お前でなきゃ駄目なんだ

高瀬 甚太

 広告会社の代表を務める加藤亘は、二十代の若さでこの仕事を立ち上げ、二十年近く会社経営を行っている。広告会社の経営は決して生易しいものではない。売上こそ好況時に比べると低下しているが、それでも、赤字は出していない。仕事は至って順調だった。
 創立当時、社員は女子が一人で、男性が二人、小さな所帯だった。雑居ビルの小さな一室を事務所にして、加藤は日夜、寝る間もないほど営業に奔走した。最初に雇った男性二人は営業マンとしてからっきし役に立たなかった。ルート営業しかやったことがないから飛び込み営業ができず、勤務態度もよくなかったので、二人とも三日でクビにした。女性の方は加藤が前にいた会社から引き抜いた縁もあり、また、経理に精通していたこともあったのでクビにする必要はなかった。
 最初の三年こそ大変だったが、大口の得意先も確保でき、その後は順調だった。五年目に事務所を移転し、ビジネス街のオフィスビルの一室を借りた。紙媒体の広告からネット時代に先駆けて始めた広告戦略が大ヒットし三段跳びに売上がアップした。その頃には営業マンが二二名に増え、事務所も一等地の高層ビルの最上階にワンフロアを借り切るなどして、加藤は一躍、時代の寵児になった。
 ただ、ワンマン経営だったせいか、いい社員が育たなかった。何人か、優秀と思われる人間もいたが、出来る男は、ワンマン経営に我慢できず、謀反を起こして得意先をかっさらって独立をしたり、隙あらば寝首をかこうとする奴が多くて、社員として長続きしなかった。結局、最初の立ち上げからずっと加藤のそばに居続けたのは、経理事務の早乙女美智子だけだった。
 早乙女は、加藤より一歳下の三十四歳だった。地味で大人しく目立たない女だったが、加藤は仕事の上で重宝した。独立する以前に勤めていた会社から彼女を引き抜いたのも、安心して経理を任せることが出来、加藤の言うことに素直に従う、その性格が気に入っていたからだ。早乙女は、常に加藤を盛り立て、金銭に関するすべてのことを加藤に代わって対応した。
 だが、加藤は、早乙女の家族構成やその他のこと何も俺は知らなかった。履歴さえも理解しておらず、ほとんど無知に近い状態だった。それなのに大事な会社の出納のすべてを彼女に任せ続けて来たのは、加藤が彼女を信頼に足る女だと、信じていたからに他ならない。

 加藤には学生時代から付き合っていた同じ年の女がいた。有名企業の重役の娘で、家事はほとんど出来なかったが、そんなものなど関係ないと思わせるほどの美貌とスタイルがあった。主婦向きではなかったが、遊ぶにはいい女だった。
 真の愛が互いの中にあったのか、どうかと聞かれれば、答えは出にくい。肉欲、性欲がそれを勝っていたからだろう。その女との肉体関係だけは、別れて数十年になる今も忘れられずにいた。
 儲かって散財している時は安定していても、苦境に陥り、金銭の工面に苦労するようになると、女の愛は簡単に他に移った。女に未練のあった加藤は、その女の愛を取り戻すために必死になった。だが、必死になればなるほど、さらに女は遠のいた。仕事がうまく行かず、悲観にくれ始めたのはそんな時のことだった。
 ――女なんて馬鹿らしい。
 この時の加藤はまだ二十代と若かったこともあって、そう思うようになった。本気の恋愛をしなくなったのと、再び仕事が軌道に乗り始めたのが、ちょうど同じ時期だった。加藤は仕事に夢中になった。

 三十代半ばの頃だった。加藤は取引先の社長、三橋定次に女性を紹介された。
 「独身でいては信用がつかんよ。そろそろ身を固めた方がいいんじゃないか」
 三橋社長は、加藤より五歳年が上で、加藤にとって兄貴のような存在の人物だった。否も応もなく、加藤は三橋社長の仲人で見合いをした。
 それが高梨恵理子という女性だった。加藤より七歳下のその女性と出会った時、思わず加藤は身を震わせた。それほど彼女はきれいだったのだ。何よりも清潔で控えめなところが気に入った。
 「どうだ、いい女だろう?」
 紹介してくれた三橋社長が加藤に確認するより先に、加藤はもう心を決めていた。
 ――この女を俺の女房にしたい。
 そう思ったのだ。
 付き合い始めてさらに加藤の思いは強くなった。三回目の出会いで、早くも加藤は彼女に気持ちを打ち明けた。正式なプロポーズではなかったが、彼女の反応は悪くなかった。加藤は有頂天になった。

