「海のシンバル」第2話
第2話 息を吐く、白
閉じた瞼の隙間から、店内照明のチカチカとした白い光が差し込む。
長い潜水を終え、海面から顔を出したような冷たい解放感が僕を支配していた。
「磯辺さん、お疲れ様です」
僕を呼ぶ声に導かれるように目を開くと、テーブルの上に置かれた女性の手が見えた。段々と視界がはっきりしていくつれ、なぜ僕はここにいるのかが明瞭になっていく。
正午から始まった秋山さんの取材は、十四時を過ぎたあたりで休憩を提案された。
まるで台本を読み上げていくような、僕の回答は長く続かなかった。突如として激しい疲労感に襲われ、しばらく放心状態に陥ってしまったのだ。
「きっと、言葉が痞えているんですよ。少しの間、目を閉じてください」
秋山さんに言われた通りに、しばらく目を瞑っていた。
すると脳裏に過るのは、やはり『ピシナム』のことだった。
『ピシナム』は紛れもなく僕の人生の中核を担っていた。取材で秋山さんに答えていたことは『ピシナム』のことでありながらも、僕のことでもあった。
だからこそ、空っぽになってしまった水槽たちは墓石のように僕の目には映った。所詮は雇われの身に過ぎないと頭では理解していながら、まるで自分のことのように苦しかった。譫言のように、口の中で生まれてくる言葉を垂れ流していた。
しばらくして給仕が食器をテーブルに置く音で。カラダを膜のように覆っていた倦怠感が、嘘のように消え失せていたことに気付く。
テーブルの上には二つのパエリアが鉄板の上に盛られている。
「冷めたら美味しくなくなっちゃいますし、先に食べちゃいましょう」
待ち合わせ場所のダイニングカフェは、僕たちの他に客はいない。遅めの昼食を摂っていると、変に食器とスプーンがぶつかる音が耳に障った。
なるべく静かな食事を心掛けるが、丸ごと入った海老が邪魔をする。落とさないようにするのが精一杯で、なかなか上手くいかない。
「ねえ、磯辺さん」
「なんでしょう」
手を止めると、少し可笑しそうに口元を隠す秋山さんがいた。
「こういうとき、喋る人と、そうじゃない人っているじゃないですか」
「食事中に、という意味でしょうか」
「そうです。磯辺さんはどちらですか?」
「……僕は、後者です。あまり人と食卓を囲む習慣がないので」
誰かに見られながら摂る食事は、急かされているようで落ち着かない。消極的な答えを選んだ。
「わたしもですよ、一緒ですね」
秋山さんは続けて「じゃあお話は食べ終わってからにしましょう」と言って、食事を再開した。彼女の同意が本心か、それとも僕を気遣っての発言かは、はっきりしない。判別がつかないまま、僕らは味覚だけを同じくしていた。
それから秋山さんは本当に喋らなかった。スプーンで掬ったパプリカが台のうえに転げ落ちたときだけ唯一、「活きがいいですね」と恥ずかしそうに口元を隠して笑っていた。
「秋山さん」
食べ終えたのは、秋山さんより僕の方がいくらか早かった。給仕の女性に注文していたコーヒーが運ばれてくるまでの間は、彼女への話題を考える時間に当てていた。
「さきほどウェブライターと仰っていましたが、普通の記者とは違うのでしょうか」
彼女が残り一口だったパエリアを飲み込んだのを確認して質問した。「よく訊かれるんですよ」と、一呼吸の間が空く。
「磯辺さんの言う記者というのは、だいたいは会社に勤めているライターさんのことですよ。わたしの場合は、インターネットで個人的に記事を書いて広告収入を得たり、出版社と契約して雑誌の記事を書かせてもらったりって感じですかね。フリーランスってやつです」
秋山さんはそこまで話すと、力のない笑顔を向けてきた。
「けどウェブライターとしての仕事は、これで最後です」
「それは……どうしてですか」
興味があったわけではない。訊かなければならない雰囲気に従って、口を動かす。
『ピシナム』のホテルマンではなくなった僕は、血の通わないロボットのような振る舞いしかできなかった。
「一週間くらい前に、契約していた週刊誌に切られちゃいまして。この業界では珍しいことじゃないんですけど、一番大口の出版社だったので」
相手に不快な思いをさせまいと秋山さんは明るく努めているように映った。
「新しく契約を取ることは」
軽はずみな発言であると気付いたときには、半分以上が喉から出た後だった。
