僕は失うように落ちていく 名前の分からない星のように 命を賭して飛び立ったヨダカのように
はじめまして。久々原仁介と申します。 この度は、note創作大賞2024の数ある作品の中から「海のシンバル」を読んで頂き、心より感謝申し上げます。僕のような、物書きとして未熟な者の作品を読んでいただきましたこと、感謝の念が尽きません。 僕は、あまり人と話すのが得意ではありません。 初めましてのアナタに、こんなことを言うのはおかしなことかもしれません。 それでも僕は、あなたに伝えなければならないんです。ここまで読んでくれたアナタを、僕は知らない。ともすれば、それは不誠
車のクラクションが二回、短く鳴った。 ハッと気づいて周りを見渡す。右手側にはすぐ海が見えた。目の前には青色に変わった歩行者信号がある。横断歩道の手前で呆然と立っていた僕を見かねて、左折車がクラクションを押したようだ。 渋い顔をした運転手に軽く頭を下げて足早に道路を渡る。反対側に着いてから振り返ると、クラクションを鳴らした車は過ぎ去っていて、信号も赤に変わっていた。 秋山さんからの取材を終えてから、こくこくと『ピシナム』へと歩いていた。景色が見慣れたものに近づいて
第11話 命のふりをしている Rのいない二月は霙のように過ぎ去り、綾羅木川の桜並木も蕾が色を帯び始める季節となっていた。 日本の春を代表する桜だが、ファッションホテル『ピシナム』の周りにはソメイヨシノも枝垂桜も植生していない。きっと今年も、風に乗って迷い込んだ花弁だけが駐車場に薄桃色のシーツを敷くだろう。 ドレスの少女一件以降、今日までRが『ピシナム』を訪れることはなかった。 それでも僕はたった一人の少女が再び『ピシナム』に訪れることを信じ、広大な海のどこかに
第10話 遠くて、見えなくて、余震。 新年、二〇一四年を迎えてから二週間が経った。梶栗郷は海沿いの街だから滅多に雪は降らない。ひたすらに、建物の隙間を冷たい海風が吹き抜ける。 クリスマスも、年末年始も終えた『ピシナム』の客足は自然と穏やかになっていった。 「磯辺クンにプレゼント」 受付にいたとき、マリーさんが僕の頭の上に紐のついた布のようなものを乗っけてきた。 なんとなく予想しつつも手に取ると、収まっているのは水色のブラジャーだった。それもちょっと大きめの。
第9話 ずっと同じ夜を生きているのに 十二月になると、ファッションホテル『ピシナム』の部屋から見えるビーチはまるで死に絶えてしまったかのように静かになる。一方で年末の『ピシナム』は手が回らなくなるほど慌ただしい日々になる。 飲食店で働いていた経験もあったため、年末にかけて忙しくなることについては覚悟していた。 ありとあらゆる光の線がレンズを通して一ヵ所に集まるように、男女の関係は一度『ピシナム』に収束される。 クリスマスや忘年会、駅前の繁華街の各店で行われるイベン
誰に褒められなくってもいい。 僕の小説は 誰かの心に残れば、それでいい。 そこで見ていてくれ、僕の足跡を
第8話 3月11日。14時46分。 あれからもマリーさんとシフトが被る日はあったが、はっきりとRについて言及されることはなかった。あの日を境に、僕らの間にはRに対する明確な後ろめたさが生まれていた。 長い間考えていた。手元にはいつだって、紙とボールペンがあった。僕は十九年という長くも短くもない人生で、初めて当てもなく誰かを待つという経験をした。最初は、彼女に謝ることばかり考えていた。配慮のない詮索が、これほど人を傷つけることを想像できなかった自分を恥じていた。 しかし
『折れ曲がったチェキフィルムの裏面に、文字を刻むのが趣味だ』 『こういうように、あまり長くは書けないけれど、文章が苦手な僕にはちょうどよかった』 『最近は、あの人が映った写真にばかり書いている』 『途切れる文章を縫い合わせて、僕は等身大のあの人を写した』 『僕にとって書くという行為は、どこか彼女を探す行為に似ていた』 『机の上。ひとりの女性が被写体となった数々の写真。それをトランプのように並べれば、あの人が横たわる姿へ段々と変わっていく』 『大学生の頃、僕はひとり
