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25年間の呪いが解けるまで(或いは解ける途中のこと)

はじめに 


数ある投稿の中から、この記事を目に留めて、この画面まで来てくださってありがとうございます。

この記事は、私のこれまでの人生の振り返りです。私は今年の3月に転職と上京をして、さてこれから人生どうすっかな…という段階なのですが、そこに至るまでの出来事を一度棚卸ししたいなと思って、この記事を書きました。
自分がどのように自分を振り返るのか、それを言語化したらどうなるのか、自分用に書いた内容です。そのため教訓も何もありません。私が今まで誰にも話せなかった(これから先も多分話すことは無い)胸の内を整理しつつ、しかし感情のまま書いているので、ひたすらに暗くてジメッとした内容です。毒にも薬にもならない内容ですが、もし読んでくださる方がいるのだとしたら、お時間をいただいた分の、そのほんの少しでも琴線に触れるものがあったらいいなと願っています。

不快な思いをさせてしまったらごめんなさい。そのときは、すぐにブラウザバックして、他の素晴らしい記事に目を通し、こんな記事のことは早々に忘れていただければと思います。よろしくお願いいたします。

1.生い立ち~中学時代


私の家は小さな建設会社を営んでいた。
祖父が立ち上げた会社は、一人娘だった母が婿養子をとって継ぐことが決まっており、その間に生まれたのが私だった。祖父は早逝してしまったから、同居する家族は母方の祖母・母、私、そして父の4人家族。家が自営業という点で私の生い立ちは他の家庭と比べてやや特殊だったけれど、それ以上に変わっていたのはこの父親だった。

一言でいえばろくでなし。モラハラ男。長所と言えば、酒とタバコとギャンブルをやらないことだけ。こう書くと、酒乱やギャンブル依存症の親を持つ方は「まだマシじゃないか」と思うかもしれないが、逆にその「マシさ」加減が、私を25年間苦しめる原因になっていたのだと今ならはっきり言える。

だだ、いくら「マシ」と書いても、父親が変わり者であることに違いは無い。父はいつだって私と母、祖母に影を落とす存在だった。家族が少しでも自分の意にそぐわない態度を取れば途端に顔色を変える。暴れ出して手が付けられない。母が「子どもの前でやめてよ!」と叫ぼうが祖母が土下座をしようが私が泣き出そうがお構いなし。それどころか「そうやって俺を悪者にする」と被害者面をしてくる。自分の機嫌が悪い時は家族の誰とも口をきこうとしない。母が「夕飯食べる?」と歩み寄っても真っ青な顔とぎょろついた眼、鬼のような凄みで「いらねぇよ」と突っぱねる。物にあたる。父のそういう態度に少しでも反抗しようものなら再び罵詈雑言の嵐が吹き荒れる。そのうちまた暴れだす。そんな感じだったから、私たちはいつも父の顔色を窺っていた。

父の勤務先は実家の隣にある工場だったから、お昼ご飯を食べに家に帰ってくるなんてこともザラで、逃げ場がない。父のパワハラで辞めていった社員さんの仕事の肩代わりをしていた母は四六時中気を張っていたし、学校に行っていた私も、帰り道はいつも「今日はお父さんの機嫌悪くないといいな」と思いながら帰宅していた。
さながらガチャだ。父のご機嫌ガチャ次第でその日平穏に過ごせるかが決まる、そんな家庭。私たちが本当に息をつけるのは、内弁慶で友達がほとんどいない父が、唯一交友のある幼馴染とともに出かける、忘年会を兼ねた飲み会に年に一度出かけている時だけだった。

そんな環境で育ってきたから、私にとって父親は常に憎悪の対象だった。この男と同じ血が流れている身が汚らわしくて仕方なかったけれど、リストカットなどの自傷行為は、怖くてできなかった。
それならいっそ手にかけてやろうかと、某国民的小さな名探偵が活躍する漫画で学習した知識で、何度も何度も頭の中でシミュレーションをしたこともあったけど、やらなかった。出来なかった。 