「できないことは、ないかもしれません。でも、もう心が付いていかなくて。あはは」
どんな慰めも、真摯な感情ではないような気がした。
僕が話した『ピシナム』について黙って聴いてくれた秋山さんに倣い、それ以上言葉を重ねることをやめた。
給仕の女性によって、注文していたコーヒーが僕の前に置かれる。
「ここへは取材というよりは、一人旅のつもりで来たんです」
秋山さんは、オレンジブラウンの唇をやわらかく結んだ。僕は自分のかたい唇を舌で触って、彼女の方が年下なのだと、漠然とした後ろめたさを覚えた。
「梶栗郷まで来たのは、仕事ではないのですか」
「ルポルタージュの個人的なウェブ記事は書きますが、雑誌に掲載はされませんので。仕事かと言われれば、イエスとは言いづらいですね」
「誰かからの、依頼ではないのですか」
彼女は揺れるように首を横に振った。
「半分は趣味ですね」
「もう半分は」
なぜか口が動いた。
咄嗟に手で口を覆った。逸らした視線の先に、自分の頼んだコーヒーがあった。
蜘蛛の糸のように細く立ち昇ったコーヒーの湯気は、胸元のあたりで解(ほど)けて消えてしまう。
「自分探しの旅って言ったら、笑いますか?」
本心を隠すように、冗談めかした言葉だった。
憎しみなのか、怒りなのか、悲しみなのか。いずれにしろ、今の僕には強く追い求めるその姿こそが高潔で、自分とはかけ離れた存在だった。
そもそも他人の旅を笑えるほど、自身の歩みが洗練されたものとは思えなかった。
「……見つかりましたか」
「ふふ。どうでしょう、まだ遠いみたいですね」
僕の顔を見ているのだろうか。秋山さんはどこか安心した様子で、僕と同じコーヒーを給仕の女性に注文していた。
「見つからなくたっていいんです。探したかったから。だったらこれは、わたしの心を優先させた結果です。それに、ドライブは好きですよ」
ハンドルを両手で握る動作をして、秋山さんはアピールする。
「……それなら山陰は良い。道も広いし、無駄に補装されていますから。
「そうですよね。わたしの住んでる―――と違って、ガタガタしませんし」
それは偶然にも、僕の知っている地名だった。
ずいぶん遠くからいらしたんですねと声に出した気でいたが、しかしふと気づくと僕は何も口に出せなかった。空いてしまった間を誤魔化すように、ぬるいコーヒーに口をつける。
秋山さんが、じっとこちらを見ているように思えた。
暖房のおかげでいくらか温かいが、窓際に置いていた右手はすっかり冷えていた。外を覗くと、大きな牡丹雪が頼りなさげに降っている。
「こっちの雪は、なんだかべちょってしてますよね」
同意を求めようと振られた会話にも、僕は何も答えられなかった。
雪と言われれば、頭の中には梶栗郷に降るこの不格好に膨れた結晶が浮かぶ。それ以外の雪を、僕は知らなかった。
ソーサーとカップがぶつかって響く音や、椅子の軋み、わずかな絹擦れさえも。秋山さんは僕から零れるすべてを観察しようとする注意深さがあった。
そんな様子がどことなく不気味で、早くこの店から、彼女の前から消えてなくなりたかった。
カップの中身が空になると、秋山さんからの『ピシナム』のインタビューは再開する。
とにかく僕は彼女に納得してもらえるように必死だった。今の僕には、当初の冷静さがなかった。身振り手振りまでして話した。口だけはよく回っていた。質問の内容など覚えていない。自分が話したいことと、聞き入れたいこと以外は頭から全部抜け落ちていた。
より詳細な『ピシナム』を語るほど、僕の中にあるファッションホテルとはかけ離れた代物に成り果てていく。それを悟られまいと、会話のようなものを取り繕ってやり過ごした。
それを上手く表現できない不誠実な時間が淡々と流れていく。
伝わらないことはひどく怖いことだから。それを知られまいと、貝のようにカラダを小さくしていた。
「磯辺さん、ありがとうございました。せっかくの休日にお時間つくっていただいて」
秋山さんは名残惜しそうに振る舞っていたが、最後はほとんどメモを取っていなかった。僕はそれに気付かぬふりをするほかなかった。
席を立つ。秋山さんから目を逸らしながらモッズコートに腕を通す。すると薄い桜色のコートを羽織った彼女が、僕の方にカラダを向けて動きを止めていた。
「磯辺さんさえよかったら、連絡先を交換しませんか?」
