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"善きこと"が決められる世界 -レジ袋有料化から-

寝耳に水のレジ袋の有料化。こんな時代にあって、惜しげもなくレジ袋をタダでばらまきまくる近所のスーパーがあった。その「我が道を行く」的なぶっきらぼうな姿勢が好きだった。

でもそんなスーパーも、ついに有料化。。そりゃそうか。。。

有料化が目指すのはレジ袋の削減だろう。それはきっと地球環境のためなんだろう。そしてそれは、持続可能な社会を目指すためのステップなんだろう。

「そんな些細なことで、本当に地球環境は救われるのか?!」とかいいたい気持ちもあるが、それはひとまず置いておこうと思う。ここで書きたいのは、より根本的で伝わりにくいことだ。

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持続可能な社会を目指すために、人にレジ袋の削減を強制する社会とは、いったい何を目指す社会なんだろうか。逆から言えば、日常の些細な行為すら規制しないと達成できない社会とは、いったいどのようなものなのか。

凶悪犯罪を防ぐために、人と人が直接顔を合わせないような社会を作ろう、という展開を考えれば、それがどれくらい狂気に近いものかわかると思う。そしてレジ袋の有料化とは、まさしくこの狂気に近いものだと思う。

人の自由とは、即ち選択のことである。そして人生において最も大事なことの一つは、"愛する人"や、"善いと思うこと"自らが選べることにあるはずだ。他人に妨げられることなく、これらに関して日々くだされる些細な決定は人の尊厳の源であるはずだし、それ故に選択の放棄は尊厳の放棄と同義である。

たとえ刑法であっても、この真理を妨げることはできない。法律は尊いものだが、しかしそれでもそれは「その社会でおおよそ間違っていると思われてそうな行為」を規制しているだけであり、一種の社会的フィクションである。だから法律がダメだというのでは決してなく、人が作り上げる以上、そうならざるとえないというものである。

そして人の尊厳は、そんな法律を超えうる。人殺しが犯罪であったとしても、いろんな事情により強い思いで復讐を誓ったものが、相手を滅ぼしてそれを達成したとき、彼がそれによって尊厳を達成する可能性はある。

例え社会的に許されないとしても、それにも関わらず、自分の中の何かしらの強い信念に従って行動した者は、その自由な選択によって尊厳を勝ち取るというのは、当然にあり得ることである。社会的な制裁を甘んじて受け入れる場合なら、それはなおさらだろう。人間の意志は法律を超えうるものである。

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話を戻して、レジ袋まで規制しなければいけない社会とは、何を目指すものなんだろう?そしてそんな社会に生きる人間とは、どんな生き物なんだろう。その根底にあるのは強力な他者への不信であり、それが招くのは人の尊厳の放棄である気がしてならない。

きっとあと50年もすれば、日常の些細な振る舞いまで細かく定められ、きちんと教育された人間ばかりになるのかもしれない。そうしたら当然、今さら人間なんて不要じゃない??だってロボと一緒じゃん!、という話になると思う。

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