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「海のシンバル」第8話

第8話 3月11日。14時46分。

 あれからもマリーさんとシフトが被る日はあったが、はっきりとRについて言及されることはなかった。あの日を境に、僕らの間にはRに対する明確な後ろめたさが生まれていた。

 長い間考えていた。手元にはいつだって、紙とボールペンがあった。僕は十九年という長くも短くもない人生で、初めて当てもなく誰かを待つという経験をした。最初は、彼女に謝ることばかり考えていた。配慮のない詮索が、これほど人を傷つけることを想像できなかった自分を恥じていた。
しかし二、三日経ってからは別のことを考えた。彼女と僕自身についてだ。

 Rはどういう子なんだろう。何が好きなんだろう。何が嫌いなんだろう。何を信じているのだろう。何を疑っているのだろう。そういうことを考えた。

 しかしその間に分かったことといえば、やはり人間は自分を真ん中に置いた関係図しか描けないということだ。

 僕はRをどう思っているとか。僕はあれが好きとか。これは嫌いとか。そういうことを考えることは容易い。自分のことだからだ。
しかしRが僕のことをどう思っているとか。彼女の親は。友人は。Rのことをどう思っているのか。どうしてか、そういうことを考えるのは難しかった。Rという少女のことを何も知らないということを、知った。それだけだった。

 思えば自分が抱いたどんな疑問も、最初に彼女が僕に問いかけてくれたことばかりだった。自分のことに夢中で、微塵も彼女のことを考えることができていなかった。そんな自分を恥じた。

 状況が変化したのは、十一月の第一水曜日だった。
 十一月になると近くのビーチで泳ぐ人もいない。十月まではサーファーを海でちらほら見かけることもあるが、『ピシナム』にチェックインするお客様の数は夏に比べて圧倒的に少なかった。
僕はカウンターに座って、いつも通り避妊具をラッピングしていた。

 最後の避妊具を包み終えたとき、事件は起きた。

「この扉、バカみてえに重てえなあ! おい!」

 正面扉が蹴り破るほどの勢いで開く。
 同時に、酒で喉が焼けたような男の声がホテルに響き渡った。
 男はフィルムガラス越しでも分かるほどパリパリに金髪を逆立てて、フロントの中央で喚き散らしていた。

 僕は何も言わなかった。こういうお客様も、たまには来る。何か口を出すより、黙って嵐が去るのを待つ方が事を大きくしないで済むと知っていた。
 しかしその男が腕を掴んで引っ張ってきた女性のシルエットを見て、思わず息を飲んだ。

「歩くの遅いんだよ。ちんたらすんな」
「……ごめんなさい」
辛そうに謝ったのは、セーラー服姿の女性だった。
Rだと、すぐに分かった。ずっと待ち望んでいた人が、望まない形で現れた。

「部屋選びてえんだろ。早(はよ)う行けや」
 そう言うと男は周りの水槽を見てガラガラと下品な笑い声をあげた。
Rはまた男に怒鳴られるのを恐れたのか、ゲストテレフォンをとることなくパネルで201号室を選んだ。
部屋の鍵を渡さないといけないのに、どうしてもそうしたくなかった。けれど僕はどうしようもないほどホテルマンだった。カラダは意に反して、糸で操られるようにキーボックスへと向かう。
ホテルマンの僕が、取り出した鍵をキャッシュトレイに載せてRに渡した。

「遅いって。何してんだよ。早くしろ」

 熱帯魚には飽きたのか、男は再びRを急かした。彼女の細い腕を乱暴に引き寄せる。
 それを見た僕の腕も、痛かった。
 エレベーターに消えたRのことを考えると落ち着かず、心臓がバクバクと鳴る。波のように流れていた時間は、今まで僕に嘘をついていたかのように、鈍く、遅く、なにより重くなったように感じられた。

 腕時計を外して、机に置く。銀色の秒針が進むたびに、僕とRのカラダが切り刻まれているようだった。ただただその痛みに耐えるために、僕は身を強張らせることくらいしかできなかった。
そうやって視線が腕時計と201号室の満室パネルを行き来していると、唐突にエレベーターの階数ランプが点滅し始める。一階に降りてくるチャイムが鳴った。

