偽りの日記に真実の愛が

高瀬甚太

 一週間に一度の割合で、私は酒房「天平」を訪れる。「天平」は、大阪市北区天神橋筋五丁目の商店街から少し離れた場所にある日本酒と地酒が売りの店だ。
 酒の数は揃っているのだが、酒の肴は簡単なものしかなかった。立ち飲みの店にしては珍しく、お洒落な雰囲気だったので女性客にも人気が高かった。七、八人も入ると一杯になってしまう小さな店ということもあり、長く滞在するわけにはいかず、いつも私は、吟醸酒を一杯呑み、湯豆腐を食べた後、勘定を払って店を出ることを常としていた。
 そんなある日のことだ。いつものように「天平」を訪れた私は、店を出ようとしたところで背後から不意に声をかけられた。
 「井森編集長ではございませんか……」
 振り返ると、見知らぬ中年の女性がそこにいた。
 「井森編集長ですよね?」
 とその女性は、再び確認するように私に聞いた。
 「はい、井森ですが――」
 自分の名前を知っているところから考えて、どこかで会ったことがある人かなと思い、
 「どこかでお会いしていますか?」
 と聞いた。
 「いいえ、お会いするのは初めてです」
 と女性は答えた。
 ダークブルーのスーツを身にまとった女性は、
 「大家里佳子と申します。はじめまして」
 と改めて私に挨拶をした。
 「井森編集長にお会いするのは今日が初めてですが、お名前は存じ上げておりました。突然、でまことに申し訳ありませんが少しお時間いただきたいのですが――」
 大家里佳子の申し出を承諾した私は、店を出て商店街に入り、この商店街に旧くからある喫茶店「明日葉」に入った。昭和の面影を色濃く残すその喫茶店に入ると、彼女は、
 「まだ、こんな店が残っているんですね」
 と声を上げて驚いた。
 テーブルに座ると、年老いたウエイトレスがお盆を片手にやって来た。老夫婦でこの店を切り盛りしているのだろう、亭主らしき老人がカウンターの中にいた。
 「実は毎週、この日のこの時間にあの店に編集長がいらっしゃるとお聞きしていまして、ずっとお待ちしていたのですよ」
 と言うので不思議に思い尋ねた。
 「私に何かご用でもあったのですか?」
 と聞くと、彼女は、意外な言葉を口にした。
 「編集長は大家理沙をご存じですよね」
 「大家理沙――?」
 「遠い昔のことですからお忘れになっているかも知れませんね。大家理沙は私の叔母で、編集長とは大学で同期だったと聞いています」
 大学の同期と聞いて思い出した。理沙は明るくて元気で活発な女の子だった。
 「ああ、わかりました。申し訳ございません。理沙ちゃんのことですね。思い出しました。理沙ちゃんとは大学のサークルでご一緒した仲です。お元気にしていらっしゃいますか?」
 と、当時を思い出し、弾んだ声で尋ねると、彼女は声を沈ませて、
 「叔母は最近、亡くなりました」
 と答え、その瞬間、表情が一変し、黒い瞳で、まるで私を射抜くかのように凝視した。
 「亡くなった……!? どうしてまた?」
 大学時代、溌剌として元気だった理沙の姿しか思い浮かばなかった私は驚いて尋ねた。
 「叔母の直接の死因は肺がんですが、その元凶になったのは井森編集長、あなたの不誠実さです」
 大家里佳子の厳しい口調に驚いて、私は思わず、
 「えっ……」と声にならない声をあげた。
 「私の不誠実さ? しかし、私は卒業以来、彼女に一度もお会いしていないのですよ」
 「いえ、そんなことはないと思います。あなたは叔母と頻繁に会ってらっしゃいました。叔母の日記にそのことが記されていました」
 「日記に私の名前がですか?」
 「そうです。叔母は亡くなった時、1冊の日記を残していました。その日記の中に頻繁にあなたの名前が登場します。言い逃れをしても無駄です。叔母はその日記の中であなたと結婚する約束をしていたと記し、一週間に一度、あなたとお会いして楽しい一夜を過ごしたとも書いています」
 「でも、私は理沙ちゃんとは卒業してから一度間もお会いしていませんし、学生時代も特別な交際はしていません。単なる友人としての付き合いはありましたが、それ以上のものはありませんでした」