第7話 僕ら。サン、テン、イチ、イチ。 次の水曜日、Rは『ピシナム』に現れなかった。 午後九時以降の清掃シフトもマリーさんに代わってもらい、受付に座っていたがRは姿を見せることはなかった。 その日はまるで大事な仕事をやり残したような気分で、タイムカードをきった。 僕やマリーさんの入っている深夜の業務は、早朝五時に次の時間帯のスタッフたちに引き継がれる。外はまだ夜の帳が薄い膜のように広がっていて、太陽の光を拝むにはもうしばらく時間がかかりそうだった。 梶栗郷に
濡れた東京 乾いた唇 知らない陸橋 君だけの歌声 パン屋だけが無くなった駅チカ アナタだけを愛すと握った左手 釣り銭を吐き出すレジスター 使い捨てだろセックスフレンド どこか似ているナイフのように どこかで泣いてる少女のように 笑って僕の心よ 部品のようになってくれ
第6話 三月のペトリコール それからRは僕のバイトに合わせて毎週水曜日の夕方に訪れるようになった。 Rは僕が受付シフトになっている午後七時に男を連れ込む。その男がそそくさと帰ったあとの残り時間を、彼女は僕との文通で埋めていた。 『受付さんって、何歳なの?』 『十九歳です。早生まれなので、数え年では二十歳になります』 『意外と若い方でびっくり! わたし、てっきり十歳くらい離れてるのかなって(笑)』 彼女の便箋は帰ってくる度に色も大きさも違った。 可愛らしい花模様
第五話 文字だけの関係 出勤日。雨の降る日は古書店に向かった。 山陰線を走るキハ47系気道列車は、風が吹いただけでも遅延することで有名だ。だから早めに家を出るけれど、大抵は問題なく到着してしまう。なので、時間を持て余した僕は駅よりほどなくしたところにある古書店へと向かう。 梶栗郷駅と『ピシナム』を直線で結んだとき、古書店はちょうどその中央に立地している。書店というより古民家のような出で立ちで、正面のガラス戸からは店内の様子が伺える。天井に届かんばかりの本棚が静かに向
第4話 波の前日 『ピシナム』に勤め始めて三カ月が経つと、受付業務だけではなく清掃作業も任されるようになった。 仕事のルーティンも定まりつつあった。十五分前には裏口から出勤。制服に着替えてタイムカードを押す。昼勤スタッフからの引き継ぎをしてから仕事に入る。十九時から二十一時までは受付。二時間の休憩を合間にはさみつつ午前五時まで清掃に入る。 ホテルマンは僕にとって天職となりつつあった。 大学に入学してから授業にも出ず、アルバイトばかりしていた。どんな仕事も、自分に合
第3話 わたしのR 思い出すことは特別で、少し怖い。 秋山さんとの取材で、僕は一つだけ噓をついていた。『ピシナム』に勤めているなかで、半年を過ぎても忘れられないことは、溢れかえるほどあった。 そしてそのほとんどは《彼女》のことだった。 《彼女》は僕のことなど覚えているはずもないのに、それでも一向にかまわなかった。あるいは、それが愛情なのではないかとすら思った。 僕は《彼女》に名前を訊かなかったし、彼女も名前を告げなかった。 だから勝手に《彼女》のことを《
第2話 息を吐く、白 閉じた瞼の隙間から、店内照明のチカチカとした白い光が差し込む。 長い潜水を終え、海面から顔を出したような冷たい解放感が僕を支配していた。 「磯辺さん、お疲れ様です」 僕を呼ぶ声に導かれるように目を開くと、テーブルの上に置かれた女性の手が見えた。段々と視界がはっきりしていくつれ、なぜ僕はここにいるのかが明瞭になっていく。 正午から始まった秋山さんの取材は、十四時を過ぎたあたりで休憩を提案された。 まるで台本を読み上げていくような、僕の回