 逆立った髪の毛のシルエットですぐにピンときた。Rと入ってきた金髪の男だ。

 男は踵を引きずりながらふらふら歩いて、カウンターのところでピタリと足を止めた。
「がぁああああ!」
すると唐突に、金髪の男は背中を反らすくらい吠え始めた。
「クソ野郎! あの女! マジでふざけんな! ふざっけんな!」
 怒り狂った様子でカウンターの壁を蹴り上げる。
「ヤんないなら死ね! ぶっ殺すぞ!」
 そのままの勢いに任せて扉も押し開き、男は絨毯に唾を吐いて帰っていった。
 しばらく何が起きた
のか分からず、呆然としていた。数分が経って事態は飲み込めたものの、気分が晴れることはなかった。掃除用具入れのあるロッカーから雑巾を拝借し、赤いカーペットについた金髪男の唾をふき取ってから、受付の椅子へと戻る。201号室のなかで、何かトラブルがあったことは明白だった。
 しかしRをどれだけ待っても、手紙を送ってくることはおろか、フロントに降りても来なかった。

 金髪の男がホテルを出てから、時計の長針はそろそろ一周しようとしている。嫌な予感が、蛇のように背筋を這った。金髪の男に殴り倒され、彼女がうずくまっている姿がはっきりと浮かんできてしまう。

 僕は今からでも、201号室の扉を開けて「大丈夫ですか」とRに声をかけることをイメージしてみたが、どうしても現実味がない。
想像できないとは、おそらく不可能だということだ。

 僕はホテルマンで、またその仮面を脱ぐことを恐れていた。ホテルマンでなくなった僕とRの間には何の接点もない。ただの男と、少女が残るだけのように思えた。そのとき僕らは、再び紙の上で言葉を交わすことができるだろうか。

 そのとき気送管ポストからいつもより数段鈍い音が響いた。
ガツンと、人の頭を殴ったときのような音だ。
青いカプセル。201号室からだとすぐに分かった。戸を開けてカプセルを開くと、そこには手紙だけではなく割れたティーカップが入っていた。
 彼女が褒めてくれたティーカップだ。拾い集めてくれたのか、小さな破片まで、透明なビニール袋に包んでくれていた。

『今日はごめんなさい。
びっくりしましたよね?
わたしもびっくりぎょうてんです。
あの人、メールだと聖人君主みたいなこと言ってたんですけど、まさかあんな人とは思わなくって。いろいろあって、お部屋のティーカップ割っちゃいました。弁償しますね、ごめんなさい』

 割れたティーカップが入ったビニール袋を机の端に避けてから、便箋に筆を走らせた。

『あのお客様に関しては、気にしないで。あの手の輩はどこにでもいるから。カップのことも大丈夫。あれは、僕が勝手に買ってきたやつだから。もう破片には触れないで』

 一通り書くと、胸のざわめきが引いていった。
 僕は受付室で干していた備品の黄色いタオルを濡らして、強めに絞った。
その濡れタオルと書いた便箋を、一緒にカプセルに入れて送る。
 Rからの返事は、思っていたより早かった。

『手紙ふにゃふにゃになってましたよ。どうして濡れたタオルなんですか?』

 濡れたものと紙をいっしょにしたらダメだったと、当たり前なことを反省した。
『君が、殴られたと思ったから』
 今度は便箋の端っこだけ千切って送った。
しかし濡れタオルが返ってこなかったところをみると、なにかしらの形で役に立っているのかもしれなかった。

それが果たして良かったのか、悪かったのか。僕には判断がつかない。

『殴られたー。うん、殴られました』

 ひゅっと、呼吸が止まったのかと思った。本当に止まっていたのかもしれない。

『ほんとに痛かった。こんなに痛くて震えたのは、二度目です』
『一度目は、なんだったの』
『それを訊くんですね』
『じゃあ、訊かないよ。君が、独り抱えて生きると言うなら』
『うん。訊かないで。訊かないでください』
『でも、君の話は、聴くよ』
『受付さんは、良い人、ですね』
『でも、僕だって、悪い人かもしれない。僕は、人から良い人だって言われたら、それと同じだけ、僕は悪い人だよって教えたくなるんだ』
『わたしも、悪い子なんです。色んな男の人とホテルに入る、悪い子なんです』
『僕は、それを悪いだなんて思わない』
『わたしは、そう思ってる。そうじゃなきゃ、嫌なんです』
『それじゃあ、僕らは一緒だ』
『そうかも。一緒かも。でも、ちがうかも』
『今日はなんだか、かもしれない星人だね』
『わたしの友達に、そういう子がいたから。ちーちゃんって言うんだけど。その真似っこ』
『ちーちゃんって、この前話してた子か』
『そう。岩手にいたときの友達。唇がちっちゃくて、よく爪をピンクにぬって先生に怒られてた』
『岩手は、遠いな』
『遠いですよ。梶栗郷からだったら、韓国より遠いかも』
『韓国が三六一キロメートルで、岩手が一五一四キロメートルだよ』
『受付さんは意外と、物知りですよね』
『韓国はさっき調べたけど、岩手は昔調べたことがあったから』
『岩手まで距離を? どうしてですか』
『僕はものを考えるとき、まず自分と相手に開いた距離について考える。東北で地震が起きたときも、津波が起きたときも、僕は震源地と自分の距離を測った。津波の高さと、僕の身長を比べた』
『やめて、ください』
『どうして』
『無神経ですよ、そんなの』
『そうさせているのは、君だろ』
『やっぱり、やめないでください』
『君は、難しいことばかり、僕に書いてくる』
『一五一四キロメートルだから、そう感じるのかもしれません』
『梶栗郷から、岩手までの距離が?』
『わたしと、受付さんの距離』
『それは確かに、難しい距離かもしれない。君の姿が、見えないわけだ』
『わたし、今でも岩手にいるような気がするんです。だって、目を瞑れば陸橋の赤さを思い出せるから。耳を澄ませば、シンバルが響いているから。こんなにも鮮明だから。わたしは、生まれたのも、育ったのも、あの港町だった。へその緒は、ずっとあそこについてる』
『僕は、ファッションホテルの受付室にいる。座っている。過去にも、未来にも、もうここ以外のどこにも僕はいないような気がする』
『でも受付さんには、受付さんじゃない時間だってあります。家に帰った受付さんは、いったい誰なんですか』
『誰でもない。僕は、何者でもないんだ。普段の自分よりホテルマンの僕の方が、いくらかマシな人間でいられる。だから本当の僕は、このホテルの受付にしかいないんだと思う』
『幽霊みたい、受付さん』

