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書籍紹介 隈研吾『負ける建築』

 隈研吾の『負ける建築』は、建築についてのこれからの考え方を提案するものです。その内容をまとめます。

1.はじめに
 筆者は建築が最初から脆いものであることを指摘します。石を積み上げる建築は、人間の視覚的欲望によって高く積み上げられてきましたが、これには問題があります。筆者は、「負ける建築」というタイトルを通して、視覚や私有欲に頼らない新しい建築の可能性を探ります。

高く積み上げる途とは別の途はないだろうか。そういうあたりまえの疑問に立ち返っただけの話である。象徴にも、視覚にも依存せず、私有という欲望にも依存しないで何が可能かをさぐっていきたい。「強い」建築をたちあげる動機となった、それらすべての欲望から、いかにしたら自由になれるか。そんな気持ちをこめて「負ける建築」というタイトルをつけた。

出所:本書(Pⅴ)

2.切断、批判、形式

➤建築の問題点
①大きさ:建築物は非常に大きく、その存在感が目障りになることがあります。
②物質の浪費:建築は大量の物質を使うため、地球の資源を浪費します。
③取り返しがつかない:一度建てられた建物は簡単に壊せないので、嫌な建築物が長期間存在し続けることになります。

➤切断から接合へ
筆者は、建築が周囲の環境と切り離されて孤立していることを批判し、建築とその周囲を一体化させる「接合」という新しいアプローチを提案します。

 切断としての建築ではなく、接合としての建築というものがありえないか。
 たとえば空間的な接合。建築とその周囲の空間とを、ひとつのつながりのものに接合してしまうのである二〇世紀の建築では切断自身に大きな意味があった。それゆえ、手をかえて何重にも切断が行われた。まず建築を建てるための敷地というフレームが設定され、周囲の土地から敷地という特別な場所が切断された。敷地という孤独な平面。その切断の上に、建築という孤独な塊が建設される。二重の切断の上に成立する、輝かしき孤独な物体。

出所:本書(P16)

 例えば、土を固めて建物を作るアドベ(泥レンガ)工法の再評価を提案し、建築が物質の循環の一部になる可能性を探ります。また、建築が少しずつ変化し続ける木造建築のような時間的な接合についても考えます。

 物質的にも建築と周囲とを接合できないだろうか。二〇世紀の建築は、周囲の環境を構成する物質とは異質の物質を用いて作り上げられることを前提としていた。たとえばコンクリートや鉄材のように、人工的に製作された、かつてどこにも存在しなかった物質。そのような「異物」で作られた建築は、当然のこと、孤独な物体として周囲から切断される。異物で作られた建築は、時がきて朽ちても、再び土地にはかええらない。
 逆にその周囲にころがっている、凡庸な物質を使って建物を作れないだろうか。たとえば地面の土をそのまま固めて、積み上げて建築は作れないだろうか。この工法は少しも新しい工法ではない。日干しレンガ(アドベ)と呼ばれる工法で、かつては地球上の広いエリアで日常的に行われていた。現在でも南米やアフリカではアドベで建設された家に多くの人が住んでいる。この工法をもはやノスタルジーとは呼べない。物質の浪費が建築であるという定式をくつがえす先端のテクノロジーである。建築は物質を浪費しないかもしれない。むしろ物質を再生し、蘇らせるかもしれない。建築は物質の循環の一部へと接合されうるかもしれない。
 時間的な接合はもっとも縦横な課題となるであろう。建築は時間を何回も切断すると考えられていた。まず既存の建築が壊され、何もない白紙の敷地が用意される。その上に突然建築はたちあがる。時が来て、再び建築は破壊され、時計の針はゼロ点にリセットされる。コンクリートという素材が、さらにこの二〇世紀的な時間概念を補強した。コンクリートにおいてはすべてが突然である。水のようにドロドロとしていたものが、ある日とりかえしのつかないほどに固くなり、もはや後戻りはできない。後戻りをしようと思えば、莫大なネルギーを用いて粉々に粉砕し、無理矢理にゼロにまで戻さなければならない。
 木造の時間はそういう不連続なものではなかった。骨組みを残しながら、少しずつ建築は変わっていく。少しずつ建て、少しずつ直し、少しずつ壊していくのである。突然という時間はない。時間の切断はない。始まりもなく、終わりもない。完成は永遠にやってこない。建築とは一瞬の出来事ではなく、時間の流れそのものであった。そのような長い時間の全体をデザインできないものだろうか。長い長い時刻表のような、もっといえば日記であり歴史でもあるような、時間の設計図を描くことができないだろうか。われわれが日常設計図と呼んでいるものは、そういう無限の奥行きを持つ設計図のひとつの切断面にしかすぎない。目の前の設計図とはそれほどに貧しく薄っぺらい存在である。
 建築はそのようにして、様々に接合しうるはずのものなのである。もし、そのようにして、繋ぐことができたならば、例の設問に対しても、もっと違った解答をだせるのではないだろうか。建築は必要か不必要か。建てるべきか、建てざるべきか。あるいは建築か革命か。
 粗雑な設問を超えること。そのために建築は切断であるという前提を疑うこと。切断されたオブジェクトではなく、関係性としての建築について考察すること。まずはそこから始める。