「どうしてですか」
秋山さんがそれとなく訊いてきたから、僕もそれとなく返した。
「もっと、ホテルのお話を訊きたいと思って」
「……自分探しなら、きっと他を当たった方が良い」
苛立ちを、隠しもせずに吐き捨てる。帰り支度をする手は、何かを探すようにテーブルの上で彷徨(さまよ)っていた。
「でも、ベッドの下に隠れているかもしれませんよ」
それは泥の付いた靴で、フロントの赤い絨毯を踏まれたときの怒りだった。
ドロドロに溶けたホテルマンとしての僕が、ほんの一瞬だけ、驚くほど鮮明に甦るのを感じた。
「あのホテルに、あなたは、いませんよ」
食器類はすでに下げられている。居心地の悪さだけが、テーブルの上に残っていた。椅子の足を引きずって机に寄せる。
「あそこには、誰もいないんだ」
もう、僕の勤めるホテルからは海も見えない。
探すことすらできない虚しさで誰を責めても、この吐き気を催すほどの現実からは逃れることはできなかった。
「すみません。踏み込んだことを、訊き過ぎましたね」
謝罪を受けて救われたものなど一つもなかった。
秋山さんの口元は悲しそうに、あるいは僕を労わるように笑っていた。
「連絡先はお渡しした名刺に書いてあるので、気が変わったらいつでもご連絡ください。とは言っても、今日か明日にはここを発つかもですけど」
「戻るん、ですか」
「そうですね。あの町で育ちましたので」
「一日では、無理じゃないんですか」
「高速乗ったら十七時間くらいですよ。でも寄り道もしちゃいますから、一週間かけてゆっくり帰るつもりです」
「そう、ですか」
相槌は何を肯定するわけでもない。秋山さんは何かを喉元まで出しかけていたが、それを遮るように踵を返してレジに向かった。
会計を終えて外に出ると、やはり水気の多い雪が降っている。歩くと足あとが残るくらいには、うっすらと雪が積もっていた。
擦り減った靴底から、容赦なくカラダは冷えていく。
「磯辺さんは、車ですか?」
「いえ、歩いて駅まで」
「よかったら、駅まで送りましょうか?」
嘘みたいな善意が痛くて、そっと目を背けた。
「近いですから、自分で、歩いて帰ります」
「ねえ、磯辺さん」
「大丈夫……大丈夫ですから」
秋山さんから声をかけられると、何かに追いつかれそうになって、僕はそれを頑なに遠ざけた。足はすでに歩き始めていた。なんと別れの挨拶をしたのか記憶にない。歩いて、歩いている分だけ秋山さんとの距離が離れていった。
ときおり、小さくなる秋山さんの姿を確認した。振り返ると、彼女は雪の中で小さく手を振ってくれた。女々しくも、それに僕は形容し難い安堵を覚えた。おそらくこの人とは会うことはないんだろうと思って、襟に顎を埋める。
こんなに苦しい気持ちになってしまったのはどうしてなんだろう。僕は、秋山さんに『ピシナム』の話をしたことを後悔していた。誰にも見せるつもりがなかった絵画に、勝手に値札を付けられたような気分だった。
線路沿いに出ると、たらこ色の電車が線路に積もった雪をすり潰しながら走っていた。あんな大きな乗り物を使っても、きっと僕はどこにも帰れない。
次に振り返ったとき、街を包む白色に紛れて秋山さんの姿は見えなくなっていた。自然と足は線路沿いを下って、梶栗郷へと向いていた。
一つの足音もない雪道は、その上を歩く僕をどうしようもなく不安にさせる。
追い越す人影がいくつかあった。僕はそれを数えて、ひとりひとり覚えていった。そのほとんどが高校生だった。
誰もが家に帰るなか、自分だけが別の場所へと歩いている。
不意に、セーラー服に厚手のカーディガンを羽織った女子高生が脇をすり抜けた。その女子高生だけは走って僕を追い越した。金魚の尾ひれのような赤いスカーフが、視界を綺麗に泳いだ。
左の頬を、つうーと指でなぞるみたいに線が通る。雪だろうと思った。けれど頬を伝っているその一線だけが熱い。
手で顔を拭ったときにはもう乾いていた。だから本当はそれが何だったのかは分からない。
どっちつかずの僕を置き去りにして、カラダだけは『ピシナム』に行こうと足を動かしていた。
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第3話↓
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