怪談・踊る事務所

高瀬甚太
 
 底冷えのする深夜のことだ。時刻は午前二時を少し回っていた。編集作業に追われていた武井宗平は、眠気を覚ますためにお湯を沸かし、コーヒーを飲もうとしていた。締切が近づき、忙しい最中であったが、社員の多くが終電直前に帰社しており、武井だけが居残って仕事をしていた。
都心の中の雑居ビルの一室である。この時間ともなると、昼間の喧騒が一気に遠ざかり、物音一つ聞こえてこない。
 編集という仕事柄、徹夜は珍しくなかった。つい一週間前にも武井はこの事務所内に泊まって仕事をしたばかりだ。その時も夜が明けるまでずっと編集室の中にいたが、取り立てて変わったことは起きなかった。
 パソコンで原稿を作り、それをコピー機でプリントアウトして確認する。ただ、それだけのことだったが、原稿作成に思いのほか時間がかかり、徹夜をする羽目になった。
 小学校六年間の思い出をつづった作文を募集し、優秀な作品を選んで本にするという企画はすでに他社で発刊されていて、二番煎じの感があったが、今回は肢体不自由児や難病を抱えた小学生児童に絞っているところに特徴があった。
 全国から集まった作文は全部で一千百五〇通あり、そのうち、一冊の本に掲載できるのはせいぜい四〇作品ほどだった。編集部全員でまず三〇〇通まで絞り込み、その中から担当者がさらに絞り込んで、一〇〇作品になったところで、審査員の先生方に見ていただき、四〇作品を選び出す。選び出された四〇作品を整理し、テキストデータとして入力し、文字の間違いなどの校正をする。校正し終わったそれをソフトに変換し、レイアウトしてさらに校正を行う。武井はその作業を一人で行っていた。
 小学生の肢体不自由児、難病を抱えた生徒の数は思いのほか多く、そんな子どもたちの書く体験記は、整理していて身につまされるものがあった。中でも武井が感動したのは、小学六年生まで、柔道を初めとするスポーツ全般をこなし、クラス、いや、全校生徒の人気者だった一人の少女の体験記だった。
 その少女は、ある日、突然、グラウンドを走っていて倒れ、そのまま意識を失って病院へ運び込まれた。
 病院で検査をした結果、その少女は、生まれつき心臓に異常を持っていたことがわかった。つまり、心臓が徐々に萎縮していき、ある時、突然、停止するという難病を持っていたのだ。小学生の子どもの場合、健診で心臓を診ることなど珍しく、そのため、その少女も少女の家族もこれまで気付いていなかった。
 また、委縮による自覚症状がまったくといっていいほどなく、少女は健康そのものだった。倒れるその瞬間まで、少女は元気にグラウンドを走り回っていた。
 病院に運ばれた少女は、意識を失ったまま集中治療室に入り、そこで医師の治療を受けた。
体験記は、そこに至るまでの経緯と、集中治療室での少女の体験を記していた。
 ――意識不明で倒れている少女が、どうして体験記を書くことができるのか、最初、武井や編集部の人間はみな、少女の家族の誰かが、少女の代わりに書いたものとばかり思っていた。だが、少女の家族はそのことを否定し、間違いなく少女が書いたと断言した。
 あり得ない話だった。信じられるわけがない。誰もがそう思っていた。だが、その作品が一次を通過したとき、編集部が家族に連絡をすると、家族は、少女が書いたことを実証する裏付けを編集部に提出した。
 「字体をみてください。その子の字体に似せて書くには相当な労力を要します。それと文体です。独特の言い回しがあるでしょ。読者に話しかけるかのように、したしみを感じさせる文体です。真似をして書こうとしてもむずかしい。そんな文体です。
 もう一つ、本文を読んでいただければわかりますが、本人でなければ書けない、そんな内容だと思いませんか。他の者が書こうにも、ここまでリアルに書くことはできません」
