泣きのベンさん、選挙に挑む

高瀬 甚太

 その人は泣き上戸だった。酒を呑んで、酔いが回ると必ず泣いた。
 立ち飲み屋「えびす亭」には三日に一度、午後7時を過ぎた頃やって来て、午後9時、ひとしきり泣いて帰る。付いたあだ名が「泣きのベンさん」だった。
 
 秋も深まった寒い日のことだ。えびす亭の中でひとしきり盛り上がった噂があった。話題の中心はベンさんだった。
 「いやあ、驚いたのなんの――」
 麦焼酎をグラスに溜めた八百屋の将ちゃんが大きな声で話し始めた。
 「車が店の前に停まって突然、演説を始めたんや。商店街の入り口やからよくあることで、別に気にしてへんかった。その演説をやっていた男が、ひとしきり演説をした後、車から降りてきた。これもよくあることやから大して気にせんかった。ところが、うちの店へやって来たその男の顔をみて、俺、驚いた。なんと泣きのベンさんやったから――」
 将ちゃんが驚くのも無理はなかった。ベンさんは演説とはおよそ縁遠いような、人のよさそうな顔をした、朴訥で、とても気のいい人物だったからだ。
 「どうしたんや、ベンさん? 思わず俺は尋ねたよ。何で演説なんかしてるねんて。するとベンさんが言うんや。父が倒れて今度の市議会議員の補欠選挙に立候補することになりました石田弁吉ですって、真面目な顔で言うんや。俺、思わず笑ってしまったよ」
 将ちゃんがベンさんの本名を知ったのはその時が初めてだったという。
「立候補って、ベンさんは政治家だったの? と聞いたら、実は――って話し始めた。ベンさんの父親は議長まで務めたことのある有名な政治家で、ベンさんはその政治家の息子だった。ついこの間までベンさんは小学校の教員をしていたんだけど、父親が高齢で倒れて、ベンさんが父親の地盤を継いで立候補することになったらしい。でも、ベンさんはあまり乗り気じゃないようにみえた。父親の支持者に押されたのと、病気の父親に頼まれて仕方なく立候補することになったんだって、ベンさんが言っていた」
 将ちゃんは話し終わると麦焼酎を一気に飲み干した。
 「ベンさんが政治家か……。あまりピンとけえへんなあ」
 時計店の光本が眼鏡を指でずり上げながら言った。酒を呑んで泣きじゃくるベンさんと演説をするベンさんが一致しないようだ。
 「まあ、でも親父の地盤を継ぐんやったら通るんやないか」
 八十歳を超えて、まだかくしゃくとした元気さを誇る谷さんが赤ワインを片手にのんびりした声で言った時、谷さんの隣にいた米沢さんが立腹した様子で誰に言うともなく言った。
 「仕方なく立候補やなんてとんでもない話や。政治家になろうと思うても果たせん人が多いのに贅沢や」
 米沢さんはそれだけ言い残すと、残っていたビールを喉に流し込み、店から出て行った。
 米沢さんの後姿を眺めながら谷さんが言った。
 「米沢さんは一度市会議員に立候補しようとしたことがあるんや。そやけど果たせへんかった。金も地盤もなかったからなあ。それにたとえ立候補でけたとしても通らへんかったやろと、誰もが噂しとったけどな」
 ベンさんが立候補することは、その日のうちにえびす亭のみんなに知れ渡った。
 ベンさんの父親が倒れて議員を辞職したことによる補欠選挙ということで、ベンさんにとっては責任重大な選挙となった。
 選挙運動が始まってしばらくして、ベンさんがえびす亭にやって来た。選挙中だというのに相変わらずのんびりした顔をして、いつものように生ビールをぐいぐい呑んでいる。
 「ベンさん、選挙中に酒なんか呑みに来てええんかいな」
 隣で呑んでいた米沢さんが心配して声をかけた。
 「大丈夫です。今日はあまり呑みませんから」
 ベンさんは笑って言ったけれど、二杯目を呑み始めた頃からすでにベンさんの目に涙があふれ始めていた。いつもと様子が違うベンさんを見て、谷さんが声をかけた。
 「大丈夫か? ベンさん。何かあったんと違うんか?」
 米沢さんや谷さんだけでなく、店にいた客のほとんどがベンさんを気遣って、心配げな視線を送っていた。
 「ぼく、大丈夫ですから」
 ベンさんはポロポロと大粒の涙を大きな目から垂れ流し、思いがけない言葉を口にした。
 「ぼく、今度の選挙、辞退しようかなと思うてるんです」
 その言葉を聞いて、怒ったのが米沢さんだった。
 「立候補を辞退て、今さら何言うてんねん。あんた、親父の看板を引き継いで、親父の意志を継いで政治家になるんと違うんか」
 谷さんも珍しく声を荒げた。
 「地盤、看板すべて揃っているのに、そんな気の弱いことでどないするんや」
 と叱るように言った。
 みんな、ベンさんのことを心配しているのだ。それがよくわかるだけにベンさんはよけいに辛かった。
