名も「SPATRAIL(四万to草津)」に出場した際に、記念品として受け取ったものだ。

「SPATRAIL」というのは、SPA(温泉)を巡るトレイルランニングの大会だ。群馬県の四万温泉(しまおんせん)を出発し「天空の湖」という別名を有するほどに美しい野反湖(のぞりこ)を経て草津温泉に至る約72kmの登山道を「走る」大会なのだ。この約72kmのコースをフルで走り抜けるプログラムは「STSK(四万to草津)」と呼ばれている。そのSTSKに対して、距離をおよそ半分にした、比較的過酷ではない(あくまでも「比較的」ということだ)約38kmの「短距離」プログラムも用意されていて、そのプログラムに参加した場合、STSKコースのおよそ中間地点にある野反湖を出発地点として、草津温泉に至るまでの登山道を駆け抜けることになる。出発地点となる野反湖がある地区が、歴史的に「六合(くに)」地区と呼ばれていることから、このプログラムは「KTK(六合to草津)」と呼ばれている。なにはともあれ、STSKであれ、KTKであれ、ゴール地点は同じく草津温泉だ。過酷なレースが終わった後は、関東屈指の名湯でじっくりと疲れを癒やせる、というわけだ。

私はこのSPATRAILの、KTK38kmのほうのプログラムに、2017年・2018年と連続で出場したのでした。KTK38km、水平移動距離はフルマラソン(42.195km)に満たない38kmだけれども、累積標高は、上り2,327m、下り2,606mなのであって、おまけにトレイル率(コース全長に対して、舗装されていない道が占める割合)74%と、なかなかに過酷なプログラムなのでした。ーーー走り切れたのかって?結果は、2017年、2018年と連続で出場して、いずれも「DNF(DID NOT FINISH)」、つまり「途中終了」となってしまったのでした。それでも、ゴールまで残りわずか数km、というところまで、過酷な山道を走り切ったのだ。滑り落ちれば大怪我をしかねないような、未舗装の山道を駆け抜けたのだ。

2017年、KTK38K男子総合、エントリーナンバー3128番、5A田代原地点でタイムアウト(制限時間オーバー)、6時間38分54秒でDNF(ゴールならず途中終了)。
http://www.spatrail-shima-kusatsu.jp/userdata/2017KTK38K_M.pdf

2018年、KTK38K男子総合、エントリーナンバー3120番、4A活性化C地点でタイムアウト(制限時間オーバー)、5時間38分59秒でDNF(ゴールならず途中終了)。
http://www.spatrail-shima-kusatsu.jp/userdata/2018KTK38K_M.pdf

ところでこの文章、「こんなハードな大会に参加したことがあるんだ」という自慢をするために書いているのではないのでした。なぜわたしは、当時、マラソン、いや、トレイルランニングの虜になっていたのか、ということを振り返りたくて、書いているのでした。

この、2017年と2018年の大会の前後で、私の人生は大きく変化をしました。

2017年当時、私は東京都内のとあるIT企業でマネジメント(経営)の仕事をしていました。自分で言うのもなんですが、精一杯、全身全霊で仕事をしていました。日々、時々刻々と変化する経営環境の中で、ゼロコンマ一秒を争って、生き馬の目を抜く競争をしていたのでした。熾烈なプレッシャーがあり、おそらくや(思い返せば)、ストレスもまた甚大なものがあったのだろうと思います。

二日酔いを抑えるために酒を飲む「迎え酒」なるものがありますが、熾烈なプレッシャーを跳ね返すには、トレイルランニングでもやって、さらに強烈に自分を追い込んで、そのプレッシャーを跳ね返すしかなかろう、という、なかば強迫観念のようなものに背中を押されながら、私は関越自動車道を何度も何度も往復しながら、週末になると北関東・上信越の山を走る、という生活をするようになっていました。山はいい。山には、日常から完全に隔絶された世界がある。一瞬でも、すべてを切り離して、クリーンな頭と心で自分と向き合うことができる。そう思ったのだ。

そうはいっても、もともと特別な運動をしていたわけでもなかったし、いきなり山を走ろうと思い立ったわけでもなかった。毎晩お酒ばかり飲んでいたのだから、そもそもいきなり山を走れるようになるわけもない。はじめは、少しづつ家のまわりをジョギングするところから始めたのでした。それは2015年のことでした。きっかけは、村上春樹さんの著書『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んだことでした。私は10代の半ば頃に村上春樹さんの小説と出会ったことをきっかけとして、読書の深い沼に入っていったのでした。私にとっては、果てしなく広がる本の世界の入口が村上春樹さんだったのでした。そんな私でしたから、30代に突入し、どうも体が重くなってきて、さて、ランニングでも始めようか、と思い立った時、ランニングウェアを揃えるよりも先に一番最初にしたことといえば、村上春樹さんの著書『走ることについて語るときに僕の語ること』を読むことだったのでした。

