宇野功芳と吉田秀和

宇野功芳は合唱指揮者で音楽の実践家だった。だから器楽について一見断定的な口調で縦横無尽に何かを書く時も、現場感覚というか、音楽家同士がわかりやすい言葉でやりとりしているかのような安心感があった。

対して吉田秀和は仏独語に通じた言葉の世界の人だった。個人的に家でピアノを弾いた話などは本に出てくるが、人前で演奏する商売ではなかった。
だから人の音楽について知識人として語る時にも、「私はその道の素人だけど」とでもいうような、言葉を慎重に選んで描写しようとする謙遜があった。

やっかいなのは前者のエピゴーネンである。言葉の無い楽器の音楽に対しては、わかっていようがいまいが思い込んだら言葉で何とでも勝手に言い切れると思い込んでしまう。
文学に対してはそのような不遜な態度を取れないだろう、元の作品が言葉の芸なのだから。
そして、歌詞のある音楽についてもしかりだ。

いわゆるクラシック音楽のオタクと自称する人が歌曲を好まない理由もそこにあるのではないかという気がする。

宇野氏や吉田氏のように楽譜や原語を読まなければ音楽を語れないとは思わない。が、器楽曲を反知性主義というか単なる印象批評の草刈り場にしてしまうのは、誤謬の元ではないだろうか?