愛するがゆえに憑依する霊

高瀬 甚太
 
 午後2時の都市部、怠惰な空気が充満する中で、交通事故が発生した。北から南へ走るタクシーと、東から西へ向かうオートバイ、そして西から東に向かっていた刈谷武彦の車が、どういうわけか、交差点の中央で正面衝突し、タクシーは大破して運転手は肩甲骨を負傷、乗っていた客は不運にも開いたドアから放り出され即死している。オートバイは全壊、しかし、オートバイを運転していた者は奇跡的に軽傷で、乗用車に乗っていた刈谷は、意識不明の状態に陥った。
 生死が危ぶまれる中で、刈谷が意識を取り戻したのは入院して間もなくのことだった。意識を回復した刈谷は、自分を取り巻く周りの人間を見て、怪訝な表情をしてみせた。自分の妻や子供を見ても同様の表情を浮かべると、また眠りに就いた。
 刈谷が再び、目覚めたのはその日の夜だった。看護師が急いで医師を呼び、駆け付けた医師が、姓名を確認すると、刈谷は、切れ切れとした声で、
 「三田村清です。職業は教師」と語った。
 そして刈谷は再び意識を失った。
 医師は脳波を調べ、記憶喪失の疑いで診断したが、異常は見られなかった。
 その際、医師が家族に伝えたことがある。
 「お名前は刈谷さんでしたよね。でも、一度意識を取り戻した時、三田村清と名乗りました。職業は教師だそうです」
 「主人は三田村という名前ではありません。刈谷です。刈谷武彦です。職業は印刷会社の経営者です」
 刈谷の妻は、医師に説明をし、刈谷が目覚めた時の、自分と子供を見る眼差しを思い出して、一瞬、ゾッとしたと、後に語っている。
 事故のショックで違う人格と入れ替わる――。
 本当にそのようなことが起きるものなのだろうか。
 「聞いたことはありますが、目にしたのは初めてです」
 と医師は語り、次の目覚めを待つしかないと、刈谷の妻に語った。
 刈谷の妻から連絡を受け、病院を訪れた私は、その話を聞き、困惑した。刈谷の妻は、刈谷に元の記憶を取り戻させ、三田村清の記憶を消滅させてほしいと私に哀願したのだ。
 「私は一介の編集長で、出版編集以外に何の能力も持たない人間です」
と一度は断ったものの、彼女には通じなかった。刈谷の妻は私の手を握り、あなたしかいないと言って、再び、私に懇願した。美人の奥さんに手を握られ、涙に潤んだ目で懇願されて果たして断れるものだろうか。――私は断ることができなかった。
 
 刈谷が名乗る三田村清とはどういう人物なのか、私はそこから調査を開始した。刈谷の回復を待って聞けばよかったのだが、刈谷は二度の目覚めの後、深い昏睡状態に陥っており、このままでは時間がかかってしまうと判断した私は、三田村清を自らの手で探し出すことにした。
 しかし、刈谷の妻は、三田村清と言う名前にまったく心当たりがなかった。刈谷の友人も同様の回答だった。では、彼は、なぜ、見ず知らずの人の名前を名乗ったのか、まさか架空の人物ではないだろうと思った私は、刈谷の妻に依頼して、小学校からの同窓生名簿を見せてもらうことにした。
 小学校時代の同窓生には、三田村清の名前がなかった。だが、中学時代の同窓生名簿の中に三田村清の名前を見つけることができた。三田村清は実在の人物だった。
 刈谷の実家は和歌山市にあり、そこに住む刈谷の両親の元へ出向いた私は、中学時代の刈谷について話を聞き、同級生の三田村清という人物を知らないかと尋ねた。
 両親は、高齢のためか、中学時代の刈谷を断片的にしか思い出すことができず、三田村清の名前も思い出すことができなかった。
 思い出せる限りの中学時代の刈谷の友人を両親から聞き出した私は、電話番号簿を見て、その友人たちの名前を拾った。移転するか、別の地域に仕事の関係で引っ越したのだろう。名前から拾い出すことは意外に難しかった。しかし、ようやく一人だけ電話番号簿の中で名前を見つけることができた。
貝原敦という名前だった。だが、同姓同名の別人ということも考えられなくはなかった。電話をして確認しようとしたが、不在で電話に出なかった。一度、大阪へ戻った私は、夜になって再び電話をした。
 「貝原敦さんですか?」
 と確認した私は、
 「刈谷くんをご存じでしょうか」
 と、単刀直入に聞いた。貝原は、最初、刈谷と聞いてもピンと来なかったようで、しばし沈黙した。改めて中学校名とクラス名を告げ、同級生だった刈谷さんを覚えていませんか、と聞いたところで、ようやく彼は刈谷を思い出した。
