悪夢に誘われて

高瀬甚太

 厳しい夏の日差しに舗装道路が悲鳴を上げていた。じっとしていても汗をかく。しかも前夜から徹夜で仕事をしていて、一睡もしていない。午後の西日が肉体を浪費させ、疲労をさらに深くしていた。
 焼け付くような炎天下の中、私は、友人に会うために梅田に向かって自転車を走らせていた。
 考え事をしながら走っていたのが悪かったのか、あまりにも強い日差しにめまいが生じたのか、あっと驚く間もなく、自転車もろともコンクリートの地面に叩きつけられ、頬をしたたかに打ち付けて気を失った。
 
 朦朧とした意識の中で、立ち上がり周りを見渡した。口から血が出て頬が大きく膨れあがっていた。眼球を打ち付けたせいか、視界は悪かった。私は一体どこに行こうとしていたのだろうか、思い出せないまま、乗っていた自転車を探した。幸い自転車は無事だった。血がポタポタと流れ、道行く人が訝しげな表情で私を見る。頬のふくらみはさらに増し、右目はすでに閉ざされていた。御堂筋を走っていたはずなのに、なぜかその実感がない。痛みが脳を刺激し、痺れるような感覚が体全体を覆った。そこで再び私は気を失った。
 時間にすればわずかだったかもしれない。だが、その時の私には永遠に感じられた。
 複雑に絡み合った蜘蛛の糸の中に入っていた私は、体に絡んでくる蜘蛛の糸を解きほぐそうと必死になって体をばたつかせていた。だが、絡まる蜘蛛の糸は、さらに激しく私を襲った。
 目の前をさまざまな光景が通り過ぎていく。蒸気機関車の車室、幼い私の前には母がいた。母が剥いた蜜柑を私の口に当てて笑っている。吸い込むようにしてその一房を口にすると蜜柑の香りと舌を震わせる甘さが一瞬にして口の中全体を覆った。
 なぜか亡くなった母のことばかりが脳裏を過ぎった。海辺の光景、田園風景、静かな山林の中……。母と過ごした場所が次々と行き過ぎて行く。
 ――目を覚ますと病室の中にいた。自分がどうしてベッドに寝ているのか、不思議に思って周囲を見回した。
 「気が付きました!」
 看護婦の甲高い声とバタバタと走ってくる足音が同時にした。医師が目の前に現れ、笑顔をくれた。
 路上で自転車もろとも倒れた私は救急車で運ばれ、意識を失ったまま病院に運ばれたのだ。
 「脳には異常がないようだ。ただ、眼底出血があるのと頬の打撲が酷いから検査をしてする必要がある」
 医師の説明を聞きながら、その時になって私は、ようやく自転車で倒れた時の一部始終を思い出した。
 
