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「海のシンバル」第4話

第4話 波の前日

 『ピシナム』に勤め始めて三カ月が経つと、受付業務だけではなく清掃作業も任されるようになった。

 仕事のルーティンも定まりつつあった。十五分前には裏口から出勤。制服に着替えてタイムカードを押す。昼勤スタッフからの引き継ぎをしてから仕事に入る。十九時から二十一時までは受付。二時間の休憩を合間にはさみつつ午前五時まで清掃に入る。
ホテルマンは僕にとって天職となりつつあった。

 大学に入学してから授業にも出ず、アルバイトばかりしていた。どんな仕事も、自分に合わないと思えば、猫のようにその場を去った。親からの仕送りには手を付けず、時給の高い夜間の飲食店を転々としていた。仕事のない日は、下宿先のアパートでひたすら本を読んで眠った。そんな日常の繰り返しだった。

 『ピシナム』は、居酒屋のように大声が飛び交うことも、まだ拭き終えてもいない皿をお客様に出すこともない。スピードよりも丁寧な仕事を求められる環境が性に合っていた。
 何よりも、沈黙を守れるスタッフは重宝された。

「……あ、りがとう、ございま……す」

 レジ内のお金に誤差が出ていないか点検していると、カシャンと鍵を置く音が聞こえた。

 Rだ。

 その日もやはりRは泣いていた。出口へと向かう彼女は足を引きずっているようにも見える。
 今日誘った男はそんなに乱暴な奴だったのだろうか。男の容貌を思い出そうとしたが、どうにもうまくいかない。

「お疲れ様。次、清掃だよ」

 考え事をしていると、不意に後ろから肩を叩かれた。

「……お疲れ様です」

 振り返ると、小柄な老紳士を思わせる風貌の男性スタッフが背筋をピンと伸ばして立っていた。見覚えのないスタッフだった。

 珍しいことではない。ファッションホテル『ピシナム』には朝・昼・夜でシフトメンバーが分かれている。そのため、足りない日に急遽入れられるピンチヒッターとは、面識がないことも多々あった。

 それに僕らの胸元に名札はない。今さら名前を訊くことに意味があるとも思えなかった。

「業務交代ありがとうございます。未清掃は?」
「そうだったね。えっとねえ……ニマルイチ、ヨン。サンマルニ、イチゴ。ヨンマルニ。だけかな」

 201、204、302、315、402。
早口に並べられた数字を頭の中で部屋番号に並べ替えて、メモを取る。受付を代わる際は、前のスタッフから未清掃の部屋番号を教えてもらわなければならない。

「かしこまりました。ペアは?」
「中村さんだよ。もう先に清掃入ってるんじゃないかな。よろしく頼むよ」
「はい。レジ点検残りお願いします。お疲れ様です」
「うん、お疲れ様」

 引継ぎを終え受付室を後にしようとしたとき「あ、磯辺くん」と呼び止められる。
 足を止めたのは、名前を覚えられていたことに驚いたからだ。

「チョコレート、いるかい」

 差し出されたのは、くしゃくしゃに包まれた板状のアルミホイルだった。

「いえ、僕は」
「まあまあ、夜勤はお腹も空くから。持っていきんさいな」

 四分の一程度にカットされた製造元不明のチョコレートを、半ば無理矢理握らされる。相手は満足そうに笑った。返すこともできないままズボンのポケットに落とした。食べないだろうなと思った。僕はそれに理由や名前を付けないまま、受付室を後にした。

 更衣室で制服を脱ぎ、青いツナギに着替えて201号室へと向かう。ロッカールームを出て右手に八歩進むと突き当たりに業務用エレベーターがある。お客様と鉢合わせしないように従業員は業務用エレベーターか非常階段を主な移動手段として使っていた。

 『ピシナム』は階数が低い方から上階へ向かって清掃を行う。だからRが帰った直後に清掃に行けたのは嬉しい偶然だった。

 201号室に清掃へ訪れると、ドアは解放されたままになっていた。清掃中の合図だ。布巾でドアノブをひと拭き。工程はカラダに染み付いていた。スリッパ、マット、ハンガーを整えながら短い廊下の奥に進んでいく。ベッドルームに続くドアを押して中へと入れば、もう息つく暇はない。部屋に入ったあとすぐに遮光カーテンを開き、窓をストッパーいっぱいまで開ける。