 確かに家族の言う通りだった。少女の作文は、内容的にも字体、文体、どれをとっても他の人間が書くことは難しいように思えた。しかし、意識を失い、生死の境にいる少女が作文を書けるはずもなく、誰が考えてもあり得ない話だったから編集部は混乱した。
 少女の手術体験のリアルさ、霊界をさ迷うさまがみごとに表現されたその文章を読んで、多くの編集部員は感動したが、掲載にあたっては反対意見も多かった。武井もその一人だった。武井は、少女の体験記に心から感動していたが、本人が書いていないことは明白なように思えた。だから、今回の規定に反するのではと編集会議で申し立てた。
 結果的に少女の作品は四〇作品の中にノミネートされなかった。審査員の先生方も武井の意見に賛同し、少女の体験記は最終選考の段階で外されたのである。
 少女の容態は日を追って深刻になっていった。死はいよいよ現実的なものとなり、担当医師は、少女の家族に「覚悟しておくように」と伝えるところまで来ていた。
 その時になって初めて武井は、少女のためにも掲載したほうが良かったのでは、と思うようになった。だが、時すでに遅しだった。制作は、印刷所に出稿する前段階まで来ていた。
 ポットのお湯が沸いた音を聞き、武井はドリップ式のコーヒーにお湯を入れ、カップをコーヒーで満たした。静かな室内を眺め見渡し、武井がコーヒーを飲もうとした、その瞬間のことだ。突然、コピー機がガタガタと音を立てて動き出し、プリントを開始した。
 武井は驚きのあまり目をしばたたかせ、コピー機を見つめた。ガタガタと鳴り続けるコピー機からプリントされた紙が排出されている。
 ファックスが送られてくるにしては時間が遅すぎた。カップをテーブルに置いて、武井はおそるおそるコピー機に近付いた。
 その瞬間、コピー機の音が一気に高まり、さらに数枚の紙が排出された。
手に取ってプリントされた紙を見ると、いたずら書きのような絵が描かれているだけだった。
 ――一体、だれがこんないたずらを。
 パパ、ママ、おうち、チューリップ――。子どもがクレパスで描いたような絵が、一枚、一枚の紙に描かれていた。
 全部で十二枚を排出して、コピー機が止まった。
 ファックスではないことは確かだった。コピー機を確認したが、勝手に動き出すなど考えられず、コピー機を丁寧に点検し、問題がないかどうかを確認した。だが、コピー機には何の不具合も見られなかった。
 では、だれが――。武井は周囲を見回した。シンと静まり返った事務所には、武井の他に誰も存在しない。
 コーヒーを飲み干し、気分を変えた武井はパソコンの前に座り直した。もう少しで終わりだ。その達成感が武井の心を高揚させていた。その瞬間、大型のコピー機から、突然、何の前触れもなく、用紙を入れたケースがいきなり飛び出て来た。
 あわてた武井は、仕事の手を止め、用紙のケースをコピー機の中に入れ直し、首をひねりながらゆっくりと周囲を見回した。用紙のケースが飛び出て来た理由がわからなかった。
 すると、今度は別の用紙ケースが飛び出て来た。再び入れ直すと、また別の用紙のケースが――。その格闘が数分間続いた。
 疲れ切った武井が、ため息をついてパソコンの椅子に座り、ひと息ついたときだった。パソコンの画面が急に乱れ始めた。どうしたのかと思い、焦った武井がパソコンを操作していると、突如、画面一杯に大きな紅いベロを出した、傘お化けのようなものが現れた。
 「ヒエッ」
 武井はもんどり打って椅子から転げ落ちた。
 ――何かがおかしい。
 コピー機といい、パソコンといい、一体、何が起こったのか、キツネにつままれたような表情で、武井は改めて周囲を見直した。
 普通ではない。この部屋には何かがいる。ようやくそのことに気付いた武井は、事務所から脱出しようと、入口のドアに向かって走った。