 刈谷が事故に遭ったことを話すと、貝原はひどく心配し、どこの病院に入院しているのか、と聞いた。病院名を告げた私は、同級生で三田村清という生徒がいたことを覚えていないか、と聞くと、貝原は、三田村のことをよく覚えていた。
 ――三田村は頭のいいやつでした。俗に言う秀才と言うやつです。でも、クラスのスの中ではあまり目立たなかったですね。中学を卒業してからは付き合いがなくなりましたが、年賀状のやり取りだけはありました。先日、訃報が届いたばかりで、残念に思っていたところです。
 「訃報と言いますと――」
 ――亡くなったんです。交通事故で。
 「いつですか? 亡くなられたのは」
 ――ほんの二、三日前です。交差点で正面衝突して、即死だったそうです。
 「場所はわかりますか?」
 ――大阪へ行っていて、研究論文の発表会が終わってタクシーで帰るところだったらしいです。
 そういえば、刈谷が事故に遭った時、交差点で正面衝突し、即死したタクシーの客がいた。それが三田村清だったのか……。
 何と言うことだ。信じられないことに、生死不明の危篤に陥った刈谷に、即死した三田村清の魂が乗り移ったのか。しかも二人は中学校の同級生だった。
 貝原に礼を言い、電話を切った私は、刈谷のいる病院へ急いだ。
刈谷の意識は依然戻らず、生と死の境をさ迷っていた。
 医師に、
 「刈谷が名乗った三田村清という人物が現実に存在して、衝突事故で亡くなった人だ」と話すと、医師は「どういうことですか?」と私に聞いた。
即死した三田村の魂が、刈谷に憑依した可能性があると話して聞かせると、医師は、
 「三田村という方の魂が死の直前に刈谷さんに乗り移ったというわけですか?」
 と困惑した表情を見せたが、すぐに気を取り直し、
 「科学の進歩した現代ですし、医師の私がこんなことを言うのもどうかと思うのですが、そういえば、時折、そうとしか考えられない事例を見かけることがあります。
 憑依霊はご存じのように、人の身体や魂に乗り移る霊を言いますよね。憑依霊に乗り移られた人は、人格そのものが変わってしまう場合が多く、そのままにしておくと、憑依霊の人格が定着してしまうことがあると言われます。一般的に、人に憑依する霊は悪霊が多いのが特徴だと言われますから、早く何とかしないと、刈谷さんが危険です」
 と話し、「一刻の猶予もありません」と言い、すぐに霊媒師か何か、を呼んでもらえないか私に言った。
 だが、私の意見は医師とは違っていた。刈谷さんに憑依した霊は普通の霊ではない。中学時代のクラスメートの霊だ。退治し、追い出すことよりほかにもっといい方法がないか。三田村を同時に成仏させる方法を考える必要がある、そう考えたのだ。
 昏睡して、生命の危機にさらされている刈谷であったが、それでも少しずつ生気を取り戻しているように見えると医師は語った。
 だが、たとえ意識が回復しても、憑依した肉体と精神がどうなってしまうのか、それを考えると、医師は不安だと言い、いっそこのまま死なせた方がいいのではないか、と口にする始末だった。
 どうしたら二人とも、救うことができるのか。容易に判断がつかなかった。
 物音一つしない集中治療室の前で、私は思考を巡らした。何か、方法があるはずだ。それは何か、その時、ふと今日、電話で話した貝原敦のことを思い出した。
 一縷の望みを込めて、貝原に電話をすると、貝原はすぐに電話に出た。私は貝原に唐突な質問をした。
 「三田村さんと刈谷さんは当時、仲がよかったですか?」
 ――三田村と刈谷ですか? 仲がいいというよりもライバルでしたね。成績でいつも競い合っていましたから。
 「二人の共通点は成績だけでしたか?」
 ――成績もそうですが、一人の女性を奪い合っていました。当時、クラスに東中あゆみという女の子がいましてね。美人でスタイルのいい女の子でした。二人ならずとも、彼女はクラスのアイドル的存在でしたから、みんなに好かれていた女の子だったのですが、特にデッドヒートを繰り広げていたのは、刈谷と三田村の二人です。
 「東中あゆみですか……。彼女はその後、どうなりました? ご存じありませんか?」
 ――勝利したのは三田村でした。彼女は確か、三田村と結婚したはずです。
 「三田村と結婚した?」
 ――いえ、私も噂で聞いただけで、本当のところは知りません。でも、三田村と東中は本当にラブラブでしたよ。
 貝原は、話しているうちに昔のことを思い出したのだろう。次々と昔話を語り始めたが、私はそれを押しとどめ、丁寧に礼を言って電話を切り、刈谷の担当医師に伝えた。