ただ黙々と走る。その中で見えてくるものがある。『走ることについて語るときに僕の語ること』という本の中には、村上春樹さんらしい目線と文体で、走ることの素晴らしさが書かれていました。確かにそうだ。黙々と走っていると、ぐちゃぐちゃになった脳みそがずいぶんと整理される。余計なことは汗とともに消えていってくれる。きのうよりもきょう。先週よりも今週。走り続けることで、見えてくるものがある。ルーティーンを守り繰り返すことで、生活にリズムが生まれ、精神が整う。いつしか私は、ランニングを習慣化することができ、黙々と走り続けることになったのでした。

ーーー走り続けていなければ、不安だったのだと思います。
ずっと走っていました。
休日になり、時間ができれば、即座に着替えて、外に走りに行きました。
北関東まで行く時間がない時は、高尾や、多摩丘陵で、トレーニングを積みました。
走りまくりました。
これでもか、これでもか、というくらい、走りまくりました。

2017年に出場した最初の大会、SPATRAIL2017では、ゴール前、最後の関門でタイムアウトしてしまいました。38kmのコースの、ゴール8km手前。悔しくて泣きそうになりましたが泣きませんでした。マイクロバスでゴール地点まで運んでもらったものの、エネルギー不足から来る低体温で、歯はガチガチと震え、温泉どころではありませんでした。ブランケットでぐるぐるまきにされながら、ただガタガタと震えていました。

ーーーその年の暮れに、私は離婚をし、「女のいない男たち」のひとりとなりました。離婚して最初にしたことは、そう、村上春樹さんの短編集『女のいない男たち』を読むことでした。どの短編も味わい深いものでしたが、とりわけ「木野」という一篇から受けたインパクトは強烈なものでした。何事もない、平穏な日常が、なんでもないような些細な出来事を契機として、ぐんにゃりと変容していく。世界に不協和音が響く。どうやら別の世界に来てしまったようだ。なんとかして、元通りの世界、「こちら側」に戻ろうとする。もしくは、壁を突き抜けて、新しい、明るい太陽が輝く平和な世界に辿り着こうとする。村上春樹さんらしい物語の構造だ。マラソン用品、青山のバー、猫、蛇、謎の男、遠くにいる女性、地方のビジネスホテル、雨ーーーー、舞台設定・道具立ても、村上春樹さんらしい。けれども、「木野」という短編は、ちょっと独特なのだ。音楽でいうところのコード進行が、独特なのだ。音楽理論でいうと、響きには三種類の響きがあるのだそうだ。すなわち「トニック=安定した響き/サブドミナント=やや不安定な独特な響き/ドミナント=不安定な響き」。音楽は、トニック~サブドミナント~ドミナント~~~トニックというように展開して、最後、安定した、調和のとれた響き(トニック)に着地するのが通常の形式だ。そこに、カタルシスや、「心地よさ」が生まれる、というわけだ。ところが「木野」の場合、(結末として、物語がどんな響きを持って着地するのかについて言及することは避けますが)物語全体を通じて、「サブドミナント」感が際立っていて、つまり、「安定しているのか、不安定な状況が続いているのか、<わからない>」「これからどちらに展開するのか、<わからない>」感が際立っているのだ。そして、いくつかの転回(転調)が組み込まれているから、「トニック(安定した日常)」と感じていた世界線が、実際のところは「ドミナント(不穏、安定の裏に隠された不安定、不安定化が予定された安定)」であったのかもしれない、というようにも感じさせるのだ。さて、平穏な日常とは、なんだろうか。そもそも、平穏な日常なんて、存在するんだろうか。

かくして「女のいない男たち」のひとりとなり、「女のいない男たち」を読み終えた私は、会社を辞めることを決断したのでした。

2018年の夏、退職前の有給消化期間に突入していたころ、2度目の挑戦をしました。SPATRAIL2018への出場です。ところが、2017年大会に出場した時よりも手前の関門でタイムアウトすることとなってしまいました。独身となり、会社も辞めることに決め、自分の精神を前へ前へと引っ張ってきたロープが完全に切れてしまい、もう、踏ん張れなくなってしまったのでしょう。肉体的・技術的にはトレーニングを積み増していましたが、精神が追いつきませんでした。ああ、後退してしまった。もう、前進できなくなってしまった。ーーー泣きませんでした。なぜだろうか、私は笑っていました。2018年の大会においては、ゴール地点で待ってくれている人は誰もいませんでした。まさしく『女のいない男』でありました。

