幸せな幽霊カップル

高瀬 甚太
 
 唐沢忠明が井森公平の事務所にやって来たのは1時間前のことだった。井森が仕事を終えて事務所を出ようとしたところに突然、彼がやって来て、青ざめた顔で「話を聞いてくれ」と言ったのだ。
 尋常ではない彼の様子に同情して、井森は話を聞くことにした。恐怖のためか、彼はブルブルと体を震わせながら訥々と井森に語り始めた。
 
 ――おれはいつものように仕事を終えて、立ち飲みの店で一杯やっていた。店が混雑していたので、飲み足りなかったが店を出た。もう少し飲みたいと思ったおれは、少し離れた場所にある、居酒屋に向かって歩いた。路地を歩いて、少し広い道に差しかかった時のことだ。突然、背後から呼び止められた。その声に驚いて振り返ると、女性が立っていた。年の頃なら三十代後半、和服を綺麗に着こなした、何とも形容しがたい美人だった。
 「何か……?」
 おれが聞くと、女性は、
 「すみません。少しお尋ねしたいのですが……」と言う。
 「この辺りに『白葡萄』というお店があると聞いたのですが、ご存知ありませんか?」
 「白葡萄……ですか?」
 考えたが心当たりがなかったので、
 「さあ、存じ上げませんが」
 と答えた。すると女性は、
 「洋食のお店らしいのですが」
 と再び聞いてきた。
 よほど困っているのだな、と思ったおれは、
 「住所はご存知ですか?」と聞いてみた。
 「住所はわからないのですが、市場からほど近い場所にあると聞きました」
 女性が市場を目当てにここまでやって来たことはよくわかった。確かに市場がこの近くにあった。それだけわかっているのだったらすぐに見つかるだろう。そう思ったおれは、
 「じゃあ、一緒に探しましょう」
 と言って、恐縮する女性と共に市場周辺を探して歩いた。
 市場の周辺には意外と店が多かった。だが、「白葡萄」という名前の店は見つからなかった。それでも、あきらめずに探した。白葡萄、白葡萄――、呪文のように唱えながら市場周辺を歩いた。
 「困ったわ……」
 女性が困ったような素振りをみせた。
 「そのお店に行かないと不都合なことでもあるのですか?」
 心配になったおれは聞いた。すると女性は、「ええ……」と俯いて黙った。
 「この辺りは、小さな店が混在しているから、もっとしっかり探せば、きっと見つかりますよ。そうだ。電話局で聞いてみましょうか?」
 励ますように言うと、女性は「はい」と言って笑顔を見せた。その笑顔がまた可愛いくて、おれはすぐさま104へ電話をかけ、住所と店の名前を言って探してもらうよう尋ねた。
 ――そのお名前ではご登録がありません。
 その答えを聞きながら、おれは彼女に、
 「その名前では電話番号の登録をしていないようですね」
 と伝えた。彼女はひどくがっかりした様子で、「そうですか……」と肩を落とした。
 彼女のがっかりした様子をみて、おれはいよいよ責任を感じ、近くのお店へ入って「白葡萄という洋食のお店ご存知ありませんか?」と聞いてみた。店主は首を振るばかりで、それはどの店も同様だった。
 通りすがりの人にも尋ねてみた。やはり知っている人は誰もいなかった。
いよいよ駄目かとあきらめかけた頃、通りかかった一人の熟年男性が、
 「白葡萄? もしかしたらホワイトグレープという店のことではないですか?」
 と教えてくれた。
 その男性によれば、ずっと以前は「白葡萄」という名前でやっていたが、経営者が代わって、店の料理も大幅に変わり、その時から店の呼称が変わったという。
 人の良さそうなその男性は、「この道をもう少し歩いて……」とおれたちに道順を説明してくれた。
 「どうやら、店の名前が変わっていたようですね。電話局で尋ねても、誰に尋ねてもわからなかったわけだ。経営者が変わったと言いますから、もしかしたらお尋ねの人と違っているかもしれませんが、一度、行ってみますか?」
 女性は、「はい、行ってみます」と応え、熟年の男性が教えてくれた道順に添って歩き始めた。
 「店の前までご一緒します」
 この場所からそう遠くない場所だったので、わかるとは思ったが、一応、おれも店の前まで一緒に行くことにした。
 市場の東側、少し入り組んだ場所に、「ホワイトグレープ」の看板があった。