そういう自分のことを、当時は心底意気地無しだと思っていたし、本当に嫌いだった。(だいぶ和らいだが、実は今でもそう思っている節がある)。
どれだけ父親を憎んでいても、私はあの男に扶養されていて、あの男の稼ぎ無しでは生活できない弱者。役立たず。そんな私はせめて「良い子」でいなければ意味が無い。存在していてはいけない。
良い成績や、得意の絵でたくさん賞を取らないと、真面目でいないと。先生に褒められる子でいないと。
そういう私でいないと、お母さんもおばあちゃんも笑ってくれない。
いつもどこか辛そうな2人だけど、本当はそんな顔してほしくない。そういう2人の姿を通して、自分が無力だと突き付けられたくない。
役立たずの私が、せめて何の心配もなく周りに褒められる良い子でいないと、2人は壊れてしまうかもしれない。それだけは嫌だ、絶対に嫌だ……。
そういう強迫観念のようなものがいつもあったからか、母に聞くと、小学校~中学校時代の私は、本当に手がかからない子だったという。
子ども部屋はいつもきれいに片づけられ、明日の授業に必要なものから、明日着る服まで前日にきっちり用意して寝る。我儘も言わない。周囲からは「本当にしっかりしてるわねぇ」と口々に褒められる、そんな「良い子」だった。

そのまま中学校に進み、部活動も「良い子」の仮面を被ったまま切り抜け、地元ではそこそこ有名な進学校にすすんだ。しかし、このあたりで風向きがおかしくなった。


2.暗い思い出、高校時代



端的に言えば、ストレスで潰瘍性大腸炎になった。
安倍総理と同じ病気と言えば、もう少しわかりやすいかもしれない。国の特定難病疾患に認定を受けているだけあり、原因不明の病であるが、そういう病の原因には往々にして同じ単語が挙げられる。
「ストレス」だ。

当時何があったか?
つらい日々が長く続いたからか、記憶が曖昧なのだが、高校の雰囲気に馴染めなかったことはぼんやり覚えている。
仲が良く、一緒に進学した友人は、既に進学塾でのつながりを持って新しい友人を得ていたし、その子とはクラスが別だった。
学校の中で「クラス」という括りは大いなる力を持っている。
友人同士クラスが一緒なら仲良くなるし、別なら疎遠になるのはよくある話で、私の場合、誰も知り合いがいない中で一から関係性を作ることになった訳だが、そこで盛大につまずいた。既に中学からグループが出来上がっていた子たちが集まっていたクラスに、私は全く溶け込めなかった。

一応これでも、努力はした。話しかけられそうな子に頑張って話しかけてみて仲良くなろうと努力してみたけれど、その子は私に最初から興味が無いようだった。それでも惰性と打算で、しばらくは話相手になってくれていたが、そのうちクラスの中でも一匹狼気質のギャルに懐いて、私が話しかけても目に見えてしらーっとした反応を返すようになった。
確かに見るからに地味で特段可愛くも無く、面白い話もできないへらへらした女よりも、かっこいい感じのギャルとつるんでいた方が、クラスの中でも一目置かれるし、楽しいだろう(実際そのギャルはかっこよかった)。

そうしていくうちにどんどん学校に居場所がなくなって、お昼休みは図書室の隅っこで過ごすことも珍しくなくなった。遠くから聞こえる楽しそうな声が耳障りで、本当につらかった。
そんな状態だったけれど、学校に行かないという選択肢は無かった。家にいても心が休まらなかった。
更年期を迎えた母は前にも増してカリカリイライラしていて、その面を父に見せられない分(父は母が疲れた顔をするのも許さなかった。曰く『家にいるお前が疲れるわけがない、そんな顔して俺を責めているつもりなのか』とのことで)私が愚痴を聞く係になることも増えていったし、老いた祖母はほぼ寝たきりになっていて、その介護も始まっていた母は、本当に疲れていたのだと思う。
ただ、それより先にガタがきたのは私の方だった。それだけのことだ。

振り返ると、一旦高校を辞めて、違う高校に入り直す…という選択肢もあったように思うのだが、当時の私には全くその気は無かった。母から提案を受けても、頑として首を縦には振らなかった。
だってそんなのは「良い子」じゃない。だから自分がその選択肢を取るなんてことは、全くあり得ないことだったのだ。