 病院には一週間ほどいて、数度にわたって精密検査を受けた後、退院した。
 頬のふくらみは一週間ほどで収まったが、青煮えのような跡はしばらく顔に残った。口の傷はきれいに消え、障害が残らなかったのが幸いだったと医師は説明してくれた。
 一週間も仕事が中断すると後が大変だ。事務所に戻るとすぐに私は仕事を開始した。
 退院して仕事を開始したその日の夜のことだった。
午 後9時を過ぎて、そろそろ帰ろうかと考えていたところ、突然、インターフォンが鳴った。こんな時間に誰だろう。そう思って扉を開けた。
 目の前にいたのは着物を着た三十代とおぼしき女性だった。
 「どちら様でしょうか?」
 尋ねると、女性は、
 「斎藤と申します」と応え、
 「遅い時間に申し訳ございません。ご相談したいことがあってやってきました。少し、よろしいでしょうか?」
 と言って部屋の中へ足を踏み入れた。
 ワンルームの小さなマンションの一室だ。しかも遅い時間帯だ。入室を断ろうとしたが、女性はさっさと部屋の中に入ってくる。
 「たくさんの本がございますのね」
 周りに積んだ本を眺めて微笑みながら女性が言った。
 「ええ、まあ、出版社ですから……」
 椅子を出すと、女性はその椅子に腰をかけ、おもむろにハンカチを取りだした。
 「どうぞ、頬をこれで拭いてくださいませ」
 驚いて頬を触ると、腫れの収まった頬から血が一筋流れていた。女性の差し出すハンカチを断り、ティッシュペーパーで頬の血を拭った。
 変だなあと思った。今頃になって血が噴き出すなんて。そう思いながら血を拭い、女性に尋ねた。
 「ところで用件とは何でしょうか?」
 藤色に花模様が鮮やかに描かれた着物は、女性を一層美しく見せ、見た目の年齢よりも落ち着きを感じさせた。女性は私の問いに笑顔で応えた。
 「実は本を出版していただきたくて……」
 「内容は?」
 「私、よく夢を見るんです。その夢の世界を本にしたくて」
 「夢ですか……? ちなみにどんな夢なんでしょうか」
 「魑魅魍魎とした死の世界の夢なんです」
 「死の世界?」
 「ええ、死後の世界といったらいいのでしょうか。とても不思議な夢なんです。それも、ここ数カ月、毎月、その夢を見続けています。夢を見なくてすむ方法をいろいろ試してみたのですが、一向に収まりません。それで、ある霊能者の方にご相談すると、その内容を本に書き写せば救われると教えられました」
 「私のところへ来られたのはどういう理由からでしょうか?」 
 「ある方におハガキをいただいて、それであなたのことを知りました」
 見たところ、正常に見える女性だが、少しおかしい人ではないだろうか。それに今の自分は体調の関係もあって相手をする気にもなれない。私は女性に向かって丁重にお断りをした。
 「申し訳ありませんが、私には手に負えない仕事のような気がします。せっかく来ていただいて申し訳ないのですが……」
 断ろうとすると女性は、バッグから一枚のハガキを取り出し、私に見せた。
 ハガキには、その女性の名前なのだろう、「斎藤小夜子様」と書かれ、その脇に差出人として井森志保子と書かれている。
 「これは……!」
 井森志保子は私の母の名前だ……。
 「この方にあなたのことを教えていただきました」
 「井森志保子は私の母の名前です。母の名がどうして?」
 「承知しています。あなたのお母様が私にあなたに相談しなさいと言ってくださいました」
 「だが、十年も前に母は亡くなっています」
 「存じています。私が見る夢の世界は、死後の世界、つまり霊界を映し出します。あなたのお母様は霊界におられて、悩み苦しむ私に救いの手をさしのべてくださったのです」
 平然と語る女性に私は一瞬、恐怖を覚え、後ずさりした。
 女性はハガキを私に手渡した。改めてハガキを見直した。
 「井森志保子」、間違いなく母の書体で書かれた文字だった。
 裏面には、やはり母の文字で「現世と霊界の狭間で苦しむあなたを見ていると捨て置けません。現世の世界に私の息子がいます。住所と連絡先を記しておきます。一度ご相談してみてください」と書かれていた。
 信じられない。しかし、現実に私は母の手によって書かれたハガキを手にしている。
 「信じていただけますね」
 斎藤小夜子は、私の目を見つめそう言った。頷くしか術がなかった。
 