 店舗はそう大きいわけではなく、カウンターだけの、十人ほどの人が入れるかどうかといった程度の店だった。だが、表から見る店の構えは、本格的な洋食の店を思わせる造りで、何となく入ってみたくなるような、そんな雰囲気を醸し出していた。
 「では、私はこれで失礼します」
 店の前まで来たところで、女性に別れを告げようとした。すると女性は、
 「もし、時間がおありでしたら、ご一緒にお食事などいかがですか? お礼をさせてください」と言う。
 時間を急ぐわけでもなかったし、彼女と話したい気持ちもあったおれは一瞬ためらった後、「それではお言葉に甘えて――」と言って、一緒に店の中へ入った。
 カウンターには三人ほどの客がいて、店のオーナーと思えるシェフがカウンターの中で料理を作っていた。昔の洋食店といった感じの店内は、目新しい装飾こそなかったが、落ち着いたヨーロッパ調の雰囲気で、カウンターに座ると心が和んだ。
 女性は店内を懐かしそうに見回すと、オーダーを聞きに来たシェフに尋ねた。
 「大塚雅彦さんをご存知ですか?」
 シェフは一瞬、驚いたような顔を見せ、
 「はい、大塚さんは私の師匠ですが、あなたは?」
 と女性に尋ねた。
 「そうですか。あなたは大塚さんのお弟子さんなのですか?」
 女性は三十代後半と思えるそのシェフを見て感慨深そうに言った。
 「大塚さんは、三年前に亡くなりましたので、私がその後を継いでこの店をやっています。ただ、師匠のような味をまだ出せませんから、店の名前を継ぐわけにもいかず、店名を『ホワイトグレープ』としました」
 「大塚さんは亡くなられたのですか……!」
 女性は驚いたように声を上げた。
 「はい。六二歳でした。脳梗塞で倒れて――、病院へ運ばれた時はもう手遅れでした」
 「そうですか……」
 女性はすっかり気落ちし、うつろな眼差しで厨房を見た。心なしかその顔色がおれには青白い炎のように見えた。
 「失礼ですが、大塚とはどのような関係ですか?」
 シェフが女性に尋ねた。女性はカウンターに顔を伏せて呟くように言った。
 「命の恩人です。あの方がいなければ、私は――」
 それを見たシェフがハッとした表情を見せ、
 「間違っていましたらお許しください。もしかしたら鹿田様ではありませんか?」
 と聞いた。
 女性は顔を上げ、シェフを見た。
 「はい、そうです。鹿田です」
 シェフは驚いたような表情を崩さず、鹿田と呼ばれた女性をしばらく眺めた。
 「鹿田さん……ですか? 大塚が生前、よくあなたのお話をしていました。自分の料理を愛してくれるとても素敵な方だと。でも、私はもっと年齢のいかれた方だと思っていました。お若いので本当に驚きました」
 「それは母なんです。母は大塚さんの料理とお人柄が好きで、よく一人でこの店へやって来たようです。私は母に大塚さんのことをお聞きしていて、いつか大塚さんのお店にお邪魔したいとずっと思っていました」
 おれは、二人の会話にじっと聞き入っていた。話を聞いている間にボトルのワインが後、数杯で終わりというところまできた。
 「お母さんはご健在でいらっしゃいますか?」
 シェフが聞いた。
 「母は亡くなりました。亡くなってもう三年になります」
 シェフは少し驚いた顔をして鹿田を見た。
 「三年前……ですか?」
 「はい、そうです。三年前の五月十五日、私と一緒に道を歩いていて突然、倒れて意識不明になり、それっきりでした。父は早くに亡くなっていますから私はひとりぼっちになってしまい、寂しくて寂しくて、その頃は、毎日、死んでしまいたいと思い詰めたほどです。そんなある時、ホームで電車を待っていると、急にふらっと体が揺れて、自分でも気が付かないうちに電車に飛び込もうとしていたのです。そのあわやというところを救ってくださったのが大塚さんでした。私は、子どもの頃、一度だけ母と一緒に白葡萄という店に出掛けたことがあって、大塚さんの顔を覚えていましたから、すぐにわかりました。
 大塚さんは、私を助け起こした時、『死ぬなんてこと考えちゃ駄目だよ。お母さんが悲しむよ』と言ってくださって――。それ以来、ずっとこちらへ来たいと思いながら、海外へ仕事で出掛けたりしていたもので、一度もお寄りすることができませんでした」