 「では、なぜ、叔母の日記にあなたの名前が頻繁に出てくるのですか?」
 「その日記ですが、間違いなく井森となっていましたか?」
 「間違いありません。名前を確認して、こちらへやってきたわけですから」
 「おかしいですね。よければ一度、その日記を見せていただくことはできませんか?」
 大家里佳子は、立腹した様子で立ち上がった。
 「どこまでも言い逃れをするわけですね。見損ないましたわ。では、明日、その日記をお持ちします。それを見たらこれ以上の言い逃れはできなくなると思いますわ」
 と言い捨てて、彼女は席を立ち、店を出た。彼女の後姿を眺めながら、井森はただただ茫然と立ちつくしていた。大学時代の同期生である大家理沙、彼女の日記になぜ自分の名前が書かれているのか、信じがたいことだ。彼女とは卒業以来、ずっと会っていない。どのように考えても理解できなかった。
 その夜、学生時代の資料を紐解き、大家理沙の存在を確認したが、友だち程度の交際しかしておらず、卒業以来、一度も会っていないことが確認できた。
 翌日、午後1時、彼女から改めて連絡があり、同じ喫茶店で会うことになった。
 喫茶店に着くと、彼女はまだ来ていなかった。時間ちょうどになっても現れず、30分経った後、ようやく私の前に姿を現した。
 彼女は疲れた様子で私の前に座ると、日記を5冊、私の前にドンと置いた。
 「読ませていただいてよろしいですか?」
 彼女は頷き、厳しい視線で私を見た。その憤りのほどが直に伝わってくるような激しい視線であった。
 大学を卒業する前後から理沙の日記が始まっていた。確かに私の名前が記されている。だが、読んでいくうちに不可解な箇所がいくつか見受けられた。
 理沙は私と将来の約束をしたと日記に書き、関係を持った日時を正確に記していた。だが、私にはまったく覚えがなかった。
 あの頃の理沙のことを思い出してみた。学生時代、理沙には確か好きな男性がいたはずだ。誰だっただろうか。私でなかったことは確かだ。私は理沙と仲がよく、一緒に遊ぶことは多かったが、男女の関係はなかった。
 読み進むうちに意外な箇所が見つかった。『これほど好きでも、こんなに愛されてもあなたは遠い。あなたには妻がいる……』と日記の中に記されていた。
 大家里佳子を見つめて私は言った。
 「やはり、ここに出てくる井森という人物は私ではありませんね。別人です」
 「どうしてですか?」
 そのページを開いて見せた。
 「「ここを見てください。『あなたには妻がいる』と書かれています。もし、私のことなら私は一度も結婚していません。不思議だと思いませんか」
 大家里佳子の顔つきが急に変わった。
 その後も読んでいくうちに私とは明らかに異なる箇所がいくつか発見された。一つは職業が異なっており、一つは年齢が違っていた。それだけでも十分、私ではないことが明らかだった。
 「では、なぜ、叔母はあなたの名前を――?」
 「多分、理沙ちゃんは道ならぬ恋をしていたのだと思います。それで、もしものことを考えて、名前を私の姓にしたのかも知れません」
 「この日記を読むと、叔母は大学時代から交際していたとなっています。それも普通の交際ではありません。二度ほど堕胎していますし、亡くなる直前まで付き合っていたようです。私は井森と書いておりましたから、てっきりあなただと思って、あなたの元へやってきました。早とちりして申し訳ありません」
 彼女はそう言って詫びた。
 「わかっていただけたらそれで結構です。ただ、私もこのままでは気が収まりません。理沙ちゃんの相手が誰であるか、調査をしてみたいと思います。相手がわかればあなたに連絡をいたしますので、それまでこの日記をお借りします」
 彼女は、安堵の吐息を漏らし、大きく頷いた。
 「わかりました。叔母の供養のためにもぜひ見つけてください。よろしくお願いします」
 丁寧な言葉を残して彼女は喫茶店を後にした。