 ビールジョッキの中にベンさんの涙が幾粒も沈み込んだ。
 「ぼくは知らなかったんですが、立候補者の中に昔、親父の秘書を務めていた人がいて、その人が親父の後援会や親父の地盤に攻勢をかけていることがわかりました。親父は、あいつに絶対負けたらあかんぞ、と厳しく言うんですが、元秘書は海千山千の人で、すでにかなりの票を集めていて、親父の持っていた票もずいぶん食われているようです。親父は詳しくは言いませんが、その秘書とは昔、ひと悶着あったようで、あいつにだけは負けるな、と厳しく言いますが、ぼく自身は、立候補しても当選できないようなら、やめた方がいいかなって、最近、少し弱気になっているんです」
 ベンさんが話し終わるのを待って、米沢さんが口を出した。
 「ベンさんがそんな気持ちで政治家になるんだったら、俺はスッパリと辞めた方がいいと思う。ベンさんの話を聞いていたら、親父の票が取れそうだから立候補する、取れなかったら辞めるなんて、それは選挙民に対してあまりにも失礼やないか。俺はベンさんのことを泣きのベンさんと言って笑っているけれど、今まで決してベンさんが本当の弱虫だとは思っていなかった。でも、今のベンさんの話を聞くと、それが間違っていたような気がする。ベンさんはものすごい弱虫で、単なる泣き虫やったんや。そう思うようになった」
 米沢さんは、吐き捨てるように言うと、さっさと店を出て行った。
 谷さんもベンさんに一言、言いたいと言って、呑みかけの焼酎を口に飲み干し、ベンさんに向かって話し始めた。
 「票集めに一喜一憂している政治家は、本当の政治家やあらへん。政治屋や。そんな男が政治家になったところで、私服を肥やし、市政を乱すのが落ちや。あんたのお父さんは、議長まで務めた清廉潔白な人と聞いている。市政にも命がけで挑んだ人として、多くの市民があんたのお父さんを尊敬していた。お父さんの元秘書は、お父さんの名前を利用して私腹を肥やそうとした、政治家の風上にも置けん男や。それは市民の多くが知っている。お父さんがあんたに自分の跡を継がそうと思ったのは、単なる父親のエゴやないと思う。あんたの政治家としての資質をお父さんは掴んでいたからこそあんたに後を託そうと思ったはずや」
 米沢さんと谷さんの話を聞いて、ベンさんの目からしたたり落ちていた涙が、ピタッと止まった。えびす亭は相変わらず客で一杯だった。マスターは忙しく立ち働きながら、ベンさんを気にしていた。マスターだけでなく、他の見知った客の多くもそうだった。
 そんな客たちに囲まれたベンさんは、その時、ふと父のことを思い出した。
 父が倒れたのはこの夏のことだった。七十代後半とはいえ、健康を誇示し、元気な様子を示していた父が、突然、倒れた。医師はかなり以前から病院通いをしていたことをベンさんに明かした。肝臓、腎臓とも内臓がかなり弱っており、切迫した状況ではなかったが、放っておくと危険だと医師はベンさんに語り、父に対して市会議員を辞職するよう勧告していると話した。父はすでに自身の体調の悪化を悟っていた様子で、教師をしていたベンさんを呼んで、市会議員になる気はないかと尋ねた。
 四十歳になったばかりのベンさんは、その時、父親の話を聞いてベンさんらしくない野心を抱いてしまった。ベンさんは市会議員になって父のように市政に携わる姿を夢想した。議長まで務めた父は市会議員の中でも傑出した存在だった。誰からも好かれ愛され、尊敬されていた。教師の自分はどうか。教頭になれる日はまだまだ遠く、それを思って教師の仕事を選んだわけではなかったにしろ、教育という仕事に怠慢になりつつあることは確かだった。父もベンさんにそれを感じていたのかも知れない。
 ベンさんの父は清廉潔白の人で、市政に生涯を支えてきた人だった。息子にもそれを期待していたのかも知れないが、ベンさんは、自分は父親のようにはなれそうにもないと思っていた。野心もあれば、エゴも強い。政治家になれば私腹を肥やし、大衆よりも一部自分を応援してくれる資産家たちを大切にするようになるかも知れない。そんな危惧も少なからずあった。
父はベンさんに、「大衆の民意を救う政治家になれ」、と伝えた。それに徹すれば必ずいい政治家になれると。
 父の言う「衆の民意を救う」ということがどんなことなのか、ベンさんには見当もつかなかったが、それでもベンさんは父に、跡を継いで政治家になると約束した。
 父は喜んだ。喜んでベンさんの肩を抱いた。その時、父親の思っても見ないほど弱々しい力に驚いてベンさんは父を改めて見つめ直した。すっかり年老いた一人の老人がそこにいた。
 
