喧嘩するほど仲がいいなんて誰が言った
高瀬 甚太
「うるさい! ええ加減にせんかい。わしはお前のそういうしつこいところが大嫌いなんや」
高田裕彦、通称裕さんが声を上げる。
「しつこうて悪かったな。何でもはっきりしたい性分やねんからしようがないやろ」
負けじと松下健吾、通称健さんも声を上げた。
「酒は楽しく呑むもんや。根ほり葉ほり聞かれながら呑んでも全然おいしゅうない」
裕さんが苦虫を噛み潰した表情できっぱりと言う。
「勝手にせえや。人がせっかく良かれと思って聞いてやってんのに――」
と健さんがすねたような表情で返す。
「ああ、放っておいてくれ。お前と一緒に来たんが間違いやった」
二人の言い争いが続く。それを横目で眺めながらえびす亭の客たちは、またやってるな、と思って笑う。祐さんと健さんの二人の言い争いは、えびす亭の名物の一つになっている。まるで掛け合い漫才でもやっているかのように、息の合った掛け合いが続くのだ。
喧嘩をするから仲が悪いというわけではない。会えば喧嘩が絶えない二人だが、店にやって来る時も、店を出る時も、必ず二人一緒に入って来て、二人一緒に出る。
そんな二人を見て、不思議に思わない客はいなかった。あの二人、あんなに言い争いをするのに、なんでいつも一緒に呑んでいるのかと――。
この日もそうだ。初めのうちこそ和気藹々と呑んでいたのだが、酔いが回り始めると、健さんが祐さんに絡み始める。その絡み方が実にしつこい。そのうち、祐さんがぷいと横を向き、健さんの相手をしなくなる。あきらめた健さんが一人で酒を呑み始めると、裕さんがあわてて健さんに話しかける。すると、一人で呑んでいた健さんがニッコリ笑って応える。しばらく楽しそうに話しているのだが、再び喧嘩を始める。喧嘩といっても他愛のない口喧嘩だ。お互いを気遣いながら言い合っていることが傍目に見てもよくわかる。
――祐さんと健さんがいない時、客の一人、山本博さんがマスターに二人のことを尋ねたことがある。
「祐さんと健さん、あの二人、一体どうなっているんですかね。仲が良いのやら悪いのやら、まったくわかりません」
マスターは、客のことをあまり喋りたがらず、喋ることを良しとしないのだが、二人について聞かれると打って変わって饒舌になる。
「祐さんと健さんは幼い頃から、今まで、ずっと続いている無二の親友なんです。学校が変わろうが、住まいが変わろうが、結婚しようが別れようが、いい時、悪い時、ずっと一緒にやって来たようです。私もいろいろな人を知っていますが、あれほど仲の良い二人は見たことがありませんね」
祐さんと健さんは共に四五歳、立派な中年なのに、その二人が幼い頃から現在まで、ずっと仲がいいと聞いて、山本さんは不思議に思った。
「でも、二人はこの店でよく喧嘩をしていますよね」
マスターは笑って言った。
「喧嘩するほど仲がいいと言いますから」
友情というものの存在を、山本さんはあまり信じていないようだった。
「この年になっていつも思うのは、人間て孤独やなあ、ということです。所詮、人間は一人やないですか。いくら仲がいいといってもねえ――」
今年五九歳、来年定年を迎える山本さんは、寂しそうにひとりごちる。
「そうかも知れまへん。でも、そうやない場合かてあります。山本さん、思い出してください。あなたにはそういう人がいませんでしたか?」
マスターの言葉に、山本さんは少し考えた。考えて返事をした。
「そういえば、小学生の時、どこへ行くにもいつも一緒だった友だちがいました。家から出ると、帰るまで、私はその友だちとずっと一緒でした。楽しかったなあ――。細かなことは何も覚えてないのに、その友だちと一緒に見た夕焼けの色、公園の風景、海岸の磯の香り――。今でもはっきりと思い出せます」
「そのお友達はどうされたんですか?」
「家の事情で五年生の夏に引っ越しました。あの時、寂しくて寂しくて、泣きましたわ」
「その後、会われていないのですか?」
「ええ、引っ越し先の住所も聞いたし、電話番号も聞いたはずなんですが、そのまま疎遠になりました。それ以後、私は、一時的に友だちができても長続きせず、そのうち、誰もいなくなりました。来年、定年ですが、独りぼっちですよ」
達観したかのように言って、山本さんはハイボールをお代わりした。
「祐さんと健さんも、小学生時代、山本さんと同じように、どこへ行くにも一緒で本当に仲のいい友達だったと言っていました。しかし、あの二人も小学生の時、別れているんですよ」