 振り返ると、ベッドは整っていた。本当にここで男女の性交が行われたのか疑問になるほど。それでもシーツに乾いた精液が飛び散っているのを見ると、どうも生々しい気持ちになる。

 汚れたベッドの前に立っている自分を俯瞰して見ると、胸のざわめきが引いていった。そこにはホテルマンの僕だけがぽつんと残っている。

「……玄関よぉし。テーブルよぉし。ベッドよぉし」

 声に出した箇所をきちんと指さし、お客様の忘れ物がないかを確認する。気分はさながら電車の運転士だ。

 そしてその掛け声が、受付から清掃への切り替え合図。

 手先がかぁっと熱くなる。
 交換するのは枕カバーと、ベッドシーツの二つだけ。

 まずは、掛け布団を一旦広げてから縦に三つ折りにし、足の方からだし巻き卵みたいに丸めていく。掛け布団を一旦、テーブルの上に避けたら、枕カバーも外してしまう。ベッドシーツも外すけれど、思い切り引っ張らないよう気を付ける。ベッドの上に落ちた体毛などを絨毯に落とさないためだ。
 ここで一呼吸いれる。慌ててはいけない。シーツの上下両端を折って中央で重ねる。重ねたところを持ち上げると揺りかごのようになるから、そのままゴミを落とさないように、今度は左右を折り曲げる。もう一度。もう一度。簡単に畳んで、枕カバーと一緒に持ってきた回収ボックスにいれておけば片づけは終わり。そしたら新しいシーツをかける。新品の画用紙くらい綺麗に敷ければ上出来だ。ここで別の誰かがセックスをしていたと、次に来るお客様に思われてはいけない。コツは、手のひらでピザ生地を伸ばすイメージ。皺なく敷き終わったら、垂れ下がったシーツの端をベッドの下に噛ませる。親指の付け根をベッドの境界に這わせるようにすると皺が寄らずにシーツを挟める。枕カバーを新しいものに代えてベッドに添えたら、掛け布団をかぶせる。最後に掛け布団の頭の方を十センチほど折って、シーツの白をアクセントにすれば、完成だ。

 だいたいこの工程を三分ほどでこなす。時間をかけて丁寧にするべきだと思うかもしれないが、ベッドメイクは時間をかけすぎても皺が寄るだけだった。シーツは常に、油の引いたフライパンの上にある溶いた卵と考えなければならない。

「だいぶ早くなったね」

 気だるげな女性の声が聞こえた。
顔をあげると、僕より先に清掃に来ていた中村マリーさんが腰に手を当てて後ろに立っていた。

「……いきなり、背後に立つのはやめてください」
「声かけたけど磯辺クンが気付かなかっただけ。普通、私の方に挨拶しにこない?」
「それは……すみません」

 マリーさんは二〇代後半のシングルマザーで、僕の教育係でもあった。
 一部屋の清掃は二人でかかる。風呂場とベッドの清掃を分担するためだ。

 浴槽に水滴一つ残してはならない風呂掃除は、ベッドメイキングよりも時間がかかる。残してしまった水分はカビなどの温床になってしまうから、スピードと技術の両方が求められる。そのため経験年数が長い方のホテルマンに任せるのが『ピシナム』のルールになっていた。

「ねえ、仕事には慣れた?」
「いえ」
「いえってなに? Yeahってこと?」
「まだまだ未熟ですって意味です。働いて、三カ月くらいですから」
「ふーん」

 あんまり仕事増やさないでよ? そんな反応だった。
 マリーさんは茶髪の長い髪を指ですきながら回収ボックスにもたれかかる。箱が痛そうに軋んだ。

「ねえ、大学って楽しい?」
「周りは、楽しそうでしたよ」

 食堂、教室、購買部、大学のどこにいてもゲラゲラと笑い声が聞こえた。遠巻きにさえ耳を塞ぎたくなるような下品な声は、その近くで笑い合う青年らにはまるで聞こえていないように映った。