 結局、ベンさんは立候補を断念しなかった。父親の票を元秘書だった男に食われて圧倒的に形勢は不利だったが、そのことに苦慮することはなかった。
 演説をする自分の前に集まった少数の人の目が訴えかけているもの、それをベンさんはこの頃からしっかりと受け止められることができるようになっていた。
 ――米沢さんや谷さんの怒り、えびす亭のマスターの心配げな視線、えびす亭の面々のいたわりの視線――。それがなければ自分は永遠に、自分の弱さに気付かないまま、簡単に選挙をあきらめてしまうか、怠け者の教師に逆戻りしていたことだろう。
 ベンさんはそう思った。
 選挙期間中、ベンさんは大衆の視線の前に立って、その視線が求めるもの、欲しているものをしっかりと受け止める努力をした。演説で当選を訴えることよりも、自分の思いを伝える努力を重ねた。それは演壇に立ってできることではなかった。大衆と同等の立場で、目線を同じくしないとみることのできないものだった。だからベンさんは演壇には乗らず、自分の演説を聞きに集まった人たちの輪の中に飛び込み、その中で聴衆に自らの思いを語り続ける努力を重ねた。
 選挙期間中、ベンさんがえびす亭に行くことはなかった。その間、酒もまた一滴も口にしなかった。晩秋の日差しを受け、木枯らしに打たれ、ベンさんはひたすら大衆の前に身をさらした。その結果、選挙運動が終盤に近づいた頃には、それまで少数だった拍手が徐々に唸りを上げる拍手に変わりつつあった。
 
 「ベンさん、大丈夫かなあ……」
 米沢さんは、最近姿を見せないベンさんのことが心配でならないようで、八百屋の将ちゃんを見つけると、口癖のようにベンさんの現況を尋ねた。
 「お父さんの元秘書がお父さんの地盤に食い込んで荒らしているってもっぱらの噂ですからねぇ。厳しいと思いますわ。何とか頑張ってくれたらええんやけど」
 将ちゃんもベンさんのことについてそれほど詳しいわけではなかった。米沢さんが心配するように、将ちゃんもまた、ベンさんのことを気にかけていた。しかし、ベンさんの状況はあまりえびす亭には伝わって来なかった。
ベンさんの父親は、ベンさんの選挙運動には、ほとんど口を出さなかった。病状はいくぶんマシになり、息子を助けて動こうと思えば動けたし、自分を支援してきた人たちに息子をアピールすればもう少し状況がよくなるとは思っていたが、あえてそれをしなかった。
 真の支援者は一般大衆だ。一般大衆を味方につけなければ当選することはありえない。自分が歩いてきた道を息子にも歩いてほしかった。だからベンさんの父親は、はやる心を抑えてひたすら静観した。
 元秘書は、選挙終盤になって選挙結果を楽観視するようになっていた。立候補当初は、ベンさん側の妨害を受けて厳しい選挙になるだろうと危惧していたが、意外にそれはなかった。元秘書の選挙戦術は、ベンさんの選挙地盤を崩すことから始まった。ベンさんの父親の支援者、後援会にさまざまな手を駆使して入り込み、乗っ取りを画策した。それが功を奏し、かなりの数の票が、自分のところに流れそうだと確信できるところまできていた。
 ベンさんの状況は逐一自分のところに報告されている。それによるとベンさんが愚かしい選挙戦術を取っていることがわかった。少人数のところで対話を繰り返し、熱っぽく語り続けているとの情報が元秘書の元にもたらされた時、元秘書は大笑いしたものだ。点で話をしても点は点でしかない。面で話をしなければ票は獲得できない。大切なことは、いかにして票を獲得するかだ。それを自分はやってのけている、その自負を元秘書は確信に近い形で持っていた。
 