「へえ、そうなんですか? 私の場合とよく似ていますね」
「山本さんだけじゃなくて、ほとんどの人にそういった経験があるんじゃないですか。ただ、違うのは、大阪と東京に別れても、二人は頻繁に手紙を交換し、電話をし合い、時には祐さんが東京の健さんに小遣いを貯めて会いに行ったり、健さんも同様に祐さんに会いに行ったりしています」
「すごいですね。信じられません。私も友だちと別れる時は泣きましたが、近くにいないとすぐに忘れてしまうものです。小学生の頃ってそうじゃないですかね」
「その通りだと思います。私もそうでしたから。ただ、彼らはそうではなかったんです。祐さんも健さんも、お互いを唯一無二の存在として、子供の頃から認め合っていたのだと思います」
「でも、東京と大阪に別れて、友情を育み続けるというのは、本当に大変なことだと思いますが……」
「一年や二年なら継続は可能でしょうが、それがずっと続くとなると難しいでしょう。どんなに愛し合った恋人同士でも難しいと思います」
マスターが感慨深げに言う。
「まさか、同性愛じゃないだろうし、二人の間に何があったんですかね?」
「同性愛ではありません。ただ、二人は子供の頃からお互いを必要としていたのでしょうね」
「子供の頃からお互いを必要とする間柄ってなんでしょうね」
マスターは少し考えて、
「お互いの家庭の状況が似通っていたこともその一因でしょうね。一度、不思議に思って二人に聞いたことがあるんですよ。どうして二人はそんなに長続きしているのかって。祐さんが言いました。自分の家庭は子供の頃から親父のDVがひどくて、母親と自分はよく親父に殴られていた。健の家庭は父親がいなくて母親だけで、その母親が男をよく連れ込んで、閉めだされることが多かった。親父に殴られて家を飛び出した自分と、母親に家を閉め出された健の二人は、公園や海岸、空き家の片隅で会い、腹を空かして二人っきりで過ごすことが多かった。慰め合い、励まし合っているうちに、お互いに、おれがこいつの力になってやる、そう思ったみたいで――。祐さんの母親が父親と別れて家を飛び出して東京へ逃げる時、祐さんも一緒につれて行った。二人は離れ離れになったけど、二人の互いに対する気持は変わらなかったようです。中学生になっても、高校生になっても付き合い続けた。そう言っていましたね」
「お互いに同情し合っていたのですかね」
「同情じゃないと思いますよ。同情というのはどちらかが優位に立っている関係ですからね。二人はそんな関係じゃなかったと思います。二人は本当の兄弟のように、家族のように思っていたんじゃありませんかね。その証拠に、二十歳の時、祐さんが交通事故で病院へ運ばれたことがあるんですが、その時、一番先に連絡してほしい相手として、母親の名前を書かずに、健さんの名前を書いています。健さんはそれを見て、感激したそうです。親よりも誰よりも、こいつはおれを頼りにしてくれている。――その時、健さんは逆のことを考えたそうです。もし、自分が事故に遭った場合はどうかと。やっぱり、祐さんの名前を真っ先に書くに違いない。そう思ったそうです」
「……」
「仕事を決める場合も、やめる時もお互いに、報告し、相談してきたと祐さんは話していました。お互いの結婚の時もそうで、健さんが、結婚をするつもりだと、祐さんに会わせた女性がいたそうですが、その女性と会った祐さんが、健さんに『やめた方がいいんじゃないか』と言ったようです。健さんは怒って、祐さんと喧嘩になったと言います。一カ月ほどそれが原因で遭わない日が続いたようですが、しばらくして健さんが祐さんに詫びの言葉を入れ、女と別れたと告げたそうです。健さんの相手の女性はひどい浪費家で、しかも男性関係にだらしのない人だったようです。祐さんに、やめた方がいいんじゃないかと言われたことを気にした健さんが、冷静な目で女性を観察してわかったと言います。その後、健さんは別の女性と結婚をするのですが、その時は、祐さんがもろ手を挙げて賛成してくれたと、健さんは喜んでいましたね。
祐さんが結婚をする時も、祐さんは自分の彼女を健さんに一番最初に合わせ、見てもらったと言います。健さんはその女性を見て、この女性なら、うちの女房とうまくやっていけそうだと、祐さんに話し、賛成したそうです」
いつになく饒舌なマスターの話を聞きながら、山本さんは、祐さんと健さん、二人の関係を羨ましく思ったようだ。
「私にもそういう友だちがいてくれたらなあ……」