 「刈谷に憑依した三田村の霊を刈谷から引き離す方法を、一つだけ見つけることができました」
 医師は、疑い深い目で、本当にそんな方法があるのか、と私に問い質したが、私には自信があった。後は、刈谷が復活するだけだ。そう思い、医師に一日も早く、刈谷の生命を復活させてくれるよう頼んだ。
 
 事故死した三田村の住所を調べ、三田村の家に直行した。
 通夜の真っ最中だった三田村家は、深い悲しみに包まれ、弔問客もまた陰鬱な表情で三田村家を訪れていた。
 私は受付で三田村の妻に会いたい旨を伝え、急用だと話した。
 弔問客の対応に追われていた三田村の妻は、私の顔を見て、怪訝な顔をした。
 「どちらさまでしょうか?」
 私は「井森公平です」と名乗り、「あなたは旧姓東中あゆみさんでしたか」と聞いた。
 「はい、私の旧姓は東中あゆみですが……」
 それを聞いた私は、今回の件について、詳細を話して聞かせた。三田村の妻は、
 「そんな、馬鹿な――。でも、刈谷さんは、私と三田村の同級生でした」
と答え、「刈谷さんとうちの主人が衝突していたなんて……」と驚き、嘆いてみせた。
 私は、三田村の妻に言った。
 「ご主人の魂を元に戻すにはあなたの協力が必要です。ご主人の魂を元に戻してあげて、成仏させなければなりません」
 三田村の妻は、困惑した表情を浮かべ、
 「どうすればいいのですか?」
 と聞いた。
 「方法はあります」
 と答え、三田村の眠る棺の場所に向かった。
 「ご主人の魂は今、刈谷さんの身体の中にあります。一度、憑依した霊を元に戻すのは至難の業です。それを承知で行おうとしています」
 三田村の妻は、意志の強い目で、私を見て頷いた。
 その妻に聞いた。
 「あなたのご主人と刈谷さんは、お互いにライバル同士で、どちらもあなたを愛していたと聞きました。間違いありませんか?」
 三田村の妻は頷いて答えた。
 「あなたは、最初から三田村さんのことが好きだったのですか?」
 「――そうではありませんでした。最初は刈谷さんの方がタイプでした」
 「それがどうして三田村さんになったのですか?」
 「彼はまっすぐに、何のてらいもなく私に向かってきました。刈谷さんは、照れもあったのでしょう。自分をよく見せたいと思う気持ちもあったと思います。ストレートに気持ちが伝わって来ませんでした。それに比べると、三田村さんは真っ正直で、どんどん私のハートに食い込んできました。それが私には嬉しかった。
 付き合って結婚して、現在まで、彼はまるで変っていません。ずっと、中学生の頃と同じように私を愛してくれています。私は幸せでした。こんなにも真剣に愛し続けてくれるような人に出会えて……」
 三田村の妻は棺のそばで泣き崩れ、三田村の遺体をやさしく撫でた。そんな三田村の妻に私は言った。
 「祈ってください。奥さん」
 三田村の妻は涙に濡れた瞳を私に向け驚いた。
 「えっ……」
 「祈るんです。この遺体に、三田村の魂が戻ってくるように。あなたでなければできないことです。三田村の魂が悪霊になる前に、この遺体に呼び寄せるのです。ご主人のあなたへの真っ直ぐな愛を、もう一度、真摯に受け止めて、この体に返してあげてください」
 三田村の妻は遺体を見つめて、必死になって祈った。
 「あなた、戻って来て……。私のそばに帰って来て」
 ありったけの愛をその華奢な体に込めて、三田村の妻は祈り続けた――。
 
 昏睡状態だった刈谷は、その後、医師の懸命な治療もあって意識を取戻し、目を覚ました。医師は刈谷の妻に、
 「もう大丈夫ですよ」
 と告げたが、刈谷の妻は素直に喜ぶことができず、その言葉を複雑な思いで聞いていた。もし、刈谷が刈谷でなかったらどうしよう、その思いが心の中に強くあったからだ。
 それは彼を心配して集まった人たちも同様だった。
 集中治療室から一般病棟へ運ばれた刈谷は、混濁した状態から脱し、正常な意識を回復していた。刈谷の妻と子供がベッドに駆け寄ると、彼はじっと妻の顔を見つめ、包帯だらけの手を差し伸べた。刈谷の妻を見る目が愛情に満ちていた。それを見て、刈谷の妻は安堵し、弱々しい彼の手を強く握りしめた。
 一週間後、私は三田村の家を訪ねた。梅田から阪急電車に乗って池田駅まで行き、池田駅で下車して東に向かって十数分歩いた場所に三田村の家があった。
 事前に連絡をしていたので、三田村の妻、あゆみはお茶の用意をして私を待っていてくれていた。
