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「海のシンバル」第9話
第9話 ずっと同じ夜を生きているのに
十二月になると、ファッションホテル『ピシナム』の部屋から見えるビーチはまるで死に絶えてしまったかのように静かになる。一方で年末の『ピシナム』は手が回らなくなるほど慌ただしい日々になる。
飲食店で働いていた経験もあったため、年末にかけて忙しくなることについては覚悟していた。
ありとあらゆる光の線がレンズを通して一ヵ所に集まるように、男女の関係は一度『ピシナム』に収束される。
クリスマスや忘年会、駅前の繁華街の各店で行われるイベント。突発的、あるいは計画的にホテルを利用する男女は非常に多い。
休憩を目的とするお客様が多い『ピシナム』は、通常のシティホテルなどよりもシーツやカバーの消費が激しい。
九月から少しずつ蓄えていた予備のベッドシーツは、クリスマスを終えた時点で底をつきかけていた。シーツを回収するクリーニング業者も、いつもは一日一回の回収を、朝夕の二回に分けて来てもらっている。
もちろんホテルでは人数的な増員も行われていた。清掃シフトもアルバイトは通常二人のところを六人体制で作業をしている。普段は見ない昼勤のスタッフを見かけることも増えていた。
『ホテルの仕事はやっぱり大変ですね』
Rは、あの長く重たい出来事からまた『ピシナム』を再び訪れるようになっていた。
ただ、そこには紙を埋め尽くすほどの衝動はない。
少し、ペースを落としましょう。
まるでそう言われている気がした。
『どうだろう。忙しいとは思うけど、大変だなとはあまり考えてない。ここでは何者かになれるから。僕がホテルマンであるように。このなかで、完結できるから、まったく違う存在になれる。だから、居心地がいいと思うのかもしれない』
目まぐるしく動くホテル業務のなかで、受付は一息つくことのできる貴重な時間だ。
最近は受付業務中に請け負う仕事も種類が増えていて、マリーさんは文句を言いながら従業員のシフト表を作成している。
僕はといえば、もっぱら伝票整理に明け暮れていた。
『でも変な人も多くなるよ。この前は浴槽に大便が浮かんでて、さすがに戦慄した』
『え、それって日本の話ですよね?』
国内のことだし、もっと言えば君のお隣部屋での出来事でもある。
『排水口に入ったら臭うから、揚げ物料理するときに使うすくい網で残らず掬うんだけど。もう戦場だよ。一欠片でも残しちゃいけないから、目を皿にして探すんだ』
ちなみにマリーさんはこの作業がとんでもなく早い。目にも止まらぬ速さでお風呂の水を聖水のように元に戻すことができる。
『あは、なんだか世紀末ですね。わたしも浴槽に、残しておきましょうか』
まったくもってRの意図が組めなかったので『どうして?』とシンプルな質問を送る。
『受付さんに拾ってもらえるんだったら、いいなって思ったので』
少しだけ想像してみた。不思議とまったく嫌な気持ちにはならなかった。掬い網やゴム手袋も要らなかった。僕は崩れないように、小指の爪から水面に差し入れ、慎重に斜め下から持ち上げる。するとそれは透明で、氷のように冷たい金魚だった。
それでもホテルマンとして『嬉しいけど、遠慮するよ』と送ると『冗談ですよ(笑)』と返ってきた。
嘘でもいいから「ありがとう」とか「嬉しいよ」とか、そんな言葉が出てくる人間だったら、どれほど気楽なままでいられただろう。
そんなちょっとした後悔が、ざらっとした気持ちになって尾を引いた。
『またのお越しを、お待ちしております』
僕らの関係性にまったくの変化がなかったわけではない。
少しずつであるが、サンテンイチイチの話もするようになっていた。
Rは二年前の話をした日には、よくシーツを使って言葉にはならない部分を伝えた。最近の彼女はチェックアウトする前にベッドの白いシーツを粘土のようにこねくり回した状態で部屋を出る。僕はそれを見て、今日はだいぶ気持ちが荒れているようだとか、見当をつけた。
しかし僕らの関係とは、成長したり深くなったりするものではなかった。ふと僕はそれに気付いてしまうことがある。
『どうしたの、何かあったの』
三十分ほどしてようやく返事が来たときがあり、奇妙な不安に駆られて彼女に尋ねたことがあった。Rは、僕が便箋を送るといつもすぐに返事を書いてくれるから、それがなおさら気がかりになっていた。
『あ、いま。ちょっとだけ、帰っていたので』
受付室の壁に取り付けてある部屋番号パネルを見上げる。Rのいる201号室の部屋のパネルは灯りがついたままになっている。つまりは、まだ彼女が部屋にいるということを示している。
『帰ってたって、どこに』
『少し、一五一四キロメートルまで』
ボールペンが僕の指先から逃げて、机の上を三回転がった。それを拾おうとした手からは、嫌な汗が浮いている。
『どうやって、帰るの』