 一年にも満たなかった大学生活。僕はずっと昼間のゲームセンターにでもいるような気分だった。あれほど広い校舎のなかに、僕の居場所はどこにもなかった。今も思い出すと、胸の下あたりが重くなる。

「磯辺クンが楽しくなかったら、学校なんて意味ないでしょ」
「だから、大学にはもう行ってません」
「休学してるの?」
「そうです。というか、休学していることは勤務初日に伝えてます」
「そういえば、そんなこと言ってたね。もったいない」

 僕なんかよりも、マリーさんの方が大学生には相応しいのかもしれない。
妊娠が原因でマリーさんが高校を中退していたことは浜本さんから聞いていた。同時に「あまり学校のことを話さないであげてくれ」とも言い含められていた。

「大学行きたかったな」
「そんなに、良いところじゃないですよ」
「私と代わってよ、男装したらバレないし」
「ですから、休学してるんですよ、僕は」

 マリーさんは僕とペアになると、たまに通っていた高校や大学について知りたがった。治りかけの傷口が痒みをもつように、離れてしまったからこそ、関心をそそられるものなのだろうか。

 けれどそれは、自ら進んで離れた者には分からない感情だった。だから、大学なんてろくなもんじゃないという表現をした。事実、どこか脂っぽくて騒がしいあの場所が、僕は今でも好きになれない。

「そっか、そうよね。あはは」

 彼女は平坦に笑って、窓の向こうを見つめていた。一方で僕は、マリーさんとの会話はどうなるだろうと考えていた。大学なんて行かなくて正解だったね、教えてくれてありがとう、と。感謝までしてもらえるかもしれないなんて、馬鹿らしい妄想が思考をかすめた。

「磯辺クン、人いなさそうだもんね」

 そう言う彼女の言葉には、主語がなかった。
 何のことか分からず「どういう意味ですか」と訊き返す。

「心に人がいないよね、君は」

 ぴちゃん、と。金魚の尾鰭(おひれ)が水面を揺らした。

「比喩じゃなくてね。磯辺クンと話してるとなんとなく、この子は窓がないなー。ドアがないなーって感じるの。そういう人はどんな勉強をしても、誰かを好きになっても、身にならないと思うよ。自分のなかに招き入れることをしないから。だから大学なんて、行かなくて良かったかもよ」

 マリーさんの指摘が、僕の口元を縫い付けていく。長い、沈黙が続いた。
 いつからか、人の顔を見るとあの部分だけ別の生き物のように映った。

 幾重もの筋繊維が複雑に絡み合っていてできている人の顔が怖かった。喜びも、悲しみも、どれも同じように歪んで見えた。僕はそれらを器用に使いこなすことができなかった。次第に人の顔が、切り離されたトカゲの尻尾のように見えてしまうようになった。

 人の顔を見れない僕が、誰からも見つけられないのは至極当然のことだった。大学だけではない。人の集まる場所が僕にとってはどことなく耐えがたい空気を孕んでいた。

「人の足元ばっかり見てないでよ」

 うつむきながら黙りこくる僕を、マリーさんは厳しい口調でたしなめた。

「あ、はい……」

 気の抜けた声が出る。
 いま、マリーさんの眉間には深い皺が寄っているだろうか。目の真っ黒なところが僕を睨み付けているんじゃないか。そう思うと頭が鉛のように重くなって、顔を、上げられなくなる。こうなると、もうダメだった。
 ふと、Rのことが脳裏をかすめた。
 顔の見えない彼女は、僕にとって優しい人間なのかもしれなかった。

「まったく……ホテルの仕事はどうなの?」
「しっくり、きています」

 彼女は呆れた様子で、離れたところから溜息が聞こえる。

「若いうちから、こんな仕事してたら、これから苦労するよ」

 僕がこの仕事に勤めていることを、マリーさんはあまり良く思っていない。だからなのか、どれだけ業務を覚えても、どれだけ丁寧な仕事を心掛けても、彼女が僕を褒めるようなことはない。