出所:本書(P16-18)

3.透明、デモクラシー、唯物論

➤近代建築の失敗
 近代建築は、異なる空間を統合することに失敗しました。筆者は、透明性が欠如し、セキュリティー管理が現代社会の空間を支配していることを問題視します。

 残念ながらわれわれが生きている空間はそれほどに透明ではない。戦争に取って代わったのは平和ではなくセキュリティー管理であった。透明性ではなくセキュリティーが空間を支配するのである。ネットによって一つにつながったかに見えるが、実際のところ世界はセキュリティー・システムによって囲われた無数のエンクロージャーに分割されている。エンクロージャーからこぼれ落ちたすきまはムーブマンのための自由な空間どころではない。エンクロージャーのすきま、そのほころびは暴力の場でしかない。暴力をかろうじて排除した、こぢんまりとしたエンクロージャーの中でのみ、われわれはかろうじてデ・スタイルのすきまとたわむれることができる。その場とて、いつ暴力にさらされるか、誰も安全を保障することはできない。ネット社会の平和とはこの種の平和である。ネット社会の透明とはこの種の透明である。透明はいまだ幻想の域を出ていない。

出所:本書(P99-100)

 また、メディアが民主主義を破壊し、ファシズムがその極端な例であると述べます。

 民主主義的手法とメディアとの間にギャップがあったわけではない。民主主義に必然的に付随する個人と世界とのギャップを架橋するべく、そこにメディアが参入するのである。受動と能動との間にギャップを架橋すべく、メディアが参入するのである。しかし、メディアの参入によって実際に引き起こされたことは、民主主義の破壊であった。ファシズムとはその極端な例である。そこではメディアがその内的なロジックによって選択したものが、民主主義的に選択されたと錯覚される。

出所:本書(P109-110)

 モダニズム建築は科学と工業を通じて建築を民主化しようとしましたが、コンクリートがその過程を遅らせたと批判します。

なぜコンクリートはかくも否定されるのか。コンクリートは構造的、施工的に優れた可塑性の高い連続体であったがゆえに、合理主義とを、工業と芸術とを安易に接合させたからである。そしてその接合がモダニズムを沈滞させ、モダニズムを芸術という罠にからめとり、建築の民主化を遅らせたのである。

出所:本書(P124)

➤日本の文化の空洞化
日本では、文化的な中心が空洞化し、中心に対する反発から豊かで独創的な文化が形成されてきました。筆者は、場所と存在の一致が例外的な現象であり、近代都市計画の誤りであると指摘します。資本主義のもとでは、都市のヒエラルキーが静的であるべきという前提が誤っていると述べます。

