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ジュンパ・ラヒリさんの言葉から、言語を学ぶ意味がわかった気がする

以前、ほんの少し紹介したことがあるこの本。表現が美しくて大好きだと書いた。

また本の話か…って思う人がいたらすみません。ただ何度読んでも素敵な本で、今日は言語を学ぶ素晴らしさがほんの少しわかった気がするので書いた。

以前紹介した記事↓

ジュンパ・ラヒリさんは、ロンドンで生まれ、両親はカルカッタ出身のベンガル人で、幼少時にアメリカに渡る。書いた作品は名だたる賞を獲得し、「停電の夜に」ではニューヨーカー新人賞、ピュリツァー賞など独占した。結婚し、40歳をすぎてから、夫と息子たちと一緒にローマに移住する。この本はその時イタリア語で書かれたエッセイだ。イタリア語に魅了され、20年間も学び続けた。

両親から教わったのはベンガル語だが、アメリカで学校に通いはじめてから、学校では英語を話すよう義務付けられた。家ではベンガル語を話すように言われたが、彼らが外国語訛りの英語で話すことで、「ほとんど毎日のように直面していた壁を見ていた。」「ときにはわたしが代わりに話すこともあった。」という。

その状況で育っていった筆者は、「わたしは二つの言語のどちらとも一体になれなかった」と語っている。「両親に対する店員の態度がとてもいやだった。二人を擁護したかった。」という筆者の心の叫びは、つらいものがある。

生まれた時から日本で、日本人として育ってきた私には想像が難しい状況だ。もし私が、家では日本語だけど、小学校では英語を話さなければいけなかったとしたら、今頃どうなっていたんだろう?

筆者のアイデンティティーとそれによって生じる創造性について説明している部分を抜き出してみた。かなり長くなってしまった。

わたしの言語遍歴に三つ目のイタリア語が加わったことで、三角形が形成される。直線ではなく一つの形が作られる。三角形は複雑な構造で、動的な形をしている。…この三角形は額縁のようなものだと思う。そしてこの額縁にはわたしの自画像が収められているのだと思う。…わたしはいままでずっと、額縁の中に何か具体的なものを見たいと思っていた。…細切れでなく、全身が映っている人の姿が見たかった。だが、そんな人はいなかった。二重のアイデンティティーのせいで、見えるのは揺れたり、歪んだり、隠れたりしている姿だけだった。曖昧で不明瞭な姿しか見えなかった。…
わたしはこの空白、この不確かさに源を持つ。空白こそわたしの原点であり、運命でもあると思う。この空白から、このありとあらゆる不確かさから、創造への衝動が生まれる。額縁の中を埋めたいという衝動が。
私は生まれてからずっと、自分の原点の空白から離れようとしてきた。その空白に愕然とし、そこから逃れてきた。自分に決して満足できなかったのはそのためだ。自分自身を変えることがただ一つの解決法のように思えた。ものを書いているうちに、登場人物の中に隠れ、自分自身から逃れる方法を見つけた。次から次へと自分を変化させるというやり方だ。

アイデンティティーという言葉を一番最初に聞いたのは、大学生の頃だった。地球市民学科という学科だったため、国際問題を取り上げる中でこの話題が出た気がする。当時フィリピンと日本のハーフの友達が、一緒に授業を受けていて、その子が深くうなずいていたことを覚えている。「自分自身と対話するとき、その言語で悩む人がいる」という事実は、私の中で衝撃だった。

自分自身を確立させるために、何かを表現する。親と社会性、どちらを選択するべきかと悩み、結果どちらでもないイタリア語に辿り着いた筆者の気持ち。

話が飛ぶけど、ウズベキスタンの学校でも同じようなことが起きていたかもしれないと思う。ウズベキスタンの母語はウズベク語だが、「ウズベク語で話すとダサいと思われる」と、中学、高校の生徒が言っているのをよく聞いた。旧ソ連の配下にあったウズベキスタンは、ロシア語で話す人も多く、ウズベク語で話す人々よりも所得が高い傾向にあった。ロシア語を話せればロシアの大学に留学したり、出稼ぎに行ったりできる。ロシア語クラスに進学させることが、親の希望としても多いようだった。

親の世代もロシア語という家庭もいたし、ウズベク語を好んで話す家庭もあった。他にも英語、韓国語、フランス語などさまざまな言語を中学生、小学生の頃から学ぶのは全く珍しいことではなかった。

ただウズベク語が好きだから話している、という人は大人でもあまりいない印象だった。「もっと英語やロシア語を話したいけれど、若い頃に金銭的な面で勉強できなかった」という人が多かったと思う。

アイデンティティーの話から逸れてしまったけど、言語の問題は複雑で、現実と理想のバランス、あとは自分がどうするかの選択に関わっている。その何気ない選択によって、自分自身のアイデンティティー、自分を形作るものまで変わっていく。

この本を読んで、運命的に出会ったひとつの言語を学び、表現することで自分自身が見えてくることがある、と知った。実際、現実的に考えると、TOEICが必要だから英語を学ばなきゃいけない、マイナー言語は使える状況がないといった声が聞こえる。その現実を受け止めつつも、私も運命的な出会いをしてみたい。言語そのものが持つ力を感じてみたい。

日本人として不自由なく育ち、ほとんど日本語でしか話せない私は、筆者が伝えたいことを心から理解できる日は来るのだろうか。遅すぎるようだけど、これから挑戦していくしかない。


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