 三田村の死のショックからまだ抜けきれないのだろう、あゆみは青ざめた顔で私を迎え、応接間に通した。
 「刈谷さんは意識を回復し、危険な状態から脱することができました」
 と報告をすると、あゆみは顔をほころばせ、「よかった」と安堵の言葉を吐いた。
 「三田村の憑依した霊は完全に刈谷さんから抜け出たわけですか?」
 あゆみの質問に、私はすぐには答えられなかった。刈谷の様子をはっきりと見たわけではなかったし、刈谷の妻から聞いただけのものであったからだ。
 「刈谷さんの奥さんの話では、話していてもおかしなところはまったくないし、記憶も正確だと言っていました。もう大丈夫でしょう。すべてあなたのおかげです」
 三田村の妻は、私の話に相槌を打ちながら、不安げな表情を浮かべた。
 「どうかしましたか?」
 私が聞くと、
 「実は……」
 とあゆみは口ごもるようにして言い、やがて、しっかりした口調で私に話した。
 「葬儀を終えて、三日後のことです。夢を見ました。三田村が夢の中に現れて、私に言うのです。『ずっとお前を守り続けるから』と。三田村は、中学生の頃から、変わらず私を愛してくれた人で、口癖が『ずっときみを守り続ける』でした。彼は、まっすぐな人で、いつも真正面から私を愛してくれた人でした。だから、私はそんな夢を見たのだと、その時は気にしませんでした。でも――」
 「……」
 「でも、翌日の深夜のことです。再び三田村が夢の中に現れて、私に言うのです。『困ったことが起きたら刈谷に連絡しろ』と。なぜ、刈谷さんに? 聞こうとしましたが、そこで夢から目を覚ましました。たかが夢だと笑われるかも知れませんが、私はその時、ふと、三田村の魂が完全に刈谷さんから抜けきっていないのでは、そんな感想を持ちました」
 「刈谷に連絡しろ――、ですか? 夢とはいえ、気になりますね」
 私は、三田村の妻あゆみに、刈谷の入院先へ行って、確認してきますと言い置いて、三田村の家を辞した。
 仕事が立て込んでいたこともあって、刈谷の意識が回復してからは病院に顔を出していなかった。ちょうどいい機会だと思い、池田駅から電車に乗って梅田まで行き、刈谷の入院先の病院に向かった。
 刈谷が入院するK病院は阪急梅田駅から15分ほど歩いた場所にある、総合病院で、刈谷はその病院の八階に入院していた。
 四人部屋の一番奥、窓際のベッドに刈谷が眠っていた。私が訪問すると、刈谷の妻は恐縮して、
「 お忙しいところを申し訳ありません。お礼にお伺いしようと思いながら、主人がこんな状態なものですから」
 と何度も頭を下げて謝った。
 「気にしないでください。今日は、ご主人の様子を見に伺いました。どうですか? その後、ご主人の様子は?」
 刈谷の妻は、顔をほころばせて私に言った。
 「おかげさまで順調です。この分だと、今月中には退院できそうです。当分の間、仕事はできそうもありませんけど、命が無事だったことを思えば安いものです」
 明るい口調に私は安心した。この分だと、三田村の霊が完全に抜けきっていないのでは、といった危惧も徒労に終わりそうだと、胸を撫で下ろした。
眠っていた刈谷が目を覚まし、私を見た。
 「編集長、妻から話を聞きました。このたびはいろいろお世話になってありがとうございました」
 まだ充分ではない話しぶりだったが、意識はしっかりしているようで、この分なら大丈夫だろうと確信した。
 しばらくして刈谷の妻が、「買い物にいきますので――」と断って病室を離れたので、刈谷と二人きりになった。
 「今月中に退院できると奥さんに聞いたのだが、意外に早く退院が決まってよかったな」
 ベッドの傍らにある椅子に座り、刈谷に話すと、刈谷の様子が急に変わった。
 「あゆみの様子はどうだった?」
 声の質が刈谷とはまったく違う声質だったので、まるで気付かなかった。
 「あゆみの様子はどうだったと聞いているんだ!」
 驚いて刈谷を見ると、顔つきが別人のようになっている。声も刈谷の声と違っていた。
 「少しやつれていたが元気だった」
 と答えると、刈谷は、「そうか……」と呟いて、また眠った。
 眠る刈谷の顔を眺めながら不安が募った。だが、刈谷の妻は、四六時中彼のそばについて、何の変化も感じていない。
 きっと気のせいだ。そう思い直して病院を出た。空を見上げると快晴の空に白い雲が幾重にも浮かんでいた。
〈了〉

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