親方に乾杯!

高瀬 甚太

 その日、親方はひどく疲れた顔をしていた。いつもなら瓶ビールを三本ほど軽く空けるのにその日は一本すら満足に空けず、虚ろな目を天井に向けていた。表情も暗く顔色もよくなかった。えびす亭のマスターは、そんな親方を見て、病気やないやろか――。そう思ったが、口には出さなかった。
 えびす亭は立ち飲みの店である。平均客単価も千円前後と低かった。だが、客は多かった。朝、10時の開店を待って、客が押し寄せる。そのほとんどが常連だった。午後七時を過ぎた時間帯がピークで、店はひどく混雑する。あちこちで賑やかな話し声がして、厨房に次々とオーダーが舞い込む。
 マスターはあたふたと客の対応に追われ、いつしか親方のことを気に掛ける暇がなくなった。
 「なんや親方、今日は元気がないやないか」
 親方の隣に立った健ちゃんが、親方をひと目見るなりそう言った。
 親方は虚ろな表情を隠そうともせず、
 「今日は三隣亡やねん」
 と、力なくこぼした。
 「何が三隣亡やねんな」
 と問いかける健ちゃんに、親方は答えることなく、
 「ほな、マスター、お愛想して」
 と、伝票を差し出した。
 「親方、もうお帰りでっか?」
 伝票を手にした佳弘が心配そうに声をかけると、親方は、
 「今日は疲れた。また、明日来るわ」
 と力無い声で言って、金を払って外に出た。
 「親方どないしたんやろ。えらく元気がなかったなぁ、何かあったんやろか……」
 店員の菱やんが店から出て行く親方の背中を眺めて言った。豪快で元気だけが取り柄の親方にしては珍しい覇気のなさであった。
 親方は建築土木の仕事に携わっていて、年齢はとうに六五歳を超えているはずだが、そうは見えない若々しさがあった。午後五時過ぎになると、いつも汗をかきながらやって来て、午後8時過ぎまで店でとぐろを巻く。日に焼けた赤銅色の肌と頭に巻いた鉢巻がトレードマークで、客の間でも親方のファンは多かった。
 佳弘は親方から、
 「若い頃、浪花節が好きでなあ、一時は浪曲師を目指したことがあったんや」
 と聞いたことがあった。よく通る太い声にその名残が感じられた。酒はビールしか口にせず、酒の肴におでんを欠かさない親方は、えびす亭のおでんをことのほか気に入っていて、他の店ではあまり出していない鯨のコロと糸こんにゃくを好んで食べた。
 親方が店を出てしばらくして、おかまのお杉さんがやって来た。お杉さんと親方が仲のいいことを知っている佳弘が、親方が元気のなかったことを告げると、お杉さんはため息を漏らし、
 「今日、親方、仕事中、けが人を出してしまったのよね」
と言った。
 「けが人ですか?」
 佳弘が聞くと、お杉さんは、
 「そうよ……」
 と答え、白く細い指先で箸を器用に使って豆腐をすくい上げ、おちょぼ口を広げて口に入れた。
 「組立中の建物の橋桁から足を滑らせて――。働いている子が頭を強く打ったらしいの。すぐに救急車で病院に運んだようだけど、意識不明の重体で、予断を許さない状況だと言ってたわ」
 この店へ来るまで親方は病院に詰めていて、えびす亭で一杯呑んだ後、すぐにまた病院へ戻ったようだ。お杉さんは、事故のことを親方から電話で聞いたという。
 お杉さんは以前、おかまのバーを経営していて、親方はその店の常連客だったと、以前、佳弘は聞いたことがある。
 お杉さんが店を畳んでからも変わらず親方との付き合いが続いているようだ。お杉さんに聞けば親方のことは何でもわかると、客たちが言っていたが、まったくその通りで、佳弘もまた、この日、お杉さんから親方の情報を得ることができた。
 「親方、ああ見えて人一倍、社員を大事にしているからね。自分のせいで事故が起きたわけじゃないのにまるで自分のせいで事故が起きたかのように――」
 お杉さんは、そう言って瞼を閉じた。
 午後8時を過ぎると店内は少し空いてくる。この時間になると客の大半を常連が占めるようになり、たまに一見客がやって来ると、常連客同士の会話について行けず、最初のうち戸惑のだが、30分も経たないうちに店の雰囲気に慣れ親しむようになる。それがこの店の特徴だった。
 お杉さんは二日に一度の割合で、7時頃に来店すると1時間ほど酒を呑んだ後、さっさと帰ってしまう。けれどもこの日は午後8時を過ぎても店にいて、ちびりちびり焼酎を呑んでいた。