 どんな言葉も足りなかった。どんな感情も、ペン先から滲み出るのは僅かだった。

『そうありたいとは、いつも、考えるよ』
 固く握りしめた右手を、左手で抑え込むようにして書いていた。
Rを知りたいという下卑た欲望が、彼女の住まう世界に取り返しのつかない穴をあけてしまった。
 その穴を塞ぐように、シワの寄った便箋を手で押さえる。

『それでも君が、臆病な僕を、赦してくれたから』
 いま僕は、人間でいられるんだよ。
 この一文を書いただろうか、書かなかっただろうか。送信ボタンを押したときには曖昧になって思い出せなかった。
 数分後に届いた便箋は、二つ折りではなく紙飛行機だった。
 手紙が裂けてしまわないように慎重に開くと、そこには「ありがとう」と「ごめんなさい」が同じ行に並んでいた。

『それでも、やっぱり、わたしは、釜石にいます』

指先でなぞるだけで消えてしまいそうな筆跡を、口元を抑えながら目で追う。
『わたし、冬の釜石が好き。屋根の雪だけが解ける、二月の終わりが好き』
B5サイズの便箋は、Rのいる世界を覗き見るための小窓に取って代わった。
『港町から神社に続く坂道を少し登ると、すすけた赤い屋根の家が見えます。ガラス引き戸の玄関に、ゆるし色のシクラメンが咲いていたら、それがわたしの家です』

 鍵付きの小窓から覗く釜石の町並みは、まるで夜明け前に歩く梶栗郷とどこか似ていた。時間がゆっくりと流れて、

『釜石駅のホームから線路を覗くと、赤茶色の鉄骨が二本、雪の積もった白い地面を這いながら彼方まで延びていて……それは決して交わらないんです。そしたら「危ないよ」って、ちーちゃんが話しかけてくれました。雪のせいで、電車の音なんかぜんぜん聞こえないんです。だから、二人で話していたら、いつも電車がいきなり現れたみたいに出てきて、びっくりして、ちーちゃんと笑うの』

 向かい側のホーム。セーラー服を着た女子高生が二人。小鳥が歌うように笑っていた。
 僕は違う路線の電車を待ちながら、文庫本を読んでいる。

『ちーちゃんって子は、よく話に出てくる。仲が、良かったの』
『……ふふ。そうですよ。ちーちゃんとは同じ中学だったし、部活も吹奏楽部だった。高校も同じ。帰り道も一緒でした。学校に着いたら、旧校舎の部室に行ってシンバルを、乾いた雑巾でふいて、教室まで歩くの。ちーちゃんはトランペットで手入れに時間がかかるから、ここでお別れ』
『君が、そこから手紙を送ってくれているのなら。
この気送管ポストは、ずいぶん遠くまで伸びているんだね』
『そうみたいです。シュルシュルー。シュルシュルー』
『シュルシュルー。シュルシュルー。君は、シンバルの音って書いていた』
『はい。シンバルは、うまく引き合わせたときに、シュルシュルー。って、響くんだって先輩が教えてくれました』
『この前書いていた、シンバルの先輩?』
『そうですよ。他にはいません。私にとっての先輩は、あの人だけです』
『君にとって先輩はなんだったの』
『先輩は特別でした』
『君にとって特別って、なに』
『自身のカラダの内側には収まらない、命のこと』