 身も蓋もない言い方をすれば、資本主義システムにおいて、場所と存在の一致はむしろ例外的事件とさえいえる。その例外でしかないものを、都市の基本的なあり方と錯覚したところに、近代の都市計画の誤謬があった。都市に静的なヒエラルキーがあるべきだと仮定し、それに従って土地の利用形態から、そこに建てられる建築物の形態までをヒエラルキカルに決定していこうとする近代都市計画は、この錯覚の上に成立したものである。資本の本質が「裏をかく」行為による利潤の追求にあるとするならば、都市に対してもまた、資本はたえず線形的なヒエラルキーを破壊し、その裏をかくことによって、利潤を追求しようとするはずなのである。もし、都市の中に場所と存在との線形性が確保されているように見えたとしたならば、それはナポレオンⅢ世的強権の発動によるか、さもなくば線形性を基本理念とする共産主義的な計画経済の産物に他ならない。
 銀座四丁目の本当の悲しさは、場所、存在、表象の非線形性にあるわけではない。この非線形なギャップを埋めようと、建築家が建築という狭いフレームワークの中に閉じ込められながら、必死に戦っているさまが悲しいのである。

出所:本書(P144-145)

Ⅲ ブランド、ヴァーチャリティー、エンクロージャー

➤ブランド建築の批判
 現代建築はブランド依存に陥り、公的主体から私的主体への転換が建築家の苦境を招きました。グローバリゼーションの初期段階ではブランドが支配的であり、ブランド建築が社会的信用を確立しましたが、これが建築家の創造性を奪ったと筆者は批判します。

 プロジェクトの巨大さが、またしても意味を持つ。巨大であることによってプロジェクト自身が公的性を帯びる。一方資金調達は自由化が進み、「私」化が進んだ。このギャップを埋めるためにブランドが必要とされるのである。数多くの「私」を納得させるための最も安易な方法は、すでに社会的信用を確立したデザイン、すなわちブランドを反復することである。不動産会社、銀行、生保……、プロジェクトが大きくなればなるほど、多くの企業グループがプロジェクトに参加する、参加する主体の数がふえればふえるほど、既知のブランドの反復でしかコンセンサスは得られない。当のブランドの方としても、大衆が期待する「お約束」をたがえるわけにはいかない。しかも、多くの仕事が世界じゅうから集中すれば、個人の発想力には限界があって、いかにクリエイティブなブランド建築家でもかつての自分のデザインの反復という方法に傾斜する。建築から創造性が消えていく。

出所:本書((P177-178)

➤エンクロージャーの問題
 筆者は、エンクロージャー(囲い込む空間)が外部に対して閉じ、内部で透明性を持つ空間を作り出すことを指摘します。資本がエンクロージャーを建設し、テーマパークがその代表例です。

 透明性という概念、シークエンスという概念、あるいは傾斜した床面によって、異質な機能を立体的に接続する手法も、このテーマと深くかかわり合っている。エンクロージャーは外に向かって閉じながら、その内部において透明であり、その内部を訪れた主体は、その空間の中でさまざまな都市的エレメントの衝突と接合によるダイナミズムを体験するのである。かつての都市空間以上に都市性に満ち溢れた空間が、その閉じてしかも透明な箱の中に出現するのである。
 この手法は公共建物に限定された手法ではない。資本こそがもっとも緊急、切実に都市的なアクティビティーの創出を必要としているのであり、それが現実の都市の中に求められないとするならば、彼らは自らエンクロージャーを建設するしかないのである。テーマパークとは、資本によって建設されたきわめて閉鎖性の高いエンクロージャーの別名に他ならない。
 すべてはエンクロージャーへと向かっている。すべてはテーマパークに向かっているとい換えてもいい。これは建築や都市に限定された話ではなく、社会の全体を覆う傾向でもある。綿密に計画され、構築された現実の社会の代表品。それが今日、社会のすべての領域で増殖しつつあるエンクロージャーの本質である。

出所:本書(P212-213)

 エンクロージャーの膨張が金融システムの破綻を招くとし、エンクロージャーとは対極の建築を提案します。都市に対して無防備に開かれた小さな建築を目指すべきだと述べています。

