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「海のシンバル」第7話

第7話 僕ら。サン、テン、イチ、イチ。


 次の水曜日、Rは『ピシナム』に現れなかった。

 午後九時以降の清掃シフトもマリーさんに代わってもらい、受付に座っていたがRは姿を見せることはなかった。

その日はまるで大事な仕事をやり残したような気分で、タイムカードをきった。

 僕やマリーさんの入っている深夜の業務は、早朝五時に次の時間帯のスタッフたちに引き継がれる。外はまだ夜の帳が薄い膜のように広がっていて、太陽の光を拝むにはもうしばらく時間がかかりそうだった。

 梶栗郷に深夜営業のカフェなどはない。街唯一のインターネットカフェは経営悪化のため数年前に廃業し、今ではコインランドリーと精米所が並んでいる。ほとんどの居酒屋は深夜一時がラストオーダーというなかで、駅近くのコンビニエンスストアだけが、仕事終わりの男女を温かく迎え入れてくれた。

始発の電車が走るまで、コンビニで買った缶コーヒーを僕とマリーさんは店先のベンチでちびちび飲んでいる。

 この時間はお互いしゃべらない。ホテルマンだった僕らは、熱くて苦いコーヒーを飲んで、ゆっくりと氷を溶かすように現実の僕らへと戻っていく(ホテルマンの僕は、何者でもない僕に戻る)。

 まるで何かの儀式のようで、お互いにその時間を邪魔することは今までになかった。

「ねえ、磯辺クン」

 だからこそ、マリーさんが話しかけてきたのは予想外だった。

「……なんでしょう」

 遅れ気味のリアクションに対して、彼女は気に留めることもなく続ける。

「夜は好き?」

 質問の意図を理解できず、手に持った缶コーヒーに視線を落とす。缶コーヒーは何も答えてくれない。マリーさんが代わりに喉を鳴らして笑った。

「ああ、いいよ、話さなくて。磯辺クンはね、きっとこう言うの。夜を好き嫌いで考えたことなんてないですって。あー、つまんない。磯辺クンは、つまんない男の子だ」

 いかにも僕が答えそうなことだ。マリーさんの冗談交じりの軽口も、どこか親しみのようなものを感じる。

 その日の彼女はずいぶんと饒舌だった。

 マリーさんは、美しい話をしてくれた。駅前にぽつんとあるジャズ・クラブ、夜にだけ店を開く花屋さん。それは世間一般で言われる美しさとは違う。どの話の終わりにも「もう少し夜だったら、連れていってあげるのに」とおかしな決まり文句が付いて回る。じきに訪れる朝焼けを目の前にして、すでに僕らは次の夜を待っている。座ったまま、どこに向かうわけでもないのに、明けていく空を見上げると、この時間がどことなく名残惜しい。

「夜ってさ、朝や昼にはない感情があるって私は思ってるの」

くいっと、マリーさんはお酒でも流し込むように缶コーヒーを傾ける。

「魔が差すっていうのかな。ああ、一夜の過ちって言葉もあるよね。『ピシナム』のお客さんだって利用するのはほとんどが夜だ。磯辺クン、人はね、夜に間違いを犯したくなるの。そういう心がね、夜はお花みたいに咲いて、朝にはとろりと枯れるの」

 その語り口調は、眠れない夜に意味もなく垂れ流すラジオ番組を彷彿とさせた。

「あは。リスナーは磯辺クンか」

 そのようなことを伝えてみると彼女は嬉しそうに、飲み終わった空き缶を僕との間に置いた。

「私にも、お手紙くれてもいいんだよ」

 結果として、僕に怒りや恐怖という感情は芽生えなかった。

 まったくの不意打ちであり、突然に首根っこを掴んでくるような指摘に驚きの方が勝っていたのかもしれない。

「あの女子高生のこと、わたしが知らないとでも思ってたの?」

 黙りこくる僕に、マリーさんは追撃の手を緩めなかった。

 Rが女子高生であることに気付いている。

 言葉にはならないほどの動揺だった。それと同時に、知っていながらどうして追い返さないのかという不自然が口をついて出ていた。

 彼女は一時沈黙した。長い沈黙ではなかった。そして前触れもなく、僕の左胸に彼女のすぼめた五指が触れる。すると、白いワイシャツの生地をくすぐるように指を広げた。

「ほら、夜が咲いてる」

 はぐらかすように笑って、彼女はお尻のポケットから取り出したタバコに火をつけた。


「気づいてたんですか」
 だったらどうして追い返したりしないのかと尋ねると、彼女はふぅーっとシャボン玉でもふくみたいに息を吐く。
 ほの暗い夜の空気に、煙の白がよく映えた。

「追い返したよ。若いうちにこんなところに来るんじゃないって。でもね、あの子はけろっとした顔で必ずホテルに来る」

 一時遅れて届いた回答が、致命的なミスのように感じられた。

 マリーさんは煙を吹くと、嘆息した。

「あの子に、あんまり深入りしないほうがいいよ」

「……深入りなんてしてませんよ。声だって、かけてない」

 嘘は言ってなかった。僕は彼女の顔も知らない。知っているのは、少しの文字だけだった。

 缶コーヒーを持つ手に力が入る。

 マリーさんは僕の言葉などに耳を傾けなかった。

「それでも、あの子だけはダメ。やめて」

 重く、硬い。実感がこもった口調だった。

 二人だけのベンチで空いた距離は、扱いが難しかった。これ以上遠いと他人のようだし、近づくと親しい間柄のように見える。

 だから僕はマリーさんの方へ身体を向けることなく、そのままの距離で問いただした。

「だから、どうして、あの子がそんなにダメなんですか。かわいそうじゃないですか」

「あの子は、ダメよ」

「だから、どうしてなんですか」

 語気が強くなる。
 僕らは同じところをぐるぐると回っていた。

「……私ね」

 マリーさんは、その後何度か低く沈んだ声で「私ね」と繰り返し呟いた。

「私、あの子に注意したことがあるよ。来るんじゃない、入ってくるんじゃないって。でも、あの子に、帰りなさいって、なんでか分かんないけど言えなかった」

 マリーさんは缶コーヒーをベンチに置いて、短くなった煙草を胸ポケットにしまってあった携帯灰皿に押し込んだ。そして新しい煙草に火をつけると、唇にあてがい長く息を吐いた。白い煙が頼りなく、辺りを漂う。