 それは、言いようもない特別だと思った。

 僕は白紙の便箋を千切って、送った。何も書いてはいないのに、カプセルには僕の一部が白く燃え盛っていた。
この何にも勝ることのない便箋を何枚積み重ねれば、彼女の特別に追いつくことができるのだろうか。
『わたしって子どものころから、自分のものにはちゃんと名前を書くタイプだったでしょ』
『君の子どもの頃を知らないけれど、なんとなくそんな気がするよ』
『人に貸したりするのも、イヤだったし』
『そう、だろうね。きっと君はさ、子どものころあまり誰かと遊ぶのが得意じゃなかった。僕と似ていて、家で読む絵本が好きだったんだ』

 そうだった。次に降りてきたカプセルを開くと、目覚めるような一言。そして記憶を辿るように文字が続く。

『わたしも、本が好きでした。同じ本を、何度も読むのが好きでした。読むたびに鮮明になっていく声や、そのなかで生きる人たちが好きだった』
『もう、本は読まない?』
 小さく頷くRの姿が浮かんだ。
『泥で濡れた本は、ページが引っ付いて、捲れないんです。だから、わたしはもう本を読まない人になりました』
 想像した。傲慢かもしれないと怯えながら、僕は彼女になりきって、倒れた本棚や波に揉まれて膨れ上がった無数の書籍の前に立った。そのとき僕は、自分がどんな書籍を読み、人格を形成してきたか、何も思い出すことができなかった。バラバラになった何かの残骸に、もう一度手を伸ばすことができなかった。

 僕は傷付いていた。想像の中でさえ、乗り越えることのできないまま身体が動かなかった。
『わたしの持っている物って、わたし自身となんら変わらない。カラダの延長線みたいな感じなんです』
『人は、独りでは生きられないってこと?』
『違いますよ。ずっと使っているノートとか、自分の席の机とか椅子とか、お気に入りの小物入れとか。そういうものも、わたしなんだって、こと。わたしの、一部なんです、ぜんぶ』
『シンバルも?』
『うん』
『その先輩も?』
『うん』
『それは……先輩が特別だから?』
『そうかも。あんまり話す人じゃなかったけど、優しい人だった。心がね』
『先輩は、どんな人だったの』
『先輩は一つ年が上で、吹奏楽部のなかで一番背が高くて、なんだか伸びきったゴムみたいにひょろっとしてました。猫背で、肌なんか、わたしより白い。静かな人だった。最初は、冷たい人なんだと思っていました。他の部員からも良い評判じゃなくて。入部したての頃なんか、目も合わせてくれなくて。感情の起伏が少ない人だった。でも、楽器を触っているときは、なんだか悲しそうな目をするんです』
『何が、そんなに悲しかったんだろう』
『わかりません。でも、それが分かり合えそうな瞬間はあって。
 夜の河川敷で先輩と踊ったことがあるんです。
三陸鉄道の赤い陸橋の下で。ゴロゴロとした石の上を、転ぶようにして踊った。クラシックもヒップホップも、お気に入りの曲をかけた。一曲が終わるごとに、うやうやしく頭を下げる先輩が好きだった。橋の下、めちゃくちゃに踊った。真夜中になるまで。マイナス3度の世界で先輩と踊った。
 変な先輩でした。でも決して、冷たい人ではなかった。変で、とても優しい先輩だった』
『きっと、それは、すごく変な子だったんだろうね』
『そうですね(笑)。そういうのを隠すのが下手な人だったんです』
『みんな、隠すのが上手すぎるんだ』
『それほどでもありませんよ。フフフ』

 Rの書き方は自慢げに読めたが、やっぱりそれは寂しさを誤魔化すための嘘だった。

 送り合う手紙たちは、君を探すための地図のようになっていく。 
『あの時から、先輩が優しい人だって分かりました。先輩は、いつも部室のある旧校舎の、誰もいない教室でシンバルを叩く練習をするんです』
『吹奏楽部の子が音合わせとかで、校内にちらばってたりするよね』
『それは音がかぶらないようにですよ。みんな、ここはわたしの場所だ! って、野生動物みたいな意識があって。そこには絶対に入っちゃいけないの』
『絶対に、ダメなのか』
『ダメ。血のつながった親だって、入れないんですから』
『なんとなく、分かるよ。僕もベッドを整えるときはひとりだ。清掃は二人でするけれど、シーツを交換するときひとりだ。一緒になんてできないと思う』
『先輩も、いつも旧校舎の空き教室に一人でポツンといるんです。シンバルは音の跳ねっ返りも気を付けないといけないから、先輩は、必ず、旧校舎のどこかの教室に、いました』
『でもその人のいる教室は、きっとバラバラじゃなかったはずだよ。天気とか、曜日とか、何かしらのルールで決まってたりするんだ。だから、君は探すことができたんじゃないか』