そうしてつらい思いをしながらも、高校3年間は過ぎていった。
居場所を求めてTwitterを始めたり(本当に救われていた、感謝しかない)、「面白キャラ」で女子高ヒエラルキーの中間あたりに食い込むことを覚えたり、過食で20キロくらい太ったり、色々あったけれど、ついに迎えた卒業式は、涙が出るほどうれしかった。
やっとこの監獄から抜け出せる。そういう達成感や爽快感があった。

「楽しかったよね、あのクラス。この学校で過ごせてよかった!」口々にそう言いあい、和気あいあいと卒業式後のクラス会の打ち合わせをする同級生の合間を縫って、私は帰途についた。最後まで、何もかも好きになれなかった高校で過ごした3年間だった。

高校で友達をつくるにあたって、部活動とかサークルに入ればよかったのだとは思うが、中学校で内申点のため入った吹奏楽部で、そういう活動に関しての熱心さは燃え尽きていたし、母の「好きにしていいんだよ」という言葉を実行する「良い子」になろうとしていたのだと思う。
この意識は大学の進学先を決める時も働いていて、学部は「文学部」に決めて、上京することは確かに自分の意向だったけれど、「こうすれば母は満足してくれる」という予測の元、母にあまり心配をかけず、反対をされない範囲内で、かつ自分の行きたいところ…と考えた末での選択だった。
やっぱりここでも基準になっていたのは、母のいう「好きに生きている」風に見せかけられる「良い子」でいることだった。

本当は美大とか、専門学校とか、そういうところに行きたいなという気持ちがあったけれど、あれこれ理由をつけてやめた。だってそれは「良い子」の取る選択肢ではないのだから。


3.大学時代~就職、期限付きの楽しい日々


大学は楽しかった。好きな勉強を心置きなくやること、親元を離れることがこんなに解放感のあることだと知らなかった。
バイトを始めた。あの男の稼いだ金ではなく、自分で稼いだお金で好きなものを買えるのがたまらなくうれしかった。
家賃や生活費の仕送りをもらう自分のことは、やっぱり嫌いだったけれど、間違いなく人生で一番楽しい時間だった。そう思おうとしていた。「上京をさせてもらった」という「良い子」ならではの思考回路により、私は「送り出してもらった東京での生活を謳歌する大学生」を必死になって演じきっていた。
ただ、その時間も終わる。就職活動の時期になったのだ。

就活生の私にとって、企業選びの前に頭を悩ませたのは「実家に帰るか/帰らないか」の選択だった。
私の気持ちとしては、帰りたくなかった。
色々思うところはあれど、東京での暮らしは楽しかったし、大学でやっとできた数少ない友人も首都圏にいる。しかし、母が私の地元就職を希望していることは明らかだった。
「好きにしていいんだよ」とは言ってくれていたが、どう考えてもそうは思えなかった。その頃の母は祖母の介護にかかりきりで、毎日毎日その愚痴や、父の仕打ちの話をLINEで聞いていた。
物凄い長文で埋め尽くされるトーク画面。
「しにたい」と言う母の傍にいられない自分への嫌悪感、母を喪ってしまうのでは無いかという恐怖。
周囲が着々と進路を決めていくことへの焦り。
ゼミでの人間関係もうまくいっていなかった。
バイト先でもいざこざがあり、そこでも周囲に溶け込めていない自分がいる。
私は着実に追い詰められていった。

教師になる気はほぼ無かったのに「資格は取っといた方がいい」という母の言葉を受けて行った教育実習が、さらにまずかった。
生徒にしょげきった姿を見せるわけにはいかないし、「教育実習生」として、大学生活を謳歌しているお姉さんを演じきった私は、明らかな燃え尽き症候群になっていた。

そういうアレコレがあわさって、気が付いたら日常的に死にたくなっていた。這うように行ったメンタルクリニックでは「うつ病になりかけてますね。今のあなたは抑うつ状態です」と言われた。