 大家里佳子と別れた私は、早速、当時、理沙が誰と付き合っていたかを探ることにした。
 大学時代のサークル仲間で消息のわかる者に片っ端から連絡をした。しかし、ほとんどの者が理沙のことはよく覚えていたが、交際相手については知っていなかった。ただ、その中の一人が、サークルとは関係のない人物だったが理沙が仲よくしていた同期の女性がいたことを覚えていた。その女性の名前が平田綾子であるということだけはわかったが、それ以上のことは判然としなかった。誰にも秘密にしていたとは言うものの、必ず誰か一人には真実を打ち明けていたに違いない。そう思った私はそれが平田綾子ではないかと推測した。
 大家里佳子に電話をして、理沙の通夜、葬儀に出席した人の名簿はないかと尋ねてみた。案の定、大家里佳子は手元にそれを大切に保存していた。私はその名簿の中に平田綾子という名前がないかを尋ね、もしかしたら姓が変わっている可能性があるが、綾子という名前が見つかれば教えてほしいと伝えた。しばらく時間を置いて、「竹林綾子という名前がありました」と彼女は答えた。
 竹林綾子の住所を確認した私はその日のうちに彼女の家を訪問することにした。竹林綾子は大阪府高槻市に住んでいた。
 JR高槻駅で下車して、バスで10分、バス停を降りてすぐの場所に竹林綾子の家があった。時刻はすでに午後7時を過ぎていた。
 住宅街の道路に面した二階建ての家屋の前に立った私は、チャイムを鳴らして竹林綾子が出てくるのを待った。
 「はーい」という甲高い声がして、ドアが開き、竹林綾子が現れた。
 遅くに訪ねた非礼を詫び、自分の身分を明かした私は、早速ですが、と手短に要件を話した。
 竹林綾子は理沙が亡くなったことを知らなかった。そのことを話すと、嘆き悲しみ、理沙が学生時代から交際していた男性について、名前こそ知らないが、当時、大学の研究生だった人だと私に話した。
 理沙はその男性のことを時折それとなく、竹林綾子に話していたようだ。それによると、年齢は理沙より七歳上で、将来の教授を目指して頑張っていたという。当時、すでに既婚者で子供もいると話していたことがわかった。ただ、理沙はその男の名前は一切口にせず、秘密にしていた。竹林綾子もその人物の名前までは聞かされていなかった。理沙は、自分との不倫がばれて、その男の家庭や将来がだめになってしまうことを危惧したようだ。
 竹林綾子によれば、理沙は卒業してからもずっとその人と付き合っていたという。彼はその後、教授になり、メディアにも時折登場するほどの有名人なっていると、理沙が嬉しそうに語っていたことを竹林綾子は懐かしく、また悲しげな表情で私に伝えた。
 その話を聞いて、ある程度、理沙の交際相手の輪郭が見えてきた。竹林綾子にお礼を述べて外に出ると、タイミングよくJR高槻駅行きのバスがやって来た。

 調査の結果、条件に見合う人物が二人いた。二人とも当時、大学の研究生で、年齢が二九歳と三十歳、どちらも既婚者で、すでに子供がいた。現在は二人とも、大学こそ違っていたが教授になっている。
 一人は相場正志と言い、もう一人は馬場明人と言った。このうち相場は頻繁にテレビに登場していたし、馬場にしても相場ほど頻繁ではなかったが、テレビに顔を出すことは少なくなかった。
 私は、相場と馬場、双方の教授にコンタクトを取った。
 出版社の編集長からのコンタクトということもあり、二人とも特別に警戒する様子はなかった。私はまず、相場に会った。相場はG大の教授として活躍している。
 「出版社の編集長がどんなご用ですかね?」
 顔を合わせるなり、相場が尋ねた。訪ねてきた理由を明確に伝えていなかったので少し警戒しているようにも見えた。
 「先生はK大学の研究員でいらっしゃったことがありましたよね。その時のことをお伺いしたいのですが」
 予め録音することを伝え、小型のレコーダーをテーブルに置くと、相場は表情を変えずに言った。
 「わりに長い期間、研究員をしていました。あの大学はとても勉強のしやすい大学でしてね。私の恩師であるJ教授にはずいぶんお世話になりました」