 その夜、私は、夜が明けるまで斎藤小夜子の話を聞いた。
 斎藤小夜子は、岐阜県の山間の地に生まれ、兵庫県神戸市で育ったという。ごく普通の少女だったが、人と違ったのは、霊感が鋭く、子どもの頃から幽霊をよく見ていたということだった。
 「うちにはもう一人家族がいるね」
 そんなことを平気で口走る彼女を両親は気味悪がってよく叱ったという。なぜ叱られるかわからなかった彼女は、「部屋の隅に男の人が一人いるよ。お母さん、わからないの?」と両親に言ったが、両親は「この子はきっと精神がおかしいんだ」と、決めつけて病院へ彼女を連れて行き、医師の診察を受けさせた。
 それ以後、彼女は幽霊を見ても何も言わなくなった。だが、ある一時期から彼女は幽霊を一切見なくなった。
 高校生から二十歳までの思春期の時期だ。
 高校生になった彼女は恋をした。初恋だった。彼は一学年上の先輩で、バレーボールの選手だった。恋は彼女が短大を卒業するまで続いた。だが、二十歳になった年、彼との恋が破局した。
 彼に新しい恋人ができたのだ。その時、深い悲しみに襲われた彼女の内なるものが決壊した。その夜から彼女はまた幽霊を見るようになった。そしてそれは現在に至ってもなお続いている。
 三十を境に、そんな彼女に異変が起きた。頻繁に夢を見るようになったのだ。しかもその夢は霊夢とでも呼ぶべき死の世界に通じるような夢で、その夢の中で彼女は常に死の世界を彷徨っていた。霊夢からの脱出を試みてさまざまな方法を講じたが一向に効果がない。そんな時、知り合った霊能者が彼女に言った。
 「本に夢のすべてを書き写しなさい。そうすればあなたは救われる」
嘘か本当か、迷っているような状況ではなかった。藁にもすがりたい思いだった彼女は、夢の中で大声で叫んだ。誰か私に、霊夢のすべてを記す術を教えて! と。
 そんな彼女に届いたのが「井森志保子」からの一枚のハガキだった。そのハガキを読んだ彼女は極楽出版を訪問し、井森に出会った。
 霊夢は、死の世界の夢で現実とは大きく異なっていた。そこにあるのは、普通の生活ではない。人の魂が彷徨する異次元の世界で、空も海も草も木もなく、ただ、ひたすら闇の世界だけがあった。
 闇の中には凄まじい霊気が漂い、そこかしこで彷徨する魂が悲鳴を上げている。そこには良好な魂を食い荒らそうとする魔物のような一団がおり、魂はそれを逃れようと必死になって浮遊している。
 彼女だけは、なぜか肉体を持ってその世界を浮遊していた。そんな彼女の魂を奪わんと魔物が襲って来た。必死になって魔手から逃れようとする彼女は、自分の命が長くないことを知っていた。やがて、肉体が死滅して魂だけになり、魔物に食い散らかされるのだと覚悟していた。
 だが、彼女は最後に一縷の望みを賭けて神に祈った。
 もう一度、あの人に会いたい。出来れば恋を成就したい。その思いをひたすら神に祈った。そんな彼女に魔物たちが容赦なく襲い、魂に食いつこうとした。
 霊夢から逃れたい。その一心で、血反吐を吐き出すような激しさで彼女は私に霊夢のすべてを語った。
 私もまた、彼女の話を力の限り書きつづった。母が私を紹介したのだ。もしかしたら私が彼女を救えるのではないか――、そんな気がした。
 凄まじい死の世界、霊夢の世界……。私はペンを何本も折りながら熱い気持ちで書きつづった。
 
 「おい、大丈夫か?」
 声をかけられて気が付くと、私は、焼け付くようなアスファルトの上に倒れていた。慌てて立ち上がり、頬を抑えたが何ともなっていない。口から血も出ていなかった。
 通りがかりの人が数人集まって声をかけてくれた。お礼を言って、自転車に乗った。自転車も無事だった。
 私は一体どうしたのだろうか。走りながら考えた。自転車で倒れて、怪我をしたことも、入院したことも、斎藤小夜子に会って霊夢の話を書きつづったこともすべて夢だったのだろうか。
 事務所に帰り、病院に電話をして尋ねてみた。
だが、入院したはずの病院は私のことを覚えておらず、カルテさえないと話した。
 なんだ、アスファルトの上で夢を見ていただけなのか。そう思うと何だか落ち着いた。夢でよかった。そんな思いが気持ちを楽にした。
 夕方近くなって後輩から電話があった。報告したいことがあるので私の事務所を訪ねたいというのだ。気軽に了承して、彼を待った。
 インターフォンが鳴らされたのは午後7時になって間もなくのことだった。仕事の手を休めてドアを開けた。
 「先輩、お久しぶりです」
 矢口徹という高校時代の後輩で、阪大を出て大手企業に就職し、今やその会社の花形である営業課長にまで出世している。
 「おおっ、久しぶり。狭いところだけどまあ、入れ。でも、珍しいなあ、おまえが訪ねて来るなんて」
 部屋の中へ招き入れながらそう言うと、矢口は照れくさそうにして、
 「実は今度結婚します。彼女がぜひ先輩にご挨拶したいというものですから連れてきました」と言う。
 矢口の背後から、
 「今晩は、お邪魔します」
 と、か細い声が聞こえた。
 「狭いところですが、まあ、どうぞ」
 招き入れると、女性が矢口の背後から顔を覗かせた。
 その顔を見て、私は思わず仰天した。斎藤小夜子だったからだ。
 「高校時代の一年後輩で、五年ほど付き合ってしばらく別れていたのですが、ついこの間、偶然会って……、とんとん拍子で結婚することになりました」
 矢口はそう言って笑った。
 複雑な思いで私は斎藤小夜子を見た。小夜子は、私の耳元に近づくと、小さな声で私に囁いた。
 「すべて編集長のおかげですわ」
〈了〉

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