 どうしてか僕には、分かった。
 少なくとも、僕だったらそうするだろうという虚しい確信があった。
 便箋が、帰ってきたときの『そうなんです』という肯定が、怖くもあり、嬉しくもあった。

『先輩は、縄張り意識みたいなのはあったかもしれないけど、わたしが先輩のいる教室を見つけたら、嫌な顔一つしないで、シンバルの叩き方を教えてくれました』
『先輩は君にとって、特別だった』
『特別だった。話したりとか、触ったりとか、服を引っ張ってみたりとか、ちょっとずつ、わたしの一部を、先輩にお裾分けしました。
 先輩だけじゃありません。中学生のときから使ってたボールペンとか。筆箱とか、本とか、家とか。携帯とかスクールバックとか。みんな、みんなそうだった』
『君が言うように、自分以外のもので、できているのかもしれない。人間ってやつは』
『うん。わたしの七十パーセントはそういうものでできてた』
『七十パーセントは、多い。多すぎるよ』
 次に返ってきたカプセルのなかの便箋は、一言、二言どころではなかった。一枚の便箋のなかには溢れて零れそうなほどびっしりと文字が書き込まれている。
『七十パーセントは、多いですよ。ぜんぶ、流されたけど』
 Rに綴られた文字列は、読んでいるだけでカラダの芯から熱を奪っていく。
『三月だから、もう少しで高校二年生になるってときでした。まだわたし、高校一年生でした。
春休みに入ってたけど、補修の授業があって。わたし、古典が赤点だったから、補修を受けてました。古典の津留崎先生がつくったプリントを解いてました。
 学校には、吹奏楽部と、野球部と……あとはちらほら。学校にはちょっとだけ生徒がいました。
特に吹奏楽部は、次の日にコンクールを控えていました。だから、先輩も学校に来てました。わたしは、メンバーに入ってないから、普通に補修です。でも、朝に、先輩と会ってお話できましたから、少しだけ、良い日でした。
吹奏楽部の友達は、みんな音出しをしていた。校内のあちこちにいました。みんなの音は、教室にいても、しっかりと聴こえてたんです。非常階段とか、渡り廊下とか、校庭のサッカーゴールの前とか。教室はちょうどその中心にあって、補修を受けながら新しい音楽が次々と生まれる。自分がその観客でしかないのが、ちょっと寂しい。そんな時間。
授業中も先輩のことばかり考えてました。先輩は、旧校舎の音楽教室でシンバルを叩いてました。わたしのいる新校舎からは見えません。でも、シンバルの音が聞こえていました。シュルシュルー。シュルシュルー。って。あの音は、先輩とわたしを、細くて、強い針金のような糸でつないでくれていました。
やっぱり先輩は、わたしの七十パーセントでした。もしかしたら、わたしが先輩の一部だったのかもしれません。お互いが、そう思っていたのかも、しれないけど』
文章はそこで途切れていた。
僕は返す言葉を探そうとしていたが、カプセルのなかにもう一枚、小さな紙きれが落ちていることに気が付く。
『受付さん、今って十四時四十六分、ですか?』
 時計を見た。二十時半より、少し前くらいの時間だった。
 『そうだよ』と、僕は送った。
 文通をしているなかで、Rは一番時間をかけていた。三十分を過ぎたころに、シュルシュルー。シュルシュルー。とカプセルが降りてきた。
 青色のカプセルには、便箋が五枚も入っていた。それをある種の覚悟をもって、開いた。
『建物が揺れてるって思った。でも、校庭の桜の木が揺れてるのを見て、本当は地面が揺れてるんだってわかりました。最初は縦揺れだった。ブレーキの壊れた自転車で獣道を全力で走ってるみたいな、そんな揺れ方です。
 でも横揺れが来たときは、そんなものじゃありませんでした。そんなものじゃなかった。大きな怪物が、校舎を両手で挟んで投げ飛ばしたのかと思って。そうじゃないと、あんなの説明ができない。
もう、立てなくて。立てないってすごく怖くて。揺れすぎてもう身体の半分は浮いてる感じでした。
死にたくなくて、みんな叫ぶの。先生も、男の子も女の子も、みんな叫ぶの。でもあまりに揺れが長くて、みんな叫び疲れて、だまって、ひたすらに怯えて。強張った顔で泣いて……。わたしも、そうでした』
 息を吐いたのに、僕は吸うことを忘れていた。
頭の奥の方が冷たくなる。爪で胸を掻きむしりたくなって、ホテルの制服のボタンが飛びそうになるくらい握った。
『補修をしてくれてた津留崎先生は、野球部の顧問で、古文の先生でした。もう六十歳くらいの人で、ずっと岩手で暮らしてた人だから、地震よりも、そのあとの高波が怖いって知ってたみたいでした。だから、まだ少し揺れてたけど、必死になって、生徒を外に連れ出そうって、高台に避難させようってしてくれました。でも、玄関から外に出ようってなったとき、もう水が、川から溢れて、わたしたちを追い越してた。
川の水が、山に向かって逆流してるんです。意味がわからなくて、それがゾッとするほど怖いんです。人って、水で死んじゃうんですよ。
津留崎先生は、山側まで走っても間に合わないかもしれないって、考えたんだと思います。授業でいつも腰が痛いなあって言っていた優しい先生が、職員室まで一生懸命走って、一番前の席で補修を受けていた坊主頭の子に屋上の鍵を渡しました。「屋上に行きなさい。君がみんなを連れていくんだ。君なら、大丈夫だ、大丈夫だ」って。津留崎先生は、校内に残っている生徒がいないかどうか確かめないといけないと言います。
振り返った男の子の、白く強張った顔。わたしたちは何も言えません。その選択の正否を問えるほど、わたしたちに時間も余裕もありませんでした。ばらばらとした足音が、何度もわたしたちから言葉を奪います。
屋上は、寒かった』