『飛んで、いくんです。受付さんは飛べないんですか』
飛べないと書いて送ると、Rはとても驚いていた。
『大丈夫、飛べますよ。みんな飛べるんです。飛べないと言っている人は受付さんが飛べなくてかわいそうだから、ウソを言ってるんですよ』
彼女はなんでもないように答える。
『わたし、飛べるんです。前は、寝ているときに帰ってたんです。でも最近は、このシュルシュルー。シュルシュルーって音を聴いてると、よく帰れるんですよ。
いわて銀河鉄道の線路沿いをトンビみたいに飛んで、釜石まで帰るんです。リアス式海岸にある灯台をぐるりと回って、学校のグラウンドにある仮設住宅の白い屋根で少し休んで……。ずっとここにいたいって思うのに、ホテルの部屋に戻ってきちゃう』
Rは文通のなかで、よく岩手の、特に釜石の様子を話してくれた。
秋に開かれる産業祭が再開したことを喜んでいた。海側の瓦礫は撤去が進んでいるが、山沿いの重機が入れない場所はまだ手つかずなことを憂いていた。
初め、Rの書く『飛ぶ』とは一種の回顧であると解釈していた。しかしそれは間違いであることに気が付く。彼女の記すものは決して風景だけに留まらなかった。
家族の写真を服に縫い付けて、毎朝海沿いを捜索する中年男性。避難所のプレハブ住宅が密集するなか、自分の家が分からなくなって座り込む認知症の高齢女性。深夜の甲子川、服を着たまま腰まで浸かり、祈るように首を垂れる痩せた青年。Rの釜石はリアルタイムで更新を続ける。
その一つ一つを彼女は、自分の子どもに話すかのように丁寧に書いてくれる。すると半信半疑だった僕のなかに、Rと同じ釜石の街並みが(部分的で、縮小化されたものではあるが)生まれた。だから僕は、それを嘘だとは思わなかった。
『受付さんも、そのうち飛べるようになります。飛べるようになったら、一緒に岩手に行きましょう。迎えに行きますから』
しかし僕はRの誘いに何の言葉も返せなかった。
どうしても、彼女と飛び立つ未来が想像できなかった。こんな小さなジオラマでは飛ぶことも、歩くこともままならないことは分かっていた。飛べなかったことばかり考えて失望していた。自分は心の寂しい人間だと思った。
何かを間違えてしまった心の冷たさを誤魔化すように、文通はより熱を帯びた。
なんとなく僕らは、別れ際に『さよなら』を書くのがこわくて、お互いに宿題を課すようになった。会計の前に『するべきことリスト』をカプセルに入れて送り合った。
僕は古典が苦手だと言っていたRに、古文単語の書き取りを宿題として出していた。彼女が高校三年生だとすれば、いずれは受験に役立つかもしれない。
Rはといえば、『海峡大橋の下の岩場を歩いてきてください』とか『吉母の海岸を見てきてください』とか。つまらない宿題ばかりを出す僕をからかうように、『ピシナム』以外のどこかに向かわせる課題ばかりを出した。
大学を休学し『ピシナム』の仕事でしかあまり外出をしなくなった僕にとって、それらの経験はどれも新鮮に感じられた。
彼女が指定した場所には一人で向かった。しかし僕が思うことはRのことで、それ以外はなかった。彼女と同じ景色を見て、同じことを想う努力をした。一人でいることは、訪れた時間が違うというたった一点だけで、それはとても些細なことだった。
Rが見たものを目にして、感じたものをより深く考えることは、気休め程度だが安らぎを与えてくれた。
君のいる世界に行きたかった。
ただ、それだけの、子どものような僕が、自転車を漕いで走っていた。
僕からすればまるでRは身体をもたない幽霊のようで。海から離れるにつれ薄れていく気配に、どうしようもないほど焦燥を駆り立てられた。
『たまに餌の入った袋を君に渡してるけど、ちゃんと金魚にあげてるの?』
書き出した文字に苛立ちはないだろうか。
手紙を介してRが僕を見てくれることに感謝した。紙に落とした言葉を、好きなだけ吟味することができたからだ。
『ちゃんと男の人が帰ったあとに、あげてますよ』
尋ねた質問に『当たり前じゃないですか』と、Rは心外そうだった。
『まさか裸で金魚に餌をあげてるの』
『金魚だって裸なんですから、お相子ですよ』
Rはあっけらかんと書いている。
裸で金魚に餌をやっている少女の構図を想像すると、自然に苦笑が漏れた。
『201号室なのは、金魚がいるからなのか』
僕にとっては、どこか聞きそびれていた疑問だった。僕がRを気にかけ始めた理由の一つでもある。
そういえば話してませんでしたね、と。彼女は前置きをして教えてくれる。
『吹奏楽部の、部室で飼ってたんです。金魚』
『世話は、君が?』
『まさか。わたしはたまにエサをあげるくらいでしたよ。金魚のお世話は、ほとんど先輩がしてましたから』
先輩という単語が再び一人の青年を想起させる。
『先輩って、シンバルの?』
『そうですよ』
Rからずっと先輩の話を聞かされていたせいか、僕にとってもその先輩がまるで親しい友人だったのではないかと思えてくる。