 「その頃のことで記憶に残っていることはありませんか?」
「その頃の記憶ですか……。そうですねえ」
 相場は、白髪の目立つ知的な風貌の男だった。涼しい目元と一本筋が通った鼻筋に、若い頃、美男子だっただろう面影が色濃く残っていた。
 「相場教授は若い頃、ずいぶんおモテになってことでしょうねえ」
 女性関係に話を振ろうとすると、
 「いえ、いえ、そんなことはありませんよ」
 と相場は即座に否定した。
 「ちなみに奥さんとは学生結婚でしたか?」
 「いえ、大学を卒業して二年目に結婚しました。妻の父もやはり教授をしていましてね。その紹介で見合いをして結婚しました。平凡なものですよ」
相場は笑って答えた。警戒がゆるんだそのタイミングを見計らって、
 「相場教授は大家という名前にご記憶はございませんか? 大家理沙という女性です」
 と聞いてみた。相場の反応をみたが、特別な変化は示さなかった。相場は逆に怪訝な顔で私に聞いた。
 「大家? その方がどうかしたのですか?」
 警戒されることを恐れた私はそれ以上、その話を続けることをしなかった。
 「いえ、なんでもありません。K大学の学生だった女性が当時、研究員だった先生の噂をしていたものですからお聞きしただけです」
 私はその後、あたりさわりのない質問をして、相場の元を去った。
次に私はY大学を訪ね、馬場教授に会うことにした。
 西宮にあるY大学を訪ね、取材と称して馬場教授に会った。馬場は、黒縁メガネの奥に覗く眼光が異様に鋭く、長身で痩身の男だった。少し大きめの白い研究着を着た馬場は私の質問に答えた。
 「K大学での思い出ですか? うーん、何も思い浮かばないですね」
 黒縁のメガネを時折上げ下げしながら、馬場は言葉を選ぶように慎重に応えた。
 「先生はご結婚するの、早かったのですよね」
 「ああ、学生結婚でしたからね」
 「子供さんはすぐにお生まれになったとお聞きしていますが――」
 「子供ができたから結婚したようなわけで……」
 馬場は私の質問に警戒心を抱き始めたようだ。言葉選びに慎重になっている。意味のない質問を繰り返した後、タイミングを見計らって、大家理沙の名前を出した。
 「大家理沙……ですか? 記憶にないですね。何しろあの頃はたくさんの生徒を相手にしていましたからね」
 馬場の口調に変化はなかった。顔色にも変化がなく動揺もみられない。その後、10分ほど適当な質問を繰り返した後、馬場の元を去った。
 相場と馬場、どちらが理沙の相手であるか、すぐには判断できなかった。
判断に迷った私は、大家里佳子に連絡をし、もう一度、日記を借用できないかと尋ねた。大家里佳子は、
 「わかりました。すぐにお届けします」
 と言って、その日の午後、私の元へ日記を持ってきた。
 大家里佳子は事務所に着くなり、二人の教授のどちらが理沙の相手なのか知りたがった。
 「二人と話したが、まだ結論は出ていない。二人とも警戒心が強くて、なかなか本心を明かしてくれません。それもあって、もう一度、理沙の日記を確認したいと思いました」
 「編集長、私に何かお手伝いすることはありませんか?」
 大家里佳子はいてもたってもいられないといった感じで、私に尋ねた。
 「それじゃ理沙の日記の確認作業を手伝ってもらおうか。理沙が恋人を語っている文面をもう一度確認してみたいんだ」
 「わかりました。お手伝いします」
 大家里佳子は元気よく答え、理沙の日記を机の上に広げた。
 「先日は、きみの疑いを晴らすためだけに読んだだけだからね。じっくり読めばきっと何かがわかるはずだ」
 どんなに秘密にしていても、自分のために書く日記だけには本音を書くはずだと私は信じていた。

 ――日記は大学を卒業する一か月前から始まっていた。それ以前からすでに交際は始まっていたらしく、日記には綿々と理沙の相手に対する思いが綴られていた。
 どこかに相手の特徴を記した文章はないか、それを確かめたかった。だが、理沙は慎重な女性だった。男性の名称をわざわざ井森の名前に変えていることからみても、できるだけ相手を特定できないように慎重に記している。