 酒を呑みながら、お杉さんはしきりにバッグに入れた携帯電話を気にしていた。
 「親方からまだ電話がないわ」
 携帯を確かめながらお杉さんがひとりごとのように言う。
 「親方から連絡が入ることになっているんですか?」
 佳弘が尋ねると、お杉さんは、
 「約束しているわけじゃないけど、入院している人の経過がわかったら、真っ先に連絡してくると思うの。それがまだないところをみると、もしかしたら――」
 と時間を気にしながら言う。
 佳弘は、親方とお杉さんがなぜ仲がいいのか、ずっと理解できずにいた。荒っぽくて男らしい親方と男でありながら、心は女性のおす杉ぎさん。二人がなぜ懇意にしているのか、佳弘だけでなく、わけがわからないという客が大半だった。お杉さんは決して美人のおかまではない。ごつごつとした顔を見ると、おかまだということが冗談のように思えるし、服装も同様に女性的な服装をしているわけではない。さすがに恋愛ではないだろうと思うのだが、どこか気脈の通じるところがあるのだろう。二人は実に仲がよかった。
携帯の着信音が店内に鳴り響いた。店内での電話は禁止しているが、この時だけは、佳弘も咎めなかった。
 「あっ、親方から電話があったわ」
 お杉さんは飛び上がるようにして携帯を耳に押し当てた。
お杉さんの声に、客たちの視線が集まった。
 「ええ、まだえびす亭にいるわよ。うん、待ってる。よかったね」
お杉さんはそれだけ言って携帯を閉じ、ゆっくりとバッグに仕舞った。
客の一人が、お杉さんに尋ねた。
 「どうだったんですか? 親方からの電話だったんでしょ」
 すると、お杉さんはニッコリ笑みを浮かべて、
 「大丈夫だったみたいよ。意識が回復して、どうやら後遺症も残らないようだと言ってたわ。私がえびす亭にいると言ったら、すぐに行くから待っててくれって」
 と満面の笑みを浮かべて言った。
 佳弘が安堵の表情を浮かべると、客の多くも以心伝心で胸をなでおろした。
 「マスター、ビールもう一本」
 店にいる客の多くが声を合わせるようにしてビールを追加した。みんな、親方が来るのを待つつもりでいる。
 30分ほどして親方がやって来た。
 先程とは打って変わって明るい表情の親方は、店に入るなり、鉢巻をきりりと締め直し、
 「マスター、ビール!」
 と店全体に響くような大きな声で言った。それを見た客の一人、明美さんが、
 「親方、よかったですね」
 と、声をかける。それに倣うようにしてカウンターのあちこちから、
 「おめでとうございます」
 と一斉にコップが掲げられた。それを見た親方は、よほどうれしかったのだろう、顔をくしゃくしゃにして、
 「マスター、みんなにビールを!」
 と佳弘に向かって言った。
 佳弘は次々と瓶ビールの栓を抜き、カウンターにいた客、それぞれの前にビール瓶を置いていった。
 「おおきに、親方!」
 三〇人ほどいる客のすべてに大瓶のビールが配られ、全員が声を揃えて親方に言った。
 親方とお杉さんは並んで立ち、ほとんど言葉を交わすことなく酒を呑んだ。
 言葉がなくても心が通じ合う。そんな様子が二人から窺われた。そしてそれは、客の一人ひとりにも言えた。誰もが親方の仕事場での事故を知っていて、誰もが無事を祈っていた。一つの生命が助かったのだ、こんなに嬉しいことはない。
 「親方、お杉さん、ずいぶん心配していたわよ」
 明美さんが親方に向かって、からかうように言うと、お杉さんは慌ててそれを否定しようとする。
 「明美、あんた、なんてことを言うの。私は、親方の仕事場で怪我をした男の子の無事を祈っていただけよ」
 一駅向こうの駅近くで喫茶店を営む明美さんは、わざわざ電車に乗ってえびす亭にやって来る。明るくて誰に対しても親切な明美さんは、年は四〇代後半だが、えびす亭に集まる中年男性のアイドル的存在でもあった。
 「でも、親方のことはもっと気になっていたでしょ」
 明美がダメ押しをするかのようにお杉さんに言うと、お杉さんはもう抵抗しない。
 「そりゃあ、心配してたわよ。親方の落ち込みようときたらそれはもう見ておれないぐらいだったから――」
 親方は何も言わないでひたすらビールを呑み続けている。