 「結婚するのですか?」
 浮かれた加藤の様子を見て、早乙女が聞いた。
 珍しいことだった。普段は黙々と経理の仕事に励んでいて、仕事以外で加藤に話しかけることなど滅多になかった。その早乙女が心配げな表情で加藤に聞いた。
 「ああ、そのつもりだ。どうした。何か心配なことでもあるのか」
 「その女性のことを調査されましたか?」
 「調査も何も、取引先の信頼できる社長の紹介だぞ。心配することなど何もない」
 ――腹が立った。何も知らない早乙女が、俺の彼女と取引先の社長を侮辱している。
 そんな気がして加藤は声を荒げた。
 早乙女は、一瞬たじろいだが、なぜか、その時だけは一歩も引かなかった。
 「社長、一生の問題です。何もなければそれでいいのですが、調査だけはしておかれた方がいいと思います」
 「会ったことのないお前に何がわかると言うのだ」
 ますます腹が立って来た加藤は、早乙女をどやしつけた。創業時から共に苦労し、一緒にやって来た早乙女を罵倒したのは、この時が初めてだった。
 「わかりません。でも、これは女の直感です。お願いです。調査だけでもしてください」
 早乙女が頭を下げる――。
 なぜ、これほどまで意固地になって、口答えするのか。理解出来なかった加藤は、仕方なく早乙女に約束をした。
 「わかった。興信所に頼んで調査をする。お前が興信所に連絡をして取り掛かってくれ。後はまかせる。だが、どうせ金の無駄払いになるぞ」
 加藤は笑った。だが、早乙女は笑わなかった。結果が分かったのは、一週間後のことだ。
 調査結果がわかるまで、加藤は高梨理恵子と会わなかった。彼女は、不審がったが、調査が終わった段階で、はっきりとプロポーズするつもりだった。結婚は早いほうがいいだろう。プランはばっちり立てていた。
 「興信所から届いた報告書です。これをお読みになって、そのうえで結論を出してください。本来なら私なんかが口出しするものではないのですが、少し気になったものですから……」
 興信所からの報告を受け取った加藤は、早乙女をあざ笑うように大声で笑った。
 「どうだ。読んでみて、はっきりわかっただろう」
 早乙女は無表情な顔で加藤を見て言った。
 「とにかく目を通してください」
 それだけ言うと、早乙女は加藤のそばから離れ、経理課へ戻った。
 すでに封の切られていた報告書を封筒から取り出し、加藤は読んだ。そして、大声で再び早乙女を呼んだ。
 「早乙女、すぐに来い!」
 加藤は動揺していた。そして疑った。早乙女がこの報告書に細工したのではないか、そう思ったのだ。
 早乙女はすぐにやって来た。彼女は平然としていた。そんな彼女に加藤は言った。
 「この報告書は何だ。お前がこの報告書をいじったのだろう!」
だが、彼女は変わらず平然として、加藤を見つめ、
 「お疑いなら、興信所にお尋ねになってください。なぜ、私が報告書に細工をする必要があるのですか?」
 それはそうだと、その時、加藤は思った。早乙女が細工をする必要がどこにある? それに細工などしても興信所の原本と突き合わせればすぐにわかる。そんな愚かなことを彼女がするはずがない。
 ――じゃあ、これは何だ? この報告書は何だ?
 加藤は高梨恵理子の携帯電話に電話をし、すぐに会いたい、と伝えた。
 「わかりました」
 静かな声で彼女は答えた。