 二枚目をめくった。紙に触ったときに親指の腹を切った。じんわりと、血が、流れて、それがまるで自分のものではないかのように思えた。

『校内アナウンスがずっと流れてました。津留崎先生の声だった。授業のときはすごく穏やかな声なのに、そのときだけは聞いたことがないくらい声を張り上げてました。「これは訓練じゃない! もうすぐ津波がくる! 津波が来るんだ! 校内にいる生徒は校舎の屋上に避難しなさい! 友達を探すよりも屋上へ行きなさい! 慌てちゃいかん! 急ぎなさい! 急ぎなさい! 校舎の屋上に避難しなさい! 自分の命を守りなさい!」何回も、何回も。あの声は、今でもはっきりと覚えてます。
 放送のおかげで、敷地内にいた野球部の生徒も、吹奏楽部の子も、ほとんど屋上まで来てくれました。吹奏楽部の子は、裸足同然だったけど、楽器だけは抱きしめてました。ちーちゃんも、震えながら自分のトランペットだけは抱きしめて、そのなかにいました。
 でも、先輩がいませんでした。
何回も叫びました。咳がでた。でも彼の名前を呼びました。裏返って、変な声が出た。でも、先輩は、新校舎の屋上へは来てくれませんでした』
 三枚目をめくった。何か、とてつもなく大きなものが迫って、僕を飲み込もうとしていた。それはすでに、僕の最も深くて脆いところに迫っていた。
『ばあーん。シュルシュルー。って、シンバルの音が聴こえました。それが先輩のシンバルだって、わたしにはわかりました。
新校舎の屋上から見下ろすと、先輩は旧校舎の屋上にぽつんと立っているのが見えました。
 屋上に避難しろって放送がかかったから、新校舎じゃなくて旧校舎の屋上に行っちゃったんだと思います。旧校舎は部室棟で三階までしかありませんでした。
先輩だけじゃありません。吹奏楽部の子も数人、旧校舎の屋上にいて、わたしたちに手を振ってくれていました。
まだ水は校舎のなかにも入ってないくらい浅くて、とても広い水たまり、そんな感じにしか見えませんでした』