 「お杉さんに焼酎を一杯!」
 明美さんの隣に立っていた柏木さんが佳弘に言う。すると、他の客からも次々と同じ言葉が飛ぶ。お杉さんの目の前のカウンターはたちまち焼酎で満杯になった。いくつものグラスがカウンターに並べられ、お杉さんは、次々とそのグラスを空にした。
 その夜、親方とお杉さんは閉店近くまで二人で呑み明かした。
「マスター、やっぱり酒は嬉しい時に呑まないと、いい酔い方ができないなあ」
 勘定を払いながら、親方が佳弘に向かってぽつりと言った。
 「そうですね。そうだと思います」
 マスターが同調すると、親方とお杉さんが笑みを浮かべ、二人しておぼつかない足取りで店を出て行った。
 その後ろ姿を見送りながら、鉄工所で働く、親方と同年代の岸がポツリと言った。
 「奥さんを亡くした時以来やな。悲しみと喜びの両方をこの店で味わったのは」
 「奥さんを亡くした?」
 佳弘が尋ねると、岸は、白髪頭を撫でながら、遠い昔を偲ぶようにして言った。
 「親方は奥さんを病気で亡くしたんや。通夜、葬式を終えて、この店へやって来た時の親方のなんとも言えない寂しげな表情を、わし、今でもよう忘れんわ」
 「あの時の親方は、ほんまひどい顔をしてたなあ」
 岸の話に合わせるようにして、つるっぱげの庄吉だんなが言った。
 庄吉だんなも岸や親方と同年代のように思えるが、二人とも正体不明の人なので何とも言えない。
 「わしらは何も言えず、じっと親方を見守っていたが、あの時、お杉さんだけは違った。励ますのでもなく、同情するでもなく、親方の隣に立って、ずっと肩を抱き、ひたすら一緒に酒を呑んでいた」
 その情景が目に浮かぶようだと、佳弘は思った。親方とお杉さんの間には、言葉では語り尽くせない本物の友情が存在しているように思えた。
 「親方には子供がいるのですか?」
 佳弘が岸に尋ねると、岸より先に庄吉だんなが答えた。
 「子どもは娘が二人で息子が一人や。みな成人して、それぞれ所帯を持っている。娘二人は、親方に、仕事をやめて一緒に住もうと言っているようだが、親方にはその気がまるでないようや。一人でいる方がいいし、仕事も当分やめる気がないと言っている」
 庄吉だんなは、それだけ言うと、佳弘に向かって、
 「ほな、わし、帰るわ」
 と言い、金を清算して店を出た。庄吉だんなが店を出るのをみた岸が、
 「わしもお勘定」
 と言って店を出て行く。閉店間際のえびす亭は、そうやってだんだん寂しくなって行く。
 日付が変わる頃、ようやく客が出て行き、やがて、えびす亭は佳弘と従業員だけになる。
 「マスター、お先失礼します」
 台湾育ちのモンちゃんが、終電車に乗り遅れまいと、あわてて店を飛び出して行く。残った菱やんと晋ちゃんに手伝ってもらって店の掃除をし、すべてが終わると午前1時を過ぎる。菱やんは自転車で、晋ちゃんはオートバイで帰宅の途に就き、佳弘もまた駐車場に向かい、車に乗って帰る。
 佳弘が帰る時間になっても、この街の喧騒はさほど変わらない。相変わらず酔客が道路をよたよたと歩き、水商売風の女性が派手なドレスで道を闊歩する。
 佳弘の自宅まで車で10分ほどの距離だ。あっと言う間に到着する。
 「おかえり」
 と、いつものように母が出迎える。
 「父さんは?」
 と、いつものように佳弘が聞く。
 「もう寝ちゃったわよ。ついさっきまでお前を待っていたけどね」
 それもまた、いつもと変わりない母の言葉だ。
 父は、一日のほとんどを寝て過ごす。体調が芳しくないこともあるが、眠ることが健康につながると信じているようなところもある。
 風呂に入り、佳宏は一人静かにビールを呑む。
 ――酒は嬉しい時に呑まないとおいしくない。
 親方の言葉がふと脳裏を過った。
 佳弘はグラスの中のビールを一気に呷った。
 ――おいしい!
 佳弘は心の中で叫んだ。親方のこと、お杉さんのこと、明美さん、岸、庄吉旦那――、みんなの顔が思い浮かんだ。さまざまな客の人生を思い浮かべると、酒の味が一層豊かになる。佳弘の夜は、こうして静かに更けて行くのだ。
〈了〉
 
 


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