 だが、ガチャガチャと、いくらノブを回しても一向にドアが開かない。鍵をした覚えはないし、内から鍵をかけても、ノブを回せばすぐに開くようになっている。それなのに、ドアが開かないのはどういうわけだ。焦った武井は、今度は窓に近付いた。事務所は雑居ビルの三階にあった。飛び降りる自信はなかったが、叫べば、誰かが気付いてくれるはず、そう思って窓を開けようとした。だが、窓もまた、ドアと同様にピクリともしなかった。
 携帯を手に警察に電話をしようとしたが、不通になっていてつながらない。固定電話に手を伸ばし、電話をしようとするが、ツーツーと単調な機械音が鳴るだけで通じない。
 武井の額から汗が噴き出していた。暑いわけではなかった。恐怖が生み出す汗だった。
 事務所の中央に仁王立ちになった武井は、大声を上げた。
 「だれだ! 出て来い!!」
 学生時代、柔道部で鍛えた腕に自信があった。身構えたまま注意深く周囲を見渡した。
 編集部のデスクには一台ずつノートパソコンが置かれている。閉じられていたノートパソコンの蓋が、武井の叫び声に呼応するかのように、その蓋をパンと開けた。同時に、すべてのパソコンが一斉に稼働し始めた。
 それだけではない。通じないはずの電話が鳴り、ファックスの受信音が聞こえてくる。
 武井は耳を抑えながら、思わずその場に座り込んだ。
 ――夢だ。夢をみているのだ。
 床に突っ伏した武井は、大きな体格に似合わない弱々しい声を上げて、「助けてくれー」と叫んでいた。
 
 午前八時半、出勤してきた社員の一人が、編集室の床に突っ伏して意識を失っている武井を発見した。
 「武井さん、大丈夫ですか?」
 社員が揺り動かして武井を起こすと、武井は怯えた眼差しで社員を見つめ、
 「ギャーッ」と大声で叫んだ。
 武井はすぐに救急車で病院に搬送された。
 少し遅れて出社した編集長の野々村信吾は、散らかった室内の惨状と武井の症状を聞き、急いで全員を召集した。
 「昨夜、武井が徹夜で仕事をしている最中、事件が起きた。室内の散らかりようと、武井の異常な様子から見て、只事ではないことが起ったようだ。そのことについて何か思い当たることはないか?」
 野々村の問いに、女子編集員の一人が手を挙げた。総勢七名の編集員がいたが、そのうち女性は五名、圧倒的に女性の方が多かった。
 「田村です。散らかっていた用紙を見て、気が付いたことがあります。すべての用紙に、子どもがいたずら書きしたような絵が描かれていました。でも、私には単なるいたずら書きのようには見えませんでした」
 田村に続いて、ベテラン編集員、佐々木栄子が発言した。
 「武井さんの怯えようは尋常ではありませんでした。多分、思いもよらない出来事に遭遇し、精神的な動揺が激しかったのでしょう。私は、得体の知れない何かは、武井さんを脅かそうと思ってやったのではなく、何かを訴えたかったのではないか。そのように感じました」
 「私もそう思う」
 と、編集長の野々村が佐々木に賛同し、みんなに尋ねた。
 「では、それは何だろうか、思い当たることはないか? 必ず何か原因があるはずだ」
 編集員の菱田直美が、小さく手を挙げてゆっくりとした口調で話し始めた。
 「武井さんは昨夜、現在作っている本の最終作業でこの事務所にいました。私はその本に関係しているのではないかと思いますが」
 「そういえば武井は小学生の体験談を本にまとめていたな。募集して、ようやく審査が終わり、出稿寸前だったはずだ」
 野々宮の言葉を受けて、今まで黙っていた小西兼一が発言した。
 「斉木美弥という女の子の作品が最終選考で落ちています。クラブの練習でグラウンドを走っている途中で倒れ、現在、集中治療室で治療を受けている難病の子どもです。最終選考まで残りましたが、その子の体験記には、病院へ運ばれ、集中治療室で手当てを受けている様子が克明に書かれていました。どう考えても本人に書けるはずがない。今回の主旨に反するという理由で落ちました。僕は、その子の仕業ではないかと思っています」
信じがたい小西の発言に、その場にいた者、全員が呆気に取られて声も出ない。