「あの子にとってはあの部屋が家なんだよ、きっと」

 シュルシュルー。と、気送管ポストにカプセルが落ちる音が、耳の奥で響いた気がした。

「あの、マリー、さん」

 言葉がつまる。

「二年前の、三月十一日って、どうしてましたか」

 できるだけ自然な声音を出そうとしたが、舌がうまく動かなかった。

「二年前って……サンテンイチイチの日?」

三月十一日と言うのと、サンテンイチイチと聞くのでは、持つ意味がまったく異なるように思えた。

「……それが、どうしたのよ」

 呼吸を、僕から奪うような寂しさだった。

 あえて避けていたその音を、唐突に突き付けられた僕は動けなかった。

 それがどうした、と。何気なく口にできるほど、僕たちの間で『あの日』の風化は浸食し始めていた。その現実が、Rと僕の間にある遠く離れた距離を暗く照らした。

 マリーさんは「あの子に関係あるの?」と訊いてきたが、僕の無言で察してくれたのか深く追求してはこなかった。

「夜に『ピシナム』の仕事が入ってたから。子どもを保育園に預けてる間は寝てたと思う。そうね。夕方ごろに目が覚めた。急いでて、携帯を持っていくの忘れちゃったんだよね。子ども迎えに行く途中の……。ほら、商店街のとこに電気屋さんがあるでしょ。あそこの店先に並んでたテレビを見てさ、大変なことになってるなって思ったのが最初かも。同じシフトになったパートさんとかに、大変なことが起きたねえって話したよ」

 マリーさんの話を聞いていて、そしてその続きを待っていたが口から出てくるのは、話の続きではなく煙草の煙だけだった。

「それだけ……ですか?」

「それだけだったよ」

 まるで肩透かしをくらったかのようで、聞き返すとマリーさんはまるで自虐的に笑った。

「私が寝ている間に数万人が死んだなんて信じられないくらい空は晴れ晴れとしていたし、梶栗郷の海は子どもが遊べそうなくらい静かだった。とても同じ世界に住んでるとは、思えなかったわ」

 でもね、と。自らをかばうように、マリーさんは言葉を並べた。

「テレビってよくないって思った。ボタン一つで津波の映像があんな簡単に流れちゃうのは、違う意味でショックだった。現実味がなくて。今でもね、映画やドラマみたいに感じている自分がいるの」

 すべてではないが、マリーさんの言っていることは納得できるところもあった。

僕にとって東北の地は外国となんら変わらなくて、だからRがすべてを失った三月も、慌てたふりしてどこかのほほんとしていた。

 それに、マリーさんの話を聞いて心のどこかでほっとしていた。

自分だけではないのだという、言い訳がむくむくと膨らんでいく。

 なんとかそれを誤魔化そうと、話題を無理に変えた。

「す、みません。変なこと訊いてしまって。……今日は清掃シフトまで変わって頂いて」

「別にいいよ。ルームメイキングも嫌いじゃないし」

 手をひらひらと振って返してくれる。

 マリーさんはベンチから腰を上げて、足早に歩き出した。時計を見ると、始発の時間がせまっていた。

僕はベンチに置きっぱなしになっていた二つの缶コーヒーのうち、マリーさんが飲んでいた缶だけをゴミ箱に捨てて駅へと歩きだした。

「磯辺クンはさ、もっと私の分かる言葉で喋ってよ」

 薄紫色の空が白く解(ほど)けていくのを眺めながら、マリーさんの二歩後ろをついていく。

「自分だけがわかればいいなんて言葉じゃ、誰も抱きしめてはくれないよ」

 そのとき足元が揺れた気がした。けれどマリーさんを見ても佇まいに変化はない。揺さぶられたのは僕の心だった。それほどまでに、彼女の言葉は的を射ていた。

 自他の間へ悪戯に壁をつくり、都合の良い存在だけを招き入れるような人間が、今さらRに何ができると言うのだろうか。

「私は、磯辺クンがこれ以上あの子に近づくのは反対」

「……僕は、近づきたいわけじゃないんです」

「自分から傷つきに行くなって言ってんの。そんなの、相手も迷惑に決まってる」

 僕の方を振り向いていたマリーさんからは、まるで頷いているようにでも見えたのかもしれない。

「それでもあの子のことを知りたいなら、磯辺クンも自分のことを話さないとでしょ」

 マリーさんは厳しくも、柔和に諭した。

 ホテルマンだったマリーさんもまた、一児の母の顔を取り戻していく。

 誰もが幾つもの役割を担っていることが当然の世の中は、いともたやすく僕を取り残して回る。後味の悪いコーヒーの苦みが僕に訴え、重たい足を動かす。

 背中よりずっと後ろで、空き缶がアスファルトに落ちる音がした。カラカラと、言い訳ばかり並べる僕の背中を嘲笑っているようだった。

 立ち止まりはしたが、振り返ることはできなかった。

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第8話

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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