 一名しか当選しない市議会議員選挙の告示に、五名の候補者が乱立し、乱戦模様が伝えられたが、選挙終盤になると、優勢、劣勢が判然としてきた。新聞の得票予想によると、元秘書が圧倒的に優勢と伝えられた。それに続くのが医師会出身の男性で、ベンさんは残念ながらかなり離された形で三番目に位置付けられていた。
 「どないやベンさんの様子は?」
 この頃、えびす亭では市議会議員選挙が最大の話題になっていた。いや、市議会議員選挙というよりも関心の多くはベンさんが当選するか否かにあった。
 将ちゃんが店の客に手当たり次第に尋ねた時も、悲観的な答えしか返って来なかった。
 「今回は無理やろ。次の選挙を待つしかない」
 その意見が大多数を占めていた。ただ、そんな中で、ベンさんの当選を信じて止まない人がいた。米沢さんと谷さんだ。
 「たまたまなんやけど、ベンさんが選挙活動をしているところに出くわしたんや。路地に五、六人の主婦を相手に話していた。話していたというよりも、主婦たちの声に真剣に耳を傾けて、それにベンさんがいちいち応えていた。ベンさん、何やっとんのや、とその時は思うたよ。だって、他の候補者は選挙カーで自分の名前を連呼している時期なんやから、ベンさん、あかんがな。思わず叫びそうになったわ」
 谷さんはそこで一呼吸おいて、
 「そやけどよう考えたら、国政ならともかく市会なんやから、ベンさんのやっている方法もありかなと思うたんやわ。五人と真剣に話すことで、五人がベンさんのことを他の人に話す。それが伝播して多くの人にベンさんの名前が記憶されていく。そう思うたんやけど、どうかな?」と語った。
 だが、それは理想論や。現実的ではない、と多くの客が谷さんに意見した。
 そんなところに、米沢さんが割って入った。
 「俺も谷さんの意見に賛成や。ベンさんは大きい小さいにこだわらず対話を中心に自分の考えや思いを粘り強く大衆に伝えている。さすがは教師出身やと見直した。生徒の気持ちを大切にして授業を進めないと、落ちこぼれがたくさん生まれてしまう。高圧的に教えるのではなく、共に学ぶ、考えるといった姿勢を貫くことで、子供たちに自覚が生まれ、意欲が育つ。ベンさんはそれをやっているのだと思う。ベンさんは、選挙運動の中で、一見、途方もなく地道に思えるけれど、ああした対話方式を取ることで自分の味方を増やしている。俺はベンさんが当選する方に賭ける!」
 米沢さんはそう言いきって、千円札をカウンターに置いた。
 
 選挙当日、ベンさんは病院のベッドに横たわる父親に報告をしに訪れた。
 「ええ天気でよかったなあ。たくさんの人が投票しにやって来てくれるでぇ」
 ベンさんの顔を見ると、父親は窓辺から外の景色を眺めながら笑顔で言った。
 「お父さんの跡をと思って頑張りましたけど、どうやら今回は難しいような気がします。新聞の下馬評でもぼくは三番目でしたから」
ベンさんがあきらめ口調で話すと、父は、
 「いや、そうでもないぞ。選挙には浮動票というものがあって、これは事前になかなか読み取れないもんや。わしのところに伝わってくるニュースを聞くと、お前の人気もまんざらではないようや。もしかしたらもしかする。あきらめんと待っとれ」
 ベンさんを励ますように父は檄を飛ばした。
 午後8時に投票が終了し、すぐに開票が実施された。大方の予想通り、元秘書が開票当所から圧倒的な強さを見せていた。ところがしばらくすると異変が現れた。元秘書の票が急に伸び悩みはじめ、逆にベンさんの票がぐいぐい伸び始めたのだ。
 開票後30分、早くも当確が出た。当選者は「石田弁吉」、選挙管理委員会から速報が出ると、ベンさんの事務所がドッと湧いた。事務所に集まった支援者もまさかと思ったほどの得票数を獲得して、ベンさんは補欠選挙にみごと当選した。
 
 えびす亭はその夜、ちょっとした祝賀パーティに近い雰囲気になり、客たちがそれぞれにベンさんの当選を祝って大騒ぎした。
 米沢さんと谷さんは、そんな大騒ぎとは一線を画して、二人で静かにベンさんの当確を祝った。なぜ、こんなに嬉しいのだろう、二人は顔を見合わせて不思議がった。ベンさんを散々こきおろし罵倒した二人である。それなのに、誰よりもベンさんの当選を喜んでいた。泣きのベンさんに代わって、今夜は米沢さんが泣きの米さんになっていた。嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。谷さんもそれは同じだった。米沢さんの涙をみて、つられて泣いた。
 「ベンの野郎、おれたちをこんなに泣かせやがって……」
 散々、酒をかっくらった二人の涙声が、人で賑わうえびす亭の喧騒に紛れて静かに消えた。
〈了〉


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