 「きみは集中治療室で治療を受けている子どもがここへやって来て、いたずらをしたというのか?」
 野々宮が小西に質問すると、その問いに、小西の傍らにいた実松久恵が答えた。
 「私もそう思います。出社してすぐに編集室の状況を見た時、これは人間の仕業ではない、そんなふうに感じました。それともう一つ、ここにある十二枚の絵を見た時、いたずら書きなどではない。そう確信しました。なぜなら、十二枚の絵をよく見ると、描いた子の思いが実によく現れているように思えたからです。両親への思い、おうちへの思い、幼いころから現在までのその子の成長のすべてが一枚、一枚に表現されている、そう感じました。これを描いた子はきっと私たちに訴えたかったのではないでしょうか。体験記は、自分が書いたものだ、大切な思い出が詰まっている。だから落選させないでほしい――と」
 編集部の何人かは実松の言葉に同意する素振りを見せたが、他の数人は、そんな馬鹿な、といった嘲笑の表情を浮かべ、首を横に振った。編集長の野々村は、そのどちらでもなかった。
 「不思議な話だな」
 と、ぽつりと言った。
 その時、何の予兆もなく、突然、全員が囲んでいたテーブルが大きく揺れた。
 地震か――。
 そう思ったがそうではなかったようだ。テーブルは揺れたが椅子は揺れていない。
 「美弥ちゃんの体験記、掲載しましょうよ。編集部推薦として」
 実松が訴えた。小西も同じように編集長の野々村に訴えた。
 「私も賛成です」
 と、実松の訴えに編集員のほとんどが賛成した。だが、野々宮だけは躊躇していた。
 企画主旨に反するのでは、という想いがあったのと、悪しき前例を作りたくないといった思いもあった。決定事項は決定事項として守らなければ――。
 野々宮がそのことを全員に告げようとした瞬間、今度は野々宮の椅子だけが大きく激しく揺れた。普通の揺れ方ではない。上に下に斜めに横に、縦横無尽に、しかもそれだけ揺れても野々宮は椅子から転げ落ちない。恥も外聞もなく恐怖の声を上げた野々宮は、やがて椅子から弾き出されるようにして床に転げ落ちた。
 ゆっくりと立ち上がった野々村は、青白い顔を全員に向けて弱々しい声で言った。
 「美弥ちゃんの作品を追加しなさい」
 すると、椅子、テーブル、コピー機、パソコン――、室内のあらゆる備品が一斉に、まるでダンスでも踊るかのように揺れ始めた。
 
 肢体不自由児や難病を抱えた小学生児童の体験記は二週間後、無事完成した。
 もちろん斉木美弥の作品も特別寄稿として掲載されていた。完成したその本を持って、編集長の野々村は、斉木美弥の家族の家に直接、その本を届けることにした。美弥のその後の状況を知りたいと思ったからだ。
 「美弥は亡くなりました……」
 野々村の訪問を受けた斉木美弥の母親は、力なくそう告げた。
 「倒れて意識不明になったまま、一度も目を覚ますことなく、美弥は一昨日の午前十一時、この世を去りました」
 ――一昨日の午前十時?
 確か、製本会社から会社に本が届いたのが一昨日の午前十一時ではなかったか。
 美弥ちゃんは、本が完成するのを待って亡くなったのでは……。野々宮はふとそう思ったが、言外にその思いを打ち消した。
 斉木宅に上がり、位牌の前で手を合わせた野々宮は、美弥ちゃんの成仏を祈りながら、心の中でこうつぶやいた。
 ――美弥ちゃん。よく頑張ったね。あなたの生きた証しがこの本に残っているよ。
 
 斉木の家を出ると、突然、雨が降り出した。「傘をお持ちください」と美弥ちゃんの母親にすすめられたが、野々宮はそれを固辞して外へ出た。か細い雨だった。その雨に打たれながら、野々宮は、
 ――美弥ちゃんの涙雨かな。
 と、思った。
            〈了〉


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