 今日ある種々の危機の根本の原因は、エンクロージャーの限界に起因する。今、破綻がささやかれている世界の金融のシステムもまた、エンクロージャーとして内に開き、外には閉ざしている。エンクロージャーの囲いを膨張させることによって、リスクの回避を図るというのが今日の社会の一般的なリスクマネージメントの手法であり、金融システムもこの手法を採用している。リスクそれ自体を商品として、そこにさらなる資本を投下させることによって、リスクの回避が図られる。その結果としてエンクロージャーは膨張し続ける。金融システムにおけるデリバティブとは、その形式のリスク回避の典型であり、それらのリスク回避手法の開発によって、金融におけるエンクロージャーは急激に膨張し、その膨張が経済の成長と誤解されたにすぎない。
 すべての領域において、リスクはリスク自体を外部へと拡散させることによって回避される。いや、正確には回避されたのではなく、回避されたかに見える。その本質は、回避ではなく、拡散による遅延である。回避が遅延にすり替えられるのである。そのすり替えはねずみ講と同型である。そしてケインズ経済学こそ、そのすり替えのシステムそのものであった。ケインズ自身がそのことをよく認識していた。あなたの系座学は恐怖の短期的処方にすぎず、長期的には何も問題を解決していないではないかという問いに対して、彼は長期的に見ればわれわれは皆死んでいるとシニカルに答えている。
 このすり替えのシステムが有効に機能するためには、社会全体の中で、このシステムの専有部分、すなわちエンクロージャーが想定的に小さくなければならない。しかし、エンクロージャーがある限界を超えて巨大化したとき、このシステムは破綻する。ねずみ講もケインズ経済学も、そこそこに成功している限りにおいて存続が可能であり、大きく成功したときには破綻するものである。今そのようにして、金融システムもエンクロージャー建築も破綻の危機にさらされている。危機の本質はそこにある。
 では、われわれはどのようにしたらこの危機を乗り越えることができるのか。マクロな経済学という形式自体が破綻した今、論理的に、その答えに到達するにはかなりの時間が必要であると思われる。さしあたり、われわれにできることはエンクロージャーとは対極の建築のあり方を、直感的に探ることである。都市の中に閉じた領域を作ることではなく、都市の中に小さな建築を無防備にさらし、都市に対して無惨なほどに建築を開く。閉じたエンクロージャーの中での透明性に安住しない。都市に対して開き、投げ出すことこそが透明性なのである。
 それもまだ建築は大きすぎ、まだ何かを囲い込んでいるかもしれない。建築はエンクロージャーを指向する遺伝子を内蔵しているからである。いっそのこと、たった一個の石ころをこの現実の路上に置いてみること。どう置いたら、何が起こるかをじっくりながめてみること。そのような行為を建築デザインと呼びたい衝動にかられている。

出所:本書(P213-215)

Ⅳ.本書のおわりとして
 筆者は、建築がシェルターとしての役割を果たし、視覚的欲望に従って高く積み上げられてきたことを総括します。しかし、現代の膨張する世界において、建築はその役割を果たせなくなり、経済や政治の方策も有効性を失っています。筆者は建築が閉じたエンクロージャーではなく、都市に対して開かれた透明性を持つべきだと結論付けます。

 世界が小さければ、人々は洞窟の中に住んでいてもよかったし、木の洞に住まうこともできた。人間の世界の拡大に伴ってシェルターとしての建築が必要とされ、また膨張する無数の人々の意識をひとつに束ねるため、モニュメントとしての建築、強い形態性を持つ建築も要請されはじめた。何もない原っぱに、石ころをどんどん積み上げていく必要が生じた。そして膨張する世界が要請する建築の究極の姿が、超高層ビルということになるのかもしれない。
 世界の膨張をマネージするために建築が生み出され、視覚が命じるままに建築は高く、高くのびていった。同様に膨張によって不安定化した経済をマネージするためにケインズ経済学が登場し、政治においては世界の大きさに対する最も公平で合理的な方策としてデモクラシーが登場した。しかし大きさを解決するために編み出されたそれらすべての方策が、予想を上回って膨張する現実世界の圧倒的大きさの前で、かつての有効性を喪失し、挙動不安定に陥っている。

出所:本書(P228)

Ⅴ.最後に
 以上、本書は、従来の「強い建築」から脱却し、「負ける建築」を提案することで、建築の新しいあり方を提示しています。筆者は、視覚的欲望に依存せず、環境と一体化する建築の可能性を探っています。また、建築が社会や環境に与える影響を再評価する重要な視点を提供しています。


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