 その日の夕刻、ヒルトンホテルのロビーで彼女と待ち合わせをした。約束の時間は五時だったが、彼女はすでに待っていた。
 「食事でもしますか?」と聞くと、彼女は首を振った。彼女の清楚な顔が少し歪んだような気がした。今日の要件をすでに気付いているのでは、そんな気がして加藤は、彼女とロビー近くの喫茶店で話をすることにした。
 「高梨さん。申し訳ありません。少しあなたのことを調査させていただきました。これを見てください」
 興信所の封筒から写真数枚と高梨恵理子に関する調査資料を取り出し、テーブルに広げて見せた。
 写真は、今回の仲人となった取引先の三橋社長と高梨がラブホテルから出てくる写真が数枚と、キャバクラで働く彼女を盗み撮りしたものだった。
 調査資料には、彼女を素行調査した記録が載っていた。
 「残念です。私はあなたがどういう素姓の方であれ、結婚するつもりでいました。だが、紹介していただいた三橋社長とお付き合いなさっているとわかって、結婚をあきらめざるを得ないと思いました」
 高梨は写真を見て、調査資料を見ても顔色一つ変えなかった。それまでずっと我慢をしていたのだろう、バッグから煙草を取り出すと、勢いよく吸い、大きく煙を吐き出した。
 「三橋さんとは長い付き合いよ。三橋さんの取引会社に私が勤めていて、声をかけられたのがきっかけで付き合うようになったの。ほとんど愛人同然の付き合いをして、毎月、働かなくてもいいぐらいの手当てをいただいていたのだけれど、三橋さんの奥さんが気付いたみたいで、監視が厳しくなっておおっぴらに会えなくなったの。毎月もらっていた手当も、せいぜい月に一、二度では大した金額がもらえず、仕方なくキャバクラで働くようになった。そんな時よ。三橋さんが私に提案してきたのは――」
 精祖なイメージの彼女が急に変わったことに、加藤は驚きを隠せなかった。
 「俺の得意先に、いい年をして独身の社長がいる。儲かっているようだし、仕事一本の男だから、一度、この女と信じたら鈍感だから気付かない。あいつにお前を抱かせるのはもったいないが、あいつと結婚したら、俺はおおっぴらにお前に会える。女房だって、友だちの社長の妻を寝取っているなんて夢には思わないだろうからな」
 ラブホテルから出てくる写真を眺めながら、高梨はその写真に煙草の煙を吐きかける。
 「でもよかったわ。これで私も踏ん切りがついた。三橋さんと別れることにする」
 それだけ言って、高梨は立ち上がった。加藤は、ただ、呆然とそんな彼女を眺め、見送るだけだった。

 翌日、加藤は早乙女に礼を言った。
 「ありがとう。すべてきみのおかげだ」
 早乙女は何も言わず、加藤の傍から離れようとした。
 「ちょっと待ってほしい。今回の件で気が付いたのだが、私の結婚もそうだが、早乙女さん、きみはどうなんだ?」
 早乙女は、立ち止まったまま、動かなかった。しばらくして振り向いた彼女の目が潤んでいたことに気が付いて、ハッとした。
 「失礼します」
 そう言って彼女は部屋を出て行った。
 ――気付かなかった。
 会社を起ち上げた時からずっと傍にいて、戦友のような気持ちでいたから、一度として彼女を女として見たことがなかった。
 平凡で目立たない女だ。スタイルも昔はまだしも、今はよくない。色は白いが性的な魅力に乏しく、男を惹き付け、奮い立たせるような魅力に欠ける。悪口を言い出したらキリがない。
 ――それでも気持ちのいい女だ。少なくとも俺にとってはかけがえのない女だと、改めて思った。早乙女がいたからこそ、俺はここまでやって来れたのだ。あいつは、ずっと俺を支え続けてきた。なぜ、そのことに気付かなかったのか。
 加藤は自分を恥じた。

 早乙女を食事に誘ったのは一週間後のことだ。考えれば、彼女を食事に誘うなど、初めてのことだった。
 「早乙女、今夜、付き合え。新しいクライアントに会う。お前にも会ってもらいたいのだ。安心して付き合えるクライアントかどうか、確かめてほしい」
 例のごとく、早乙女は辞退した。
 「私なんか、何の役にも立ちません。もっと別の人を選んでください」
 「お前でなきゃ駄目なんだ」
 早乙女は渋々ついて来た。
 「本当に私なんかでいいんですか?」
 控えめだが、芯のしっかりした物言いで加藤に聞いた。
 「お前でなきゃ駄目なんだ」
 加藤はもう一度、その言葉を繰り返した。

 一流ホテルのレストランは、人を緊張させる雰囲気を持っている。この日の加藤は柄にもなく緊張していた。早乙女は、辺りをキョロキョロ窺っている。どんなクライアントが来るのか、不安で仕方がないのだろう。
 テーブルに向かい会って座ると、早乙女が素っ頓狂な声を上げた。
 「社長、向かい合って座ると、クライアントが来られた時、困りますよ」
 「いいんだ。その時が来れば言う。今は黙ってそこにいて、食事をしろ」
 不安げな表情を隠さず、早乙女が小さく頷いた。
 料理が届き始めた。オードブルから始まってポタージュスープと次々に料理が届く。
「 早乙女、美味しいか?」
 加藤が尋ねると、早乙女が目を細めて笑った。
 「美味しいです。こんなところでこんなご馳走をいただけるなんて夢のようです」
 「そうか。それはよかった」
 思えば、早乙女を食事に誘ったことなど、これまで一度もなかった。彼女の笑顔を見るのも多分、今日が初めてではなかったか――。