老後のことを思ってのことか、山本さんは寂しそうにつぶやいてこの日、三杯目のハイボールを口にした。
「山本さん、友だちって作ろうと思っても作れるものじゃありませんよ。恋愛と一緒で、自分のことより相手のことを第一に考える、そういった気持ちがなければ、難しいんじゃないですかね」
マスターの言葉に山本さんは小さく頷き、もう一度、今度は大きく頭を振った。
「そうかもしれませんなあ。私、ずっと自分のことだけしか考えて来ませんでしたから……。女房に対してすらそうなのですから、反省せなあきません」
「山本さん、愛ですよ愛、周りの人に対しても奥さんやお子さんに対しても、本当の愛情がなければ、思いや心は伝わりません。祐さんと健さんは、この店へ来て、どんなに言い合いをし、喧嘩をしても、帰る時は、肩を組んで帰るでしょ。男として、友だちとして彼らは認め合い信じあい、愛し合っているんですよ。口先だけじゃない、本当の愛を相手に伝えなければ何も変わりませんよ」
山本さんは急にしんみりして、四杯目のハイボールを追加した。
天神祭の日、大阪中、ごった返しているというのに、えびす亭だけはいつもと変わらず、いつも以上の人が集まっている。
「今日は天神祭やねえんなあ」
誰かが口にすると、もう一人が、
「どおりで暑いわけや」
と、えびす亭の利かないクーラーを横目でにらむ。
そんなところへやって来たのが祐さんだ。だが、今日は健さんが一緒ではなかった。
「健さんは?」
マスターが聞くと、祐さんは顔をしかめて、
「交通事故に遭って救急車で運ばれよった」
と答える。
「交通事故? 大変ですがな。ついててやらなくて大丈夫ですか?」
祐さんは笑ってマスターに応えた。
「大したことおません。相手の方が心配なくらいや」
「どんな事故でした?」
祐さんよりマスターの方が心配している。
「バイクで走っていた健さんに、居眠り運転のタクシーが追突したんやわ。追突された健さんはそのまま宙に放り出されて、思い切り地面に叩き付けられ、きりきり舞い。そのまま病院へ救急車で運ばれた。ほんま、ドジなやつや」
「祐さん、それって大事故と違いまんのか?」
「おれもそう思って聞いた時はびっくりした。すぐに病院へ駆け付けたら、あいつ、病院の看護師を口説いてやがった」
「でも、後ろからおかま掘られて宙に放り出されて、地面に叩き付けられてきりきり舞い――。どう考えても大事故で重体や」
「誰でもそう思うわな。ところが、悪運が強いというか、嫌われ者世にはばかるというか、ピンピンしてますのや。おまけに看護師の前では、痛い、痛いって子供みたいな声を出して甘えてやがる。嫁に言うぞ! と脅したらやめましたけどな」
「ちょっと祐さん、健さんがピンピンしてるってどういうことでっか?」
マスターと祐さんの話を聞いていた別の客が驚いて祐さんに聞いた。
「医師の先生いわく、倒れ方がよかったのと、元々体が頑丈なのが幸いした、それでも、奇跡としか言いようがない。そない言いますのや」
「とろとろバイクを走らせているからあんな目に遭うんや。ほんまにドジで間抜けでどうしようもないやつや」
祐さんが冷たいビールを喉の奥に流し込むと、背後から突然、声がした。
「すんまへんなあ、ドジで間抜けで、男前で」
その声に驚いた祐さんが振り返ると、何と、手足を包帯でぐるぐる巻きにされた健さんがいた。
「ひゃっ、何やねんな。なんでそんな恰好までしてここへ来るねん」
健さんは、マスターに、
「祐さんより冷えたビール一本!」
とオーダーすると、祐さんを振り返って、
「あんたがこの店でおれの悪口いうていると思ったら、ろくろく病院で養生もでけへん。抜け出してきたんや」
と言い、冷えたビールを喉に流し込む。
「健さん、酒なんか呑んで大丈夫かいな?」
マスターが心配そうに聞いたが、健さんは平気だ。
「骨も頭も大丈夫やったけど、腕と脚が傷だらけや。せっかく美人の看護師に世話してもろうてたのに、こいつが邪魔しにきやがって」
そう言って空のグラスを祐さんに差し出した。
「何やねん、この空のグラスは?」
祐さんが聞くと、健さんは、
「看護師との仲を邪魔して悪かったんと思うんやったら、ここに冷えたビールを注げ! それで勘弁したる」
「悪いと思うてなかったらどないすんねん?」
「ぬるいビールでもええわ。注げ。それで許したる」
祐さんは、「よしわかった」と言って、マスターにビールをオーダーした。
「マスター、健さんに火傷するほど熱々のビールお願いしまっさ」