こうして書き出してみると「いや休めよ」と自分で自分に突っ込みを入れたくなるが、あくまで「良い子」でいたい私は、そうもいかない。
自分を誤魔化しながら、開き直ったふりをして就活して、なんとか地元の小さな企業に就職した。
母の顔には「せっかく東京の大学に出したのに、働く先はこんな小さな会社なの?」とうっすらと不満がにじんでいた。気がした。親として子どもへの投資をおこない、そのリターンが少ないのはそりゃ不満だろう。それはわかる。ただ、私のアイデンテティは母にとって「良い子」でいることだったので、正直かなり傷ついた。
でもやっと見つけた職場だったし、田舎では珍しい事業をおこなっている会社ということもあって、自分で望んで入った。最終的に決めたのは私だ。これははっきり言える。

で、この職場がまたひと癖あって、最終的に退職の際法の専門家を頼ることになるのだが、今回の主題である「25年間の呪い」には直接的に関係ないため、割愛させてもらう。

最悪だったのは、退職にあたって起きたひと騒動の際に我が家でも過去最悪の事件が起こったことだ。


4.分岐点、呪いの自覚と解放


その事件とは、端的に書けば以下になる。

  • 暴れる父親に母と自分がころされると思った私が、警察に通報した。

  • その後親戚の家を頼って母と私が家出をした。

箇条書きにするとたったこれだけのことなのだが、間違いなく私の人生のターニングポイントとなった出来事だった。25年の呪いを自覚したのはこのときだ。

その日の朝を迎える前の晩、父はいつにも増して機嫌が悪くて(基本的に仕事嫌いの父は平日いつも機嫌が悪い)、私はその事にゲンナリしていて「明日は機嫌よくなってるといいな」と思いながら眠りについた。その願いも虚しく、私はその日の朝、父の怒号で叩き起されることになる。

時刻は6時頃だったと思う。2階の部屋の自室の扉を通してもハッキリと聞こえた怒号に慌てて階段を駆け下りると、玄関で父と母が言い合いをしていて、父が手にしたクリームパンを母に投げ、スリッパで母を叩いている最中だった。ぐしゃ。ばん。繰り返される嫌な音。わめく父の脇にはボールペンなどの硬く鋭い筆記用具もあって、私はそれらが、凶器になることも知っていた。私が頭の中で日頃から父に向かって何度も振り下ろしていた武器はそれらだったから、その連想は、私の中では当然のものだった。ころされる、そう思った。私の記憶はそこで途端におぼろになっている。

はっきり覚えているのは、半狂乱の父とうずくまる母の間に立って、泣きわめきながら父に怒号をぶつけていたこと。
番号を間違えて119番で押してしまっていたので、救急隊の方が来てしまったこと。
父が「てめぇ通報なんかしやがって、これで俺のところに仕事が来なくなったらてめぇのせいだからな」と捨てセリフを吐いて職場に逃げていったこと。
母に「ころされる、ころされる」としがみついて泣いていたこと。
後から駆けつけてきた警察の方に「お母さん、娘さんは相当追い詰められてます。先程聞きましたが、『前々から父親が怖くて家に帰るのが怖かった』っていう状態は、普通じゃありません。どなたか親戚の方に頼れる方はいらっしゃいますか?そこにしばらく身を寄せることも考えた方がいい」という言葉を貰ったこと。
そうして、母を説得し、家出をすると決めたこと。
断片的ではあるが、記憶を整理すると、これが家出までの経緯になる。

家出をした先は、ほぼ絶縁状態にある父方の親戚の中で、唯一母が時々連絡を取り合っており、私もまともに話したことがあった叔母だった。
叔母の夫は当然私にとっては叔父にあたる人で、すなわち家の中で自分が起こした惨状を放置して仕事に逃げて行った憎きあの男の兄にあたる人な訳だが、他に頼れる親戚もいなかったから、叔母の「ウチに来ちゃいなよ!」という言葉に甘えることにした。
間違いなく、あれは真っ暗闇の中に差し込んだ光で、当時の私たちの唯一救いになった言葉だった。