 ぽっかりと、一行だけが空いていた。

『先輩は屋上に、シンバルを二組もってきてくれていました。先輩は、わたしのシンバルも持ってきてくれてて。それがもう、十分だよってくらい嬉しかった』

Rは、僕だけにこれらの言葉を綴っていたわけではないようだった。
そういう事実ばかりが、僕の心臓より下を、暗く、重くさせた。

『水かさが増した』

 四枚目をめくると、その一行目が僕の脳天を殴りつける。

『津留崎先生のいる一階が沈んだ。スピーカーからはなんにも聴こえなくなった代わりに、家が割れる音と、重なった叫び声が聞こえた。新校舎の二階が見えなくなった。みんなは、アレを津波だとか高波だなんて言うけれど、わたしはそう思えませんでした。海が青色だなんて、二度と信じられない色でした。
二段重ねになった漁船が川を溯って、家屋を飲み込んで、アスファルトを叩き割って、電柱をドミノみたいになぎ倒して迫ってきた。アレは、確かな意志をもって、わたしたちを殺そうとしてた。わたしには、そういう化物に見えた。
 旧校舎の三階は、もう見えなくなってた。水の高さは、旧校舎の屋上まで、もう、三十センチもなかった。水かさは、まだ止まらなかった。止まってくれなかった。
 音にならない轟音が響いて、隣にいるちーちゃんの声も、自分の声もなにも聞こえなかった。旧校舎の屋上にいる女の子が泣きながら何か叫んでた。でも、なんにも聴こえなかった。みんな見たことないくらい口を大きく空けて、顔を固くして叫んでるのに、何にも聞こえなかった。なんにも』
 五枚目をめくった。最後の一枚だった。
『でも先輩は、喘息もちの人で、大きな声をあげられる人じゃなかった。先輩、まるで演奏が終わる前みたいに、じっとわたしを見上げるから、わたし、それに怒って、泣いて、手を伸ばしたのに、そんなの届くわけないって分かってるみたいに先輩がくしゃって笑うから、セーラー服も脱いで、フェンスの下から出したのに、先輩、手も伸ばしてくれなかった。
あのとき先輩、両手にもってた、わたしのシンバルを叩いたよね。
 ばあーん。シュルシュルー。
 ばあーん。シュルシュルー。
 ばあーん。シュルシュルー。
 ばあーん。シュルシュルー。
なんにも聴こえないのに、先輩のシンバルだけは、ちゃんと耳まで届いたよ。
 黒くうごめく化物は、先輩のふくらはぎくらいまでの高さしかないから、まだ大丈夫って思っていて。でも、そんなわたしを叩き潰すように、信じられない勢いで先輩の足をすくって。
 あっ。って、声をあげたらもう先輩がどこにいるか見つけられなかった。
あの化物は、先輩のいる旧校舎を丸ごとかみ砕いて、飲み込ました。わたし、それを見てました。ついさっきまで先輩がいたところには軽トラックとか原付が流れてきてた。でも、シンバルの音は、シュルシュルー。シュルシュルーって。まだ確かに、聴こえていました。先輩を見つけられなくても、しばらくシンバルの音はわたしに届いていました。だから、きっと、どこかの木の枝にでも引っかかってるんだって自分に言い聞かせた。じゃないと、わたし新校舎のフェンスから飛び降りてしまいそうだったから。
 でも引き潮になったとき、あらゆるものが海へとさらわれました。車もそう、家もそう、岸に並んでた漁船も、校庭にあった桜の木も、車も、冷蔵庫も。海の上で人と一緒に浮いてました。
それは先輩のシンバルの音もさらっていきました。そのとき、また、泣きました』

 彼女の書いた便箋のなかには、手のひらから零れるほどの地獄があった。

『そして、わたしと、少しのコンクリートだけが、残った』

 最後の行には、それだけが書かれていた。
 乱れた筆跡は、自分より一つ年が下の女の子が書いたとは信じられない。あまりにも苦しそうな文字だった。
 いま、自分のなかにいるRという少女は、顔つきはまるで大人のようであるのに、丸裸の赤子のように怯えていて、僕がかけるどんな言葉も無神経なもののように感じられた。

『僕は、二年前、高校二年生だった』

 何をしたいのだろうと、自問しながらペンを動かした。強く自分に問いただしても、暗闇で文字を書いているような気持ちがずっと続いた。その間も何かが、ペタペタと不気味な足音を鳴らしながら僕を追いかけてくる。
 そいつは人の型を模していて、薄っぺらいのに僕に覆いかぶさろうとするほど大きかった。
自分を追い脅しているのは罪悪感だった。
 そいつが、じっとりと僕を見据えている。

『通っていた高校も梶栗郷にあって、そこは揺れなんて感じなかった。海沿いには近寄らないように帰りましょうなんて、放送委員のたどたどしい校内アナウンスにも、緊張するよりもどこかワクワクしていた』

 来るな。来ないでくれ。
 罪悪感を振り払おうと叫んだつもりが、声になってなかった。そいつはもうすでに追いついていた。うずくまって震える僕の代わりにペンを握っていた。

『対岸の火事でしかなかった』

 胸にわだかまっていた感情を吐き出すと、強張ったカラダからごっそり体重を失ったみたいに力が抜けた。
僕は、楽になりたいわけじゃなかったのに。

『そっちは、揺れませんでしたか』
『揺れなかった』
『……そうですか』

 謝りそうになるのを、腹に力をいれてぐっとこらえた。彼女に届くことのない謝罪が、意味のないことだと知っていた。

『わたし、避難所にいるとき、あの屋上で、見た光景が日本の、そのさらに端っこでしか起きてないって信じられませんでした。あのときは、わたしだけじゃない、地球に生きる人のすべてが同じ光景を見て、同じ苦しみを受けているんだと思いました。そしたら、辛くても、少しだけ、我慢できたから』