「祐、こらっ、お前、わしを殺す気か!」
「死なへん、死なへん。タクシーに追突されてもかすり傷しか負わないお前や、熱々のビールぐらいで死ぬかいな」
「憎たらしいやつやなあ、こいつ。よし、わかった。そんなこと言うんやったら、もうええわ」
「何がええねんな?」
「美人の看護師、紹介してやろうと思っていたけど、やめや」
「健さん、今、何て言うた?」
「美人でグラマーな看護師さん、紹介せえへん、と言うたんや」
「――マスター、健さんに冷え冷えのビール一本、お願いします!」
――二人の話は尽きない。二人の話に引き込まれて、えびす亭の客が大爆笑する。その輪の中に山本さんもいた。
山本さんは、先日、マスターから祐さんと健さんの話を聞いて思い至るところがあったようで、あれから家に帰っていろいろ考えたらしい。
それで思い付いたのが、小学生の頃、別れた友人に会うことだった。ずいぶん昔のことだが、別れる時、電話番号と住所を控えていた。捨てていなければ、どこかに保管しているはずだ。しかし、夜を徹して探し回ったけれど、見つけられなかった。あきらめかけた時、小学生の時、その友人と一緒に造った宝箱のことを思い出した。
「おい、押入れの中に入れていた菓子箱、知らんか?」
山本さんは奥さんに聞いた。
「菓子箱ってなんですの?」
「菓子箱の上に、『たからもの』って書いた箱や。押入れの一番奥にしまっておいたつもりやったけど見当たらへん」
「ああ……、あの汚い菓子箱かいな。あんまり汚いもんやから捨てました」
「捨てた? なんでや、わしに断りもなく、なんで捨てたんや」
必死になって奥さんに食ってかかる山本さんを見て、奥さんは笑った。
「あなたが、そんな風に感情をもろに表すのって珍しいですね。よっぽど、大切なもの、直してはったんですか?」
「その『たからばこ』は、小学五年生の時に別れた友人との思い出の品を集めた大切なもんなんや」
「そんな大切なもの、どうしてあんな場所に――」
「ずっと忘れていたんや。大切な友だちのことを」
「……そうですか。ちょっと待ってくださいね」
奥さんはそう言うと、自分の小物を集めた押入れを開けて、汚い箱を取り出すと、
「これ、違いますの?」
と聞いた。『たからばこ』と下手な文字で書かれた懐かしい箱が目の前に会った。
「なんでこれをお前が?」
奥さんは、山本さんに箱を手渡しながら言った。
「押入れを整理していて見つけた時、あなたの少年時代が目に浮かぶようで、私、嬉しかったのよ。こんな大切なもの、どうしてこんなところへ放っておくのだ、そう思って私が大切に保管しておいたの。いつか、あなたがこの箱の大切さに気付く日が来るのじゃないかと思って」
山本さんは、その時、妻の愛に触れた気がして胸が熱くなった。
「ありがとう」
結婚して以来、何度も言ってきた言葉だったが、その日のその言葉には、山本さんの思いのすべて、愛のすべてが詰まっていた。
箱を開けると、友人と一緒に過ごした日々の記憶がよみがえって来た。その頃、流行ったお菓子のシール、友人と一緒に描いたお互いの顔、メンコやおもちゃ、他愛もないものが箱の中に埋まっていた。そして、その箱の奥に、引っ越した友人から届いた手紙が大切に保管されていた。
友人は手紙をくれていたのだ。果たして自分は返信したのか、思い出そうとしたが思い出せなかった。
山本さんはその夜、その友だちに長い手紙を書いた。多分、その住所にはいないと思ったが、山本さんは出さずにおれなかった。
一週間後、手紙が届いた。多分、宛所にいなくて、返されてきたのだ、と思った山本さんだったが、自分の名前が書かれていたのを見て驚いた。ひっくり返すと――。
「真田孝司」
小学生時代の、五年生の時に別れた友だちの名前があった。驚きと感動がとめどなく押し寄せてきて、山本さんはその場に崩れ落ちた。
山本さんのところに送られてきた手紙には、『ずっと会いたいと思っていた』と書かれていた。
『お互いにいろんな事情が重なって、会えない時間が続いたけど、ぼくの友情は、小学生の頃からずっと続いている』
その一節を読んだ時、山本さんはいても立ってもいられない、そんな気持ちになったそうだ。
山本さんがマスターに、友人とのことを話したその一か月後、山本さんは、友人の真田を連れてえびす亭に現れた。奇しくもその時、えびす亭は、祐さんと健さんの喧嘩の真っ最中だった。
<了>
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