『でも先輩、金魚すごく大切にしてたんですけど、名前を付けなかったんです。おかしいですよね』
心当たりはあった。それを書くかどうかだけ迷った。
『僕は、なんとなく分かるよ』
彼女から初めて白紙の便箋が送られてきた。
その部室で飼っていたという金魚は、Rの何パーセントを占めていたのだろうか。
『君は知ってる? 金魚の寿命がどれくらいか』
『わかりません。十年くらい?』
『それは、うまく環境に適応できた金魚だけだよ。ふつう金魚は、どれだけコツを守っても三年も生きられない』
二階の飼育担当はマリーさんだった。
だからたまに、あげる餌の種類や、時間、水温をマリーさんから教えてもらうことがあった。魚の寿命が淡水と海水でずいぶん違うことも、そのときに教わった。
『金魚を飼ってたのは、いつごろから』
『わたしが入部したときにはもう、金魚を飼っている水槽がありました』
おそらく、その先輩は金魚の寿命が三年ほどだと知っていたのだろう。もしかしたら、彼が入部した時期と一緒に飼い始めたのかもしれない。
三年というのはつまり、その先輩が在学中に金魚は寿命を迎えてしまう可能性が高いということだ。
『その先輩は、情を移したくなかったんだ』
『あんまり、ピンときません』
無意識に彼女の言葉を借りる。
『きっと、自身の七十パーセントに入れるのが怖かったんだよ』
すらすらと、今までにないくらい僕はスムーズに言葉を繋げることができた。
自分のことのように語れたのが、不思議と胸に落ちた。
『先輩らしいなあ』
Rが自身の肩を抱いて震える姿が、文字を通して伝わってくる。
『……先輩、シンバルは叩くことよりも引き離しかたの方が大切なんだってよく教えてくれました。同じように離さないといけないって、片方が引っ張られたらダメなんだって』
なぞっていた指が文末で止まる。途端、文字が滲んだ。
便箋の上に透明な雫が落ちていた。最初はそれが何なのか分からなかった。天井から落ちてきたのだと思った。
顔を上げると、呆けた顔で泣き顔を晒す男がフィルムガラスにぼんやりと映っていた。僕だった。
何かが僕に追いついて胸が激しくうずいた。空想上のものではない、はっきりとした痛みだった。そして、喉をせり上がってくる憤り。
どうして彼女ばかりを傷つけるんだという怒りでどうしようもなかった。義憤とも言えないこの独善を、どこに向けたらいいかも分からないまま、頭を掻きむしりながら抱えた。
Rの一言一句が、胸に刺さって抜けなかった。彼女から送られてくるどんな手紙を読んでも、そこには腐ったような諦めが散りばめられている気がしてならなかった。僕に対しての諦めだ。
どうせ、分からないでしょ。そんな風に思われているのかもしれないと思うと、息もできないほど苦しい。胸に穴が空いているんだ。だから、こんなにもやるせなくて辛いんだ。
Rと文通するなかで、僕は彼女を理解したいのではないかと考えたことがあった。
そして、それはRが先輩を想う姿と同じなのではないかとも思った。
しかし、僕と彼女は根本的に違っている。当たり前だ。僕らは、男と女で、ホテルマンとゲストで、生まれた年も、親も、そして場所も違う。
そういう当たり前に気が付いた。
きっと僕は、彼女を理解したいのではなかった。知っていたいだけだ。その一挙一動にどんな意味があるのかを、遠くから観察していたい。それだけだった。知らないことはおぞましいことで、恐ろしいことだから。
彼女の顔を見たいわけではなかった。きっと、歩み寄りたいわけでもなかった。だからきっと、僕の憤るすべては自分自身がためだった。
『ねえ、受付さん』
なに、と。手紙を読みながら勝手に口が動いた。
『次にここへ来るのは新年に、なりそうなんです。一応、大学入試は、受けるつもりなので』
Rが受験生であることは知っていた。ただ、彼女からはそういった話を聞かないし、僕からも書かなかった。
未来から目を逸らしていた。もう時間だよと教えてくれるのは、いつの間にかRになっていた。
『……そうか。頑張って。きっと僕は、何もあげられないけれど、代わりにここで君を待つよ』
どこかで掛け違った励ましを文字に起こす。
『ありがとうございます。嬉しいです。
でもわたし、たぶんもう何もいらないんだと思います。
ただ、受付さんみたいになりたいんだと思います。
だから、こんなわたしを待たなくていんですよ』
便箋の下に沈む、折れ曲がった三枚の千円札が、動きかけた筆を止める。
その日、Rも僕も宿題を出さなかった。
お互いに考えることが多くありすぎた。
傷つけ合いたいわけじゃないはずなのに、やり取りが終わったあとの僕らはお互い傷だらけだった。
Rがエレベーターから降りてきて、201号室の鍵をキャッシュトレイに載せる。絹擦れの音。彼女は祈るように頭を下げると、波が引くようにその場から離れていった。
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