 高梨の件があってから後のことだ。加藤は早乙女の履歴を初めて確認した。
 加藤が会社を作ってすぐに彼女を引き抜いたものだから、加藤のところには、彼女の履歴を報せるものは何も残っていなかった。無理を言って、前の会社の総務の友人に依頼して早乙女の履歴書を転送してもらった。
 ――今頃どうしたんだ? 彼女が何か悪さをしたのか?
 総務の友人は、転送する前に加藤に聞いた。
 ――いや、そうじゃないんだ。彼女には助けてもらっている。感謝しているぐらいだ。
 ――だったら、どうして?
 ――彼女を嫁にもらいたいという奴が現れてな。彼女のことを聞きたいと言うのだが、こちらに何も資料がなくて困っていたところだ。
 ――へえ、早乙女を嫁にもらいたいって言ったのか?
 ――ああ、奇特なやつだろ?
 ――そうじゃないよ。見る目のある奴だな、と思ったんだよ。
 ――見る目のある奴?
 ――そうだよ。お前、ずっと近くにいて、何も気が付いていないんだな。あの子は、あれで、うちの会社に勤めていた時から人気があったんだぞ。
 ――人気があった?
 ――そうさ。嫁さんにしたいと狙っていた奴がたくさんいた。
 ――そんな話、初めて聞くぞ。
 ――早乙女は見た目が地味だし、目立たない女だったからな。それでも、みんな言ってたんだ。嫁にするなら早乙女だって。
 ――……。
 ――ところが、お前が彼女を引き抜いて連れて行った。あの時、みんな怒っていたんだぞ。勝手なことをしやがってと。だが、早乙女はお前に惚れていたからな。ゆくゆくは結婚するつもりで連れて出たのだろうと、みんな思って、仕方なく納得していたんだ。ところが、お前は未だにあいつを嫁にしていない。あの頃の連中は、俺も含めてみんな結婚しているが、残念がっていたんだぞ。
 ――早乙女が俺に惚れていた? そんな話、初めて聞くぞ。
 ――会社の男が一人、早乙女に交際を申し込んだことがあるんだ。その時、早乙女が、『私には好きな人がいます』と言って、断った。好きな人って誰だ? と話題になって、それがお前のことだとすぐに知れた。ある時、早乙女がお前の方ばかり見ていたと、話す奴がいて、それで、みんな、納得したというわけだ。
 確かにあの頃、早乙女は男性陣の人気が高かった。加藤はなぜだろうといつも不思議に思っていた。美人でもなければスタイルがいいわけでもない。確かにバストは目立つが、それも性的アピールにつながるものではなかった。ただ、早乙女と一緒にいると、心が休まる、安心できる、という奴は多かった。母のような愛に包まれるというのだ。その頃の加藤はそのことに気付いていなかった。じゃあ、なぜ、数ある女子社員の中で加藤は、彼女だけを引っ張って独立したのか――。
 そこでようやく気が付いた。加藤もまた、他の男性社員と同様に彼女に惚れていたのだ。ただ、そのことに加藤は気付いていなかった。加藤の求める女性像がそこにあった。でも、その頃の加藤は、他の男たちに優越感の持てるような女ばかりを選んで付き合っていた。真の愛はそこにはなかったのだ。だから加藤は別れた――。

 「クライアントの方、来られませんね」
 周囲を見回して早乙女が言う。コース料理はそろそろ終わりに近付いていた。
 「もう来ているよ」
 加藤が言うと、早乙女が驚いたように加藤を見た。
 「俺が今日のクライアントだよ。きみに判断して欲しかった。今日のクライアントは、きみが一生、添い遂げるのに相応しい男かどうか」
 早乙女はスプーンを皿の上に落とし、しばらく言葉が発しなかった。やがてジワジワとそのその目に涙が溢れ始め、溢れた涙が粒となって頬を伝い始めた。
 「今頃になってようやく気が付いたんだ。俺はあんたが好きだったってことに――」
 頬を伝う涙が早乙女の口の中に入り、それを吐きだすようにして早乙女は嗚咽を洩らした。
 「鈍感だろ? 俺って」
 加藤が自虐的に言うと、ハンカチを取り出して涙を拭いながら早乙女が呟いた。
 「――鈍感過ぎます」

 ほどなくして加藤は早乙女美智子と結婚した。今は毎日が夢のような幸せを日々感じている。
 すぐ近くに大切な人がいる。最高の愛は案外、身近にあるもんだぞ。
 加藤は、時折、社員にそう話すことがあった。
 <了>

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