それからは怒涛だった。
自営業をしている以上、父はサラリーマンと違って時間を自由に使えるから、いつ家に帰ってくるか分からない。私たちが家出をすると知ったら逆上してくるのは目に見えていたから、私たちは一秒でも早く家を出る必要があったのだ。
よく晴れた日、初夏の日差しの中で荷物を必死に車に詰め込む様は、時間が時間だから、引っ越し作業に見えていたかもしれないけれど、やっていることは夜逃げも同然だった。
私はあの男への恐怖に怯えながらも、どこかフワフワした心地でいて「この先どうなるんだろう」という不安に駆られながらも、一種の爽快感をおぼえていた。
たぶん、私はこの家から、あの男からずっと逃げたかったのだ。
そう思えたことさえ、ひとつの発見だった。

到着した先で、叔母は私たちを暖かく迎えてくれた。「アンタの弟が暴れて逃げてきたんだ、兄として話すことあるだろう!」と面倒ごとから逃げ出したそうな叔父を叱り、叔母自身も、母と私の代わりに、あの男と電話で話してくれた。(あの男は叔父にも叔母にも全く取り合わず、ひたすらに電話口で怒鳴りつけるだけだったが)
そうしているうちに真夜中になり、叔父と叔母にこれまでの経緯や話し切れていなかったあの男からの仕打ちを告白していた母をひとまずおいて、私は先にお風呂をもらうことになった。そのとき、ずっと泣いていた私を抱きしめて、叔母が言ってくれた「いいんだよ、親戚なんだからそんな遠慮しなくたって。大丈夫。だからもう泣くな!!」と力強く言ってくれた、あのぬくもりのありがたみを、私は一生忘れないと思う。

そうして寝る間際になって、私はようやくひと心地つけた感じがした。
ウォンウォンと頭の中で響いていたあの男の怒鳴り声や物音も、やっと鳴りやんできて、あの男へ抵抗した際にできた擦り傷からの血も止まっていて、確かに私は、これから前を向けるような、そんな心地がしていたのだ。

だから、次の朝どうにか出勤した際も、上司からのいじめに耐えつつ仕事できたし、叔母の「仕事なんて選ばなきゃいくらでもある」という言葉に勇気づけられていたから、「母と私がこれから先住む新居を探そう」と思えていた。だから全く予想していなかった。伯母の家に帰宅したとき、母から「明日、家に帰ろう」と言われることを。

その時の絶望感ときたら、凄まじかった。テーブルを挟んだ向かいの母と同じく、椅子に座ってるはずのに、足元がおぼつかなかなった。
底なしの落とし穴にはまったかのような浮遊感が気持ち悪くて、何にも言葉が出ない。慣れ親しんだ母の声、言葉が何も理解できない。
この人は何を言っているんだろう?あの男の元に戻る?私が、娘が、こいつにころされるかもって思って、やっとの思いで逃げてきたのに?ひょっとして、信じたくないけど、頭がおかしいのか?
母の隣にいる叔母に通訳してもらいたいくらいだったけれど、どこか気まずそうに俯いている彼女はきっと母の決定を既に受け入れていて、私の味方にはなってくれないだろうということはその表情を見れば明白だったから、早々に諦めた。
そうして少しづつ現状に頭が追いつくようになって、まず最初に出てきた言葉は「どうして」だった。

やっと、あの男から逃げ出せる。あの男と縁を切って、母と私、2人で新しく始められる機会が巡ってきた。こんなチャンス二度とない。もういいだろう、私たちは十分耐えた。私はもう働ける年齢になっているし、まだ母も動ける。2人で頑張って働けば暮らしていくことだってできる、叔母も協力するしこの家にしばらくいてもいい、なんならそんなこと気にするなと言ってくれた、それなのにどうして。私は繰り返し繰り返し母にそう訴えたけど、彼女の決心は固かった。祖父から受け継いだ土地の権利の問題や家のローン、母の持病、そして私に苦労を背負い込んで欲しくない、という理由を、激昂する私とは対照的に淡々と話した。強い意思が宿った声と、目をしていた。