真っ白になってしまった私は、それでも走ることをやめられませんでした。神奈川、埼玉、山梨、長野、群馬、栃木・・・、およそ関東全域を走りまくり、もはや「走ったことがないエリア」がなくなってしまい、ついぞ私は、「走れる山」を求めて、関西へと旅立つことにしたのでした。

東名阪自動車道・御在所を越え、甲賀、そして滋賀の草津を抜けて京都に入り、大原を経て、比叡山にも行きました。その先、京北(けいほく)というエリアをまわり、さらにその先へ先へと山を巡っているうちに、とある里山に辿り着き、その地に暫く滞在して生活をした期間もありました。その後、紆余曲折を経て、京都市内(右京区)に古い町家を借りることができ、そちらに数か月仮住まいをした後(その期間は、京都市内をすみずみまで走って旅をしました)、2018年の年の瀬に、それはもう息も絶え絶えに、神戸に辿り着いたのでした。はじめて神戸に辿り着いた夜は、仕方なくビジネスホテルに宿泊したわけですが、疲れ切って部屋のラジオをつけたら流れだしたのは、偶然にも『村上RADIO(2018年12月16日放送回/村上式クリスマス・ソング)』だったのでした。村上さんの低い声が響く。窓から街を見渡すと、燦然と輝く「神戸ルミナリエ」。ずっとずっと山にとり憑かれたように走り続けてきた私は、港町の夜景を茫然と眺めていました。ーーー夜が明けて、朝になった頃、わたしは、神戸三宮のマンションの小さい一室を借りて移り住むことを決めていました。

やっとたどり着いた神戸は、風が気持ちいい、穏やかな港町でした。村上春樹さんは、神戸高校出身です。幼少期~青春期を西宮市・芦屋市で過ごされ、神戸三宮にも頻繁に通っておられたという村上春樹さんの作品には、阪神間の特定の土地が舞台となっていると思われる作品がたくさんあります。デビュー作『風の歌を聴け』から、最新の短編集『一人称単数』に至るまで。そして、作品の中では常に「風」が描かれているのでした。そんな、風の街・神戸で気持ちいい風に吹かれながら走るのは、とても気持ちの良いことでした。神戸に着いてからも走り続けました。でも、かつてのように無茶な走りはしなくなっていました。東灘、灘から、神戸市中心部、兵庫、長田、須磨、垂水、その先の明石、西明石まで。北は六甲山を越えて有馬方面まで。南はポートアイランドを抜けて神戸空港まで。ゆっくりと、走りまくりました。毎日、毎日。なんせ、会社を辞め、東京も離れ、知り合いも誰もおらず、何もすることがありませんでしたから、書店に行くか、走るくらいしか、することがなかったのでした。

そんな私でしたが、ある時突如として、走ることをやめたのでした。
2020年の5月に、いまや自由港書店となったJR須磨海浜公園駅南方面口徒歩3分の店舗用物件ーーーもともと物置として使われていた狭い事務所ーーーと出会い、契約をして、開業準備を始めることにしたまさにそのときに、走ることをやめたのでした。(と同時に、長年の飲酒習慣もやめたのでした。)

私はいま、別のマラソンを走っています。
お店を続ける、というマラソンです。
安定したピッチで、走り続ける。
転倒したり、躓いて足首や膝を傷めないように気をつけながら、慎重に駆ける。
もう、競争ではないのだ。
コースには、私ひとりしかいない。
そしてどうやら、コースも決まってはいないようだ。
走り続けられるところまで、走り続けたいと思う。
今度こそ、「DNF」ではなく、ゴール地点までたどり着きたいと思う。

ーーーでも、ゴールって、なんなんだろう。どこにゴールがあるんだろう。
そして、そこには誰かが待っていてくれているのだろうか。
そもそも、そういうことを期待するのが「間違いのもと」なのかもしれない。

わからない。
走り続ける。

少なくとも、立ち止まらないことだ。

時折、大学生くらいと思われる若いお客様が来店され、「普段あんまり本を読まないんですが(小説を自分で買って読んだことがないんですが)なにかおすすめはありますか?」と聞かれることがある。もちろん、お客様のお話をうかがっておすすめを決めるわけですが、『風の歌を聴け』をおすすめすることになることが多い。
「あの村上春樹さんの、デビュー作なんですよ。神戸の海側が舞台になっていて、風の匂いがするんですよ」と伝えながら。


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