 岩手を離れたとしても、Rは新しい暮らしに傷つけられていたはずだ。新しい筆箱を買わなければならなかったとき、吹奏楽部の音出しを聴いたとき、男の人に触れられるとき。Rは、自身を形作っていた七十パーセントを想って、どうしようもなくなる。僕の知る彼女は、そういう自罰的な人間な気がした。
便箋をめくる。二枚目の紙には、まるで穴埋め問題のように一行ずつが空いて書かれていた。

『受付さん』
 なに。
『地面が、いつまでもそこにあるって思ってるでしょ』
ああ、そうだよ。
『自分は海に飲まれても、泳げるって、思ってるでしょ』
つい、さっき、までは。
『海がずっと青色だと思ってるでしょ。だから、青色が好きだなんて。距離を測ったなんて! 平気で、何も知らないその指で……わたしに、書けるんだ』

 そうかもしれない。
 なぜなら僕は、何も知らなかった。
 家が海水で腐っていく臭いを知らない。瓦礫の中を上履きで歩く心細さを知らない。泥で覆われた人の白さを知らない。無知で愚かなこの僕を、責める彼女にいったい誰が非難を向けられるだろうか。
遠巻きで見ているだけだった僕らが、今さらどれだけ言葉で取り繕っても、それは無神経で暴力的な存在に変わりはない。
 手紙のやり取りだけは続いた。
そのなかで、僕は少しだけRの家庭事情を知ることができた。父親と母親を含めた三人家族は無事だったということ。釜石で暮らしていた家は津波によって浸水した船のオイルや泥のせいで立て壊したということ。中妻の体育館にテントを張って生活していたなかで、父と母の口論が続き、家族が不仲になっていったこと。
彼女にとって、それらはまるで取るに足らないことのように書かれていた。
『三月三十日に、先生の離任式があったんです』
 僕は白紙の便箋を返した。
 空の鍋を沸かしているような、行き場のない熱が全身を焦がした。
『お母さんが気を遣って、友達に会いに行ってきなさいって言ってくれて。そのときのわたし、とにかく酷かったから。お母さんも、うっとうしかったのかも』

白紙を送った。

『誰のかも分からないローファーを履いて、人から借りた自転車で坂を下りたら、米軍の人がつくってくれた道があるの。それ以外はないんですよ。空から、爆弾が落とされたのかって思うくらい。でも、土色の冷蔵庫と電子レンジがいっぱい転がってた。一回だけ、一回だけですよ。自転車を降りて、冷蔵庫の中を、そっと覗いたんです。
でも、泥しか入ってなかった』

 白紙を送った。

『ああ、もう、ダメだ。って、なった。ここには、いられないよ。って、涙みたいなものを、拭きながら、また自転車を漕ぎました』

 三回、白紙を送った。

 そうする以外の術(すべ)を持ち合わせていなかった。

『「がんばれ」なんて、無責任な言葉で忘れないで。
「瓦礫」なんて、血の通わない言葉で括らないで。
 ぜんぶ、ぜんぶ、わたしだよ。わたしの、ぜんぶだったんだから』

 両端がズレたまま折られた紙には『ごめんなさ、い。今日はこれ以上、話せそうに、ないです』と落ちそうなほど端っこに書かれていた。その言葉によって安心したのは、僕の方だった。

 もう、十分すぎた。

 Rが血を吐くように綴る言葉の数々を目にしても、彼女の苦悩の一部さえも理解できていなかった。そう思うと、本当に他人のようで。『もう、いいよ。大丈夫だよ』と、慰めに似せたエゴを返すことしかできなかった。

 カプセルが上ると、絡まっていた糸が解ける音がする。
 Rは遠く離れたこの地で、見つかるはずもない『先輩』を探しているのだろうか。だから残った三十パーセントを抱えて、わざわざ海に近いホテルを訪れているのではないのか。

 Rが部屋から出たあと、彼女を見送る前にマリーさんと受付を交代した。パーティション越しでさえ、僕が彼女の前に立つことは憚られた。マリーさんが僕の顔を見て何かを言っていたが、気に掛ける余裕など持ち合わせてはいない。

 フラフラとした足取りで201号室に向かった。ドアを開けて入ると、部屋のなかは男と諍いがあったとは思えないほど元のままだった。送ったはずの便箋も、どこにもなかった。唯一、割れたティーカップの僅かな破片が丸テーブルの足元からベッドにかけて雪のように散っている。

 いつもと違ったことといえば、ベッドシーツに深く皺が寄っていたことだ。くたびれたシーツは、まるですべてが流されたあとの波打ち際を眺めているようだった。

 その生まれたての憎しみに、どう触れていいか分からず、僕はしばらくベッドの前で立ち尽くしていた。


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第9話

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