読書感想文 「笑うマトリョーシカ」 著:早見和真

何が「ホンモノ」で、何が「ニセモノ」か。
物語を通して、この命題へ迫っていく。

それが、
「ホンモノ」「ニセモノ」という言葉自体に向けられたものなのか、
ホンモノの、またはニセモノの、「何か」に向けられたものなのか、
それを考えながら読み進める時間は、私に得難い悦びを与えてくれた。
久しく忘れていた、手に汗を握る、という感覚。
早く読み進めたいのに終わってほしくない、というあの感じ。

私は今まで「政治小説」を読んだ記憶はないのだが、この本も、あくまで舞台装置の一つとして政治の世界があるという捉え方の方が向き合いやすいかもしれない。
登場する各人物の、思惑・感情・欲望。そういった、ヒトが人間になる部分。それらを、これでもかと見せつけられる。

良さが少しでも伝われば嬉しい。
読み進めるうちに何度にやけたか分からない。
自分自身も日々抑え込みながら生きていたのであろう激情を、進行と共に加速度的に刺激された。
是非、ご一読を!



ここからは自分の話。

毎年、野球のシーズンオフの間に数冊の本を読もうと思っている。今年は、シーズン中にも読書を試みたのだが、うまく入っていけない感覚があった。
よほど溜め込んでいるものがあったのだろう。何しろ、今年に入った段階で既に一年ライブに行けていない。
人生が何か、なんてまだ私には分からない。しかし、粛々と生存を重ねること。そして、それを社会から強いられているように感じること。そういった想いを拭えないどころか、日増しに強まっていくのを感じていた。それは、今なお続いている。
感情を内向きに消化させるために、社会などに関する新書をいくつか読んだ。もちろんそれらは為になる本であったのだが、私の感情に対して及ぼした作用は、まさしく激しい反発を内向きに凝縮するものであった様で、自分でも狂いそうだなと感じていた。
そんな中、共に過ごす人から、助言を受けた。
身の回りの自然を感じ、小説を読め、と。

いざ小説を読もうとすると、何を読みたいのか分からなかった。
重めのテーマを避けようとすらしていた。そんな時に、三浦瑠麗さんが書評を書いたというこの小説に出会った。

なぜか、それでもまだ足が重かったが、この記事を読んで勢いのまま購入した。

買って良かったと心から思う。
この感動は、とても外向きな感情の動きをもたらしてくれた。誰かに話したくてたまらない。

登場人物それぞれのあらまし、背景、さらには文藝春秋という版元。
自分にとって浅からぬ因縁めいたものがそこかしこに散りばめられていたことも、のめり込めた要因の一つかもしれない。
さらには、シャッフルしていた音楽プレイヤーからも狙い澄ましたような選曲がキメられ、全てがこの読者の時間をギラギラに演出してくれた。
無敵感があった。

私は、「感情論」という言葉を用いた批判が好きではない。
大小さまざまな社会に関する事柄は、もっと言えば、学習科目としての社会科に内包される領域には、少なからず感情が介在するものだろう。だから、感情のうえに論があって当然だと考えている。
自分の意に沿わない意見などを感情論だと斬り捨てる行いは、社会を考える姿勢として不可能だとすら思う。

著者の方がこれを意図して書かれたのかは分からないが、私は「笑うマトリョーシカ」を読んで、この考えを思想としてもっと深めていこうと思えた。
それぞれの人の深いところには、強い感情がある。


これを書くにあたって思い返すことすらも、本当に楽しい時間だった。
また読もう。
興味を持った人は、是非買って読んでくれ!

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