40にして惑わず、50にして天命を知る、なるほどね。と思った話し

仕事中にふと「40にして惑わずの次って何だっけ?」と思い気になって調べたところ、50にして天命を知るらしい。40歳の不惑に対して、50は知命とか知名とか言うそうだ。知命のほうが合う気がするけど、リファレンスデータベースには知名と書いてたのでこっちのほうもあるんだろう、きっと。

さて30代半ば頃、酒を飲みながら周りの友人達と「40歳になって不惑なんて自信がないよ」なんて言っていた気がするが、その後はどうだろうか。

惑う、惑わずという言葉の意味を目の前に置けば、そりゃもう「私、迷うことばかりです!」と高らかに言えてしまうのだが、そんなもん仙人でも神様でも無いんだから当たり前だ。

惑う、惑わずというのはもっと人生や自分に関わってくれる人々を俯瞰的に見た上での言葉に違いないと思う。

ある意味では、僕は惑うことがなく、まさしく不惑になったような気がする。

47歳(私の設定年齢です)にもなると、周りの人々はこんなことを言い出す。

あと働けるのも10年だ
金持ちになるのは諦めた

こんな言葉を吐きながら「お前もそうだろ?」と来るんだから困ったものだ。本当にバカバカしい。
お前の価値観に俺を巻き込むなと言いたいが、巻き込みあいコミュニケーションが好きな奴らの隣に座る僕も悪いか。
だいたい年齢を根拠にネガティブなこと、悟ったようなことをいうやつは、自分にとって都合の良い先人達の生き様を見て、あたかも自分の明日を来年を知っているかのように振る舞っているだけだ。

なんて言いたいが面倒に関わりたくないので言葉を飲み込み、そういう人たちとは物理的に接する機会も減った。まあコロナのおかげで人と会うことが少なくなったこともあるが、友達が減っても人生はあまり変わらないことを知られたのは収穫である。

そんな彼らは自分の限界を(限界のあるなしにかかわらず)知り(知った気になって自分に言い聞かせ)、ひょっとしたら残り40年50年もありそうな人生を規定してしまった。

彼らはある意味「不惑」ではなかろうか。

限界を作り、箱庭の中でこれからの人生を生きていくと決めたのであれば、何も迷うことはないだろう。ある程度の道筋を自分で決めたことは、彼らこそ「40にして惑わず」と言えなくもなさそうだ。

だが私は真逆の意味で不惑だな、と思う。

僕は今、自分の天命のために準備をしている。50歳にもなればわかるようだが、僕にはおぼろげに見えていることがある。
やるしかないし、やりたいんだから、やる。迷う時間も余裕もない。
まだ見ぬ天命、いやおぼろげに見えつつある僕の天命、それ以外のことはほぼ考えない。

自分が人生で成し遂げたいこと、自分の人生に自分なりの意味を持たせること、それを天命だとすれば、成し遂げるために必要なことに奔走すればよいのだ。他はおまけ程度のこと。

こんな気持ちになっているのも、不惑の境地、あるいは一側面に触れた程度のことは無かろうか。

さて、同級生や同世代の連中とつるむことが無くなったら、迷うことが減ったような気がする。

もちろん彼らと会えば元気をもらえることもあるが、気持ちを削がれることもそれなりに多い。

以前は「気持ちを削がれる自分が良くない」と自分を責めることもあったが、もうやめた。

人間ってのは、自分も含めて、その人にとって都合の良いところしか見えないし聞こえない。ましてや考えるわけもないものだ。

きっと説教相手としての私が彼らには都合が良い(時がある)のだろう。あくまでも「そういう時がある」だが、無意識に説教できる相手、今風に言えばマウントを取れるような相手、自分の笑いのだしになるような誰か、を求めているような人間とは関わりたくないものよ。

そしてこんなことに気づいて、ひとり、誰にもわからないところで、一心不乱に仕事をしながら思った。

孤独も悪くないかな。

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