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読書記録|百田尚樹『永遠の0』

読了日:2021年5月22日

 本を読んで久々に泣いた。

 第二次世界大戦特攻隊の実話を元にした物語で、小説家・百田尚樹氏のデビュー作。

 歴史小説やノンフィクションものを読むといつも感じることだが、政治家や官僚の在り方、マツリゴト的な部分は過去も今も変わらない。
 高級官僚の点数稼ぎのために国が動かされている。こういった現象は武家社会でも垣間見える。
 どの時代でも、そういう世界は嫌だなぁとみんなが思ってきたはずなのに、それが現代でも普遍的に在ることに、人間が本来持っている性のようなものを感じる。

 更に現代は新聞・テレビなどマスメディアが政治と癒着し、国民への司令塔及び洗脳装置になっている。
 戦時に国民が「戦争!戦争!」と叫び続けたのは、この”新聞”というものの煽り、そして嘘に誘導されて巻き起こった旋風がその実態。
 そのため、自らそこまでの集団浅慮を引き起こした新聞社は、真実を言えなくなり、敗戦の色が既に濃くなっていても”撃て撃て放て”を続ける。
 玉音放送が敗戦を告げて、やっと国民は「日本は負けた」という実感を持った。

 そして次第に、その国民は、国のために戦いボロボロになって帰国した兵士を非難し始める…

 日本国民のこういう性質はなんだろう?と考える。
 そのあたりは、山本七平『「空気」の研究』で少し理解できた気がする。

 GHQの統治下に置かれた日本では、最終的には日本軍は”戦争責任”を問われ、不当に裁かれた。
 「戦犯」などあるものか。
 もし日本軍が「戦犯」なのだとしたら、民間人を核で木っ端微塵に虐殺したアメリカはどうなんだ?包囲網を作った国々は?ヤルタ会議の参加国は?
 個人的にこのあたりには怒りを覚える。
 東京裁判で唯一、「被告人全員無罪」を主張したインドの法学者でもあり裁判官のパール判事(『パール判事の日本無罪論』)をなぜマスコミはしっかり取り上げなかったのか?
 どこか、誰かに敗戦の責任を負わせたかったからに他ならない。

 今この時代に生きてる私たちは第二次世界大戦というものを目の当たりにはしていないし、それを語り続けてきた世代の方々も現在は多くはいない上に、直接お話を聞かせてもらえるような距離感と関係性にない。
 ゆえに、このような本でしか当時の風景を知ることもできなくなってきた。
 著者の百田尚樹氏は、ご親族の戦争経験者から様々聞いたことも参考にしながらこの小説を書いたそうだ。

 私の祖父も戦地へ行ってはいたようだが、それを知ったのは他界した後で、生前知ったとしても私自身が幼すぎて、戦争のことなど聞こうとしなかっただろうと思う。
 今になって「聞いておきたかった」と思っても時既に遅しだ。

 このテの話をすると熱を帯びてモメる人がいるが、戦争、日本と諸外国との衝突については、人によって様々な解釈や感情があって、それらを多角的に知ることが大事だと私は思う。
 それを知った上で自分はどう感じるか、ということを自覚することが大切なのであっで、その価値観を持ってして他人とモメることではない。
 ただ自分の主張を相手に強要しても何も生まれないし、むしろその好戦的な態度は、自分が小さな戦争をそこらじゅうで巻き起こしていることになる。

 戦争で”特攻隊”と称され、命を賭して(”散華”とは言うがそんな美しいものではない。が、せめて敬意を持って美しい表現を用いたい日本人の心がそこにあるのかも)、この国の土地と民族をなんとか残してくれた先人に、改めて感謝の気持ちが溢れてくる。
 そんな風に、この本は読み手の心を促してくれる。

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