その時に、本当に恥ずかしい話だが、私はやっと確信できたのだ。母と私の人生は別物であり、私には私の人生があること。母には母の人生があることを。

私は、母が「あいつと結婚しなければよかった」と言う度に自分の存在を否定されたような気がしていて、私は生まれてこなければよかったんだな、と思っていたけれど、それは母から「そんなことは全く思ってない」と否定してもらっても消えない気持ちだったけれど、それこそ傲慢だったのだ。私は私で、母は母だった。私は彼女の人生を支配できるほどの力を持っていないし、同じように、母は私の人生を支配できないし、そもそも、そんなこと望んでいないのだ。
だって母は、常に「あなたの好きなように生きなさい」と言ってくれていたのだ。「お母さんはそう生きれなかったから、あなたにはそう生きて欲しくない。あなたが幸せでいてくれることが、お母さんの幸せなんだよ」とさえ言ってくれていた。
私はそれに対して「そんなこと言うなら、あなたももう少ししっかりしてよ。あの男から逃げて幸せになれるように努力してよ。そんな追い詰められた顔で言われても、私だけ幸せになるなんて出来るわけが無いじゃない」と不貞腐れていたけど、それこそ、母の覚悟に対する侮辱だった。
母はいつも、自分がしんどい思いをしようが、私を送り出そうとしてくれていたのに。私はそれを受け取れていなかった。受け取る覚悟が無かった。覚悟をしようとしてもいない、あまちゃんだった。

私は「良い子」という、自分でつくった枷に自分の手脚をはめて、ひたすらに自分の首を絞める、自分を追い詰める、必死な阿呆だった。
その枷の鍵は他でもない自分が握っていることにも、今まで気づかなかった。気づけなかった。
自分の首を絞める必要もなかった。自傷行為をしなくても、母は私をきちんと見てくれるし、私を愛してくれていたのだ。私が、それを信じられていなかっただけで。
ただ、それだけの話だったのだ。

25年間、私は私のことを知らずに呪い続けていた。
私をいちばん呪っていたのは私自身だった。

「なんだ、そうだったのか」、そう思えた瞬間、私の中で、何かが外れたような、解放されたような感覚があった。
25年の呪いが解けた瞬間だった。 


5.終わりとこれから


それから会社との決着をつけた私は、新しい転職先を見つけ、上京をして、ひとり暮らしをしている。
あの男はあの一件でほんの少しだけ大人しくなり(とは言いつつ異常者エピソードには事欠かない。絶対に分かり合えない人間というのはこの世に一定数存在するのだ)母は変わらずあの家で暮らしている。

母のことは気がかりだったけれど、このまま一緒に暮らしていても何も良いことは無いし、何より私の呪いを薄めるには、どうしても距離を置くことが必要だと思ったから、離れて暮らすことは迷わなかった。

こうして改めて思い返しても、本当に散々な出来事だったけれど、あの出来事があったからこそ、私は解放されることが出来たのだと思う。そうでなければ、そもそも私は自分が自分にかけていた呪いを自覚することも出来ないままだっただろう。
息苦しくて、いつも何かに追われて、怯えて生きていたことを自覚しない方が、場合によっては幸せなこともあるだろうし、実際にそう思う日が来るかもしれない。実際に前からあった希死念慮は消えないし、むしろ強くなったかも?という日もある。
ただ、やっぱりあの出来事があって、それを乗り越えて今に至れている自分のことは、「よかったね」と素直に思える。だから、まだ私は生きていけると思う。これからも、きっと。


……以上が私の人生の振り返りです。読み返してみても、本当に益体もない、どうしようも無い内容だな……と思います。
ただ、苦悩する人の言葉や、その姿は、時としてそれだけで人の力になるのではないかな、と思っています。
悩んだり、苦しんだりすることって生きるためにもがいているからそうなっているのであって、少なくとも私は、そういう方達の言葉にnoteで触れて、前を向く力を貰ったことが沢山ありました。
辛くってどうにもならなくても、それでも明日を生きねばならない、そういう誰かの助けに、私の文章もなれたとしたら、こんなに嬉しいことはありません。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました!


8月16日追記:
スキ!してくださった方、本当にありがとうございます。一部誤字の修正と、内容の追記をおこないました。

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