 しかし、どこかに必ずその男性を明示する箇所が出てくるはずだ。理沙の思いが深まれば深まるほど、それは鮮明に現れる。そんな確信を持って日記を読んだ。
 大家里佳子が「ハッ……!」と息を飲むように言葉を洩らした。
 「どうかしましたか?」
 私が尋ねると、大家里佳子は日記を指さし、
 「井森さん、この箇所みてください」
 とページを開いてその箇所を指さした。
 「これは……!」
 と私は声を上げ、その瞬間、理沙の相手が誰であるかを確信した。

 「罪には問えません。しかし、大家理沙があなたを信じ、あなたに尽くし、あなたを愛した気持ちを考えるとせめて彼女の霊前に詫びてほしい、私はそういう気持ちで一杯です」
 私は教授に自身の思いを伝えたが、教授は、
 「何をおっしゃっているのか、一向にわかりませんが――」
 と、一笑に付した。
 「そうですか――。では、この日記のこの文面をご覧ください」
 井森は教授の眼前に、理沙の日記を開いて見せた。
 「この日記がどうかしましたか? 申し訳ありませんが、私、忙しいのですよ。あなたの相手をしている暇はありません」
 教授は日記に目をやろうともせず立ち上がると、出て行くようにと牽制した。
 「あなたが読まないのであれば、私が読んで聞かせてあげます。なあに、短い文面です。すぐに終わりますから少しだけご辛抱ください」
 教授は不服そうな顔をして私森を睨みつける。私は構わず朗読した。
 「昨日、両親に見合いをするよう言われた。相手はT大学の准教授で、私より十歳上の人だということを『井森』に告げると、『井森』は露骨に嫌な顔をして私に言った。『見合いなんてやめておけ。おれが見合いをしてその後、どれだけ苦労しているか、もうちょっと待ってくれ。必ず結婚するから』。その時、あなたはそう言った。そんなあなたの言葉を信じて、私は見合いを断った――」
 「これが彼女の日記に書かれた文章です。ちなみにこの文章の中に登場する井森という名前は、彼女がもしもの時、あなたに迷惑をかけないようにと、学生時代、懇意にしていた私の名前を使ったものです。本当は相場さん、彼女はあなたの名前を書きたかったはずです」
 相場は肩を落として椅子に座り直すと、一つ大きなため息をついた。
 ――見合い。馬場は学生結婚で見合いをしていない。観念した相場は、呟くようにして訥々と井森に語った。
 「私だって本当は理沙と結婚をしたかった。彼女への私の思いは本物だったからね。だが、女房と別れたら私は教授になるための大切なバックボーンを失ってしまう。女房の父は元教授で、教育界に一大勢力を持つドンだ。せっかく上り詰め、ようやく手に入れた教授の椅子とメディアでの自分の地位、――私に捨てられるはずがなかった。理沙はやさしくてかわいい女だった。彼女ほどの女だったらいくらでも相手は見つかっただろう。だが、私は自分の地位や名誉に固執しながらも彼女を手放すことができず、自分のものにしておきたかった」
 自分勝手な言い分だと思ったが、相場の理沙に対する思いだけは伝わって来たような気がした。
 翌日、相場は人目を忍ぶようにして大家理沙の実家を訪ねた。
 「大家くんの大学時代の知人ですが、理沙さんが亡くなられたことをお聞きして、霊前にお詣りしたいと思ってやってきました」
 と告げると、理沙の家族は、「わざわざ恐れ入ります」と恐縮しながら、霊前に祈る相場を見守った。相場は位牌が飾られた仏壇の前に座ると、そのまま理沙の遺影を注視し、その笑顔を長い間見つめていた。
 相場は理沙の位牌を前にしてしばらく手を合わせていたが、そのうちたまらなくなったのだろう、声を上げて泣き始めた。
 家族は唖然とした表情で相場を見つめ、どうしたものかとおろおろした。相場の泣き声はさらに高くなり、しばらく止むことはなかった。
〈了〉

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