 シェフは首を傾げながら鹿田に言った。
 「大塚があなたを助けたというのはいつのことですか?」
 「母が亡くなって一カ月後でしたから、確か六月中旬頃だったと思います」
 「――大塚が脳梗塞で亡くなったのが同じ年の五月十五日です。奇しくもあなたのお母さんと同じ日に亡くなっていることになります。ですから、六月中旬にあなたをお助けしたとなると、おかしいことになりますね」
 「でも、私、決して見間違いではなかったと思います。助けられた時、『大塚さん』とお名前を呼びましたら、『お母さんのためにも頑張って生きるんだよ』って言ってくださいましたから」
 「それは三年前に間違いないのですね」
 シェフは鹿田に確認するように言った。
 「間違いありません。母が亡くなって一カ月後のことでしたから」
 鹿田は確信を持って応えた。
 おれは二人の話を聞いていてゾッとしたね。大塚シェフが死んで一カ月後に鹿田は助けられたことになる。幽霊がいるなんて信じたくないけれど、二人の話を聞くと信じないわけにはいかないじゃないか。それで話は終わりかって? 終わりじゃないんだ。この後があるんだよ。
 ともかく、おれはそんな気分じゃなかったけれど、せっかくだからホワイトグレープで食事をしたよ。料理の味は悪くなかった。いや、よかったよ。すごくよかった。美味しかった。
 鹿田はよほどショックだったんだろうなあ。料理を食べながら時折、涙ぐむんだ。
 彼女は、自殺をするところを大塚に助けられ、その後、気持ちを入れ替えて舞踊の勉強をしたようだ。今では、三十人ほどの弟子を抱える舞踊家になっていると言っていた。
 食事を終えて、おれたちはシェフにお礼と別れを告げて店の外に出た。
駅に向かう道を二人で歩いていた時のことだ。鹿田がわっ……! と声を上げた。
 驚いて彼女を見ると、前方を指差している。その指さす方を見ると、二人の男女が肩を寄せ合って歩いているのが見えた。
 「どうかしたのかい?」
 彼女に訊くと、
 「母と大塚さんが歩いている……」
 と言うじゃないか。おれは思わず笑ったよ。幽霊に救われた話もそうだが、今回も単純な見間違いだと思ったからね。
 彼女は突っ立ったまま、二人の後ろ姿を見つめていたよ。おれは彼女に言ってやった。
 「気のせいだよ。そう思って見ていると何でも似てくるもんだ。よーく見てごらん。見間違いだって気付くから」
 それでも彼女は前方を行く二人の背中をじっと見つめたままぼんやりしていた。
 男性は六十代ぐらい、女性も同じような年頃だろう。二人は仲むつまじく肩を寄せ合って、手をつないで歩いていた。ほほえましいカップルだと思ったね。
 二人の背中を見つめていた彼女が、その時、突然、大声で叫んだ。
 「お母さん、大塚さーん」と。
 前方を歩いていた二人がその時、振り返ったんだ。笑顔でな。手を振って――。
 そして、消えたんだよ。目の前から突然。おれは、声が出なかった。何度も目をこすって、前方を見直した。決して気のせいなんかじゃないよ。確かにおれの目の前で消えたんだ。
 彼女は言ったよ。
 「母は大塚さんが大好きだったんです。多分、大塚さんもそうだったと思います。二人とも独り身だから遠慮なく付き合えばよかったのに、誰に遠慮をしたのか、お互いにそのことには触れずに、ずっと客とシェフの関係でいたみたい。今、二人の姿を見て、母の嬉しそうな顔を見て、私、とても嬉しかったわ。やっと二人は恋人同士になったんだ。そう思った――」
 二人が振り返った時の笑顔、おれは今でも忘れられないよ。彼女と駅で別れた後、おれ、無性にこのことを誰かに話したくなって、井森、おまえのところを訪ねたようなわけさ。
 信じるかい? 信じないだろうなあ。でもいいんだ。おまえに話したら、少し気持ちが落ち着いた。
 
 唐沢は、喋るだけ喋ると、部屋の中に薄気味悪さだけを残して事務所を出て行った。
 おかげで井森は今日も事務所に泊まるはめになった。「ホワイトグレープ」、おれも行ってみたいなあ、そう呟いて再び井森は仕事に取りかかった。
〈了〉

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