 顔をみれば、マリーさんがどんな意図で忠告したのかも分かるかもしれない。けれどその視線をマリーさんの首より数ミリ上にあげることが、どうしても遠い。
 自分へ向けた感情がより鋭く明らかになってしまうことが怖かった。

「うーん……これかな」

 黙った僕など放っておいて、マリーさんは回収ボックスの中に入れたシーツを漁りはじめる。

「ちょっと」

 語気を強くして咎めるが、奇行に及ぶマリーさんが止まる様子はない。

「お、あったあった」

 マリーさんは先ほどまで敷いていた古いシーツを引っ張り出すと、それを自身の頭にかぶった。

「ねえ、磯辺クン」
「なんですか」
「セックスの経験はある?」

 ない、そう答えた。
 本当になかったからだ。

「そこはあるって言いなよ。レイプしたくなるから」

 コロコロと笑いながら、シーツでカラダを包む。最後は蚕(かいこ)のように膝を抱えて座ると、自分のどこかに蓋をしたようにマリーさんは静かになった。

「ほら、おいでよ」

 シーツにくるまった彼女が紅い唇に笑みを浮かべていた。柔らかい翼のように片方を広げ、僕を誘(いざな)う。

「……けっこうです」
「あっそ。残念。あはは」

 断っても無理強いされるのではないかという心配は、マリーさんの虚ろな笑い声にかき消された。

「いま私、セックスしてる」

 Rの使っていたシーツだと思うと、眉間の皺が深くなった。

「して、ませんよ」
「してる。してるよ」

 マリーさんは笑みを噛む。

「こうすると、わかるよ。ああ、どうしてこの子はここでセックスしてるんだろうって。大切にされたいとか、犯されたいとか、奪いたいとか。ベッドのシーツを見たら、だいたいわかる」

 じゃあ、Rは何を考えているんですか、と。言いかけてやめた。

 おそらく人から聴いても意味がないし、きっと僕はそれに納得できない。欲しいのは言葉ではなかった。そんな整ったものではないはずだった。

 生きていることを忘れたように丸まったマリーさんを見ていると、201号室が空くのをじっと待っているRと通ずるものを感じた。でもそれは、結局のところ彼女を模したオブジェクトに過ぎない。あの涙は、もっと衝動的で、水のような憎しみだった。

 その後も、僕とマリーさんは下の階からマニュアル通りに各部屋の清掃に回った。

 どの部屋にも口を結ばれたコンドームと、その中で死んでいく半透明な集合体があって、僕と同じだと励ましてからゴミ箱へ移した。

 きっとマリーさんの言う通り、僕の心の中にある部屋は殺風景なのだろう。家具はなんでもレンタルで、僕の人生はいつも、他人の部屋で暮らしているような居心地の悪さがあった。顔が怖い。言葉が怖い。僕を見据える瞳が怖い。どうしてこんな人間になってしまったんだろうと、自分を責めない日はなかった。

 しかし初めて部屋にRという他者を招いた。自身の中心に置くことによって、生きるうえでの息苦しさを初めて克服できた気がした。この部屋には自分すらも不要だと気付いたとき、どこかで肩の荷が下りた。

 Rが僕のなかで存在を大きくしていくのに、時間はかからなかった。

 ホテルから男が出ていってRだけが部屋に残る三十分と少しは、ただただ彼女のことを考えた。受付室の机に、僕が想像する三十分のRをメモ帳に書き出して、トランプみたいに並べた。

 金魚を眺めているR。シャワーを浴びるR。ベッドシーツを整えるR。波打つ海を眺めるR。愁いを帯びた佇まいはどれも魅力的だった。彼女はどうしているのだろうと考える三十分。その時間は、僕にとって何より特別なものになっていった。

 何とはなしに制服のポケットに手を差し入れると、先程のチョコレートのことを思い出す。取り出したアルミホイルからは、体温で柔らかくなってしまったチョコがわずかに溶け出していた。

 左手に付いてしまった暗褐色の液体を、目尻から頬にかけて押し付けるように拭う。
 窓のない部屋の外、